呼び方
「明日香はもう部活決めた?」
乗客の迷惑にならないように、美優は小声で訊ねた。
朝の電車内は混沌としている。我先にと、多くの人が他人を退けながら強引に進もうとする。殺伐とした光景を見て、もう少し余裕を持って行動すればいいのにと明日香は思わずにはいられない。
美優とは最寄駅から通学ルートが一致していたため、明日香は毎日のように登下校を共にするようになっていた。
「一人だと何かあった時に大変だから私も一緒にいる」というのが美優の言い分だ。確かに、こんなに息苦しい空間は一人ではとても耐えられない。昨今はどさくさに紛れて痴漢やセクハラ紛いなことをしてくる人もいるらしく、美優と一緒に行動することはそれらの予防にもなった。
「相談部は気になるけど、自分から話すのって苦手で……」
「それならきっと大丈夫だよ。私も一緒にいるし、聞くことがメインだって言ってたでしょ? それに、雫先輩も上手くやってるように見えたし」
臼井雫。その名を出されると、相談部を見学しに行った日の眼差しがフラッシュバックする。一体、彼女はあの時何を思っていたのだろうか。
あれから一週間が経ち、四月も下旬に差しかかろうとしている。その後も何度か相談部の部室に顔を出すと、神奈は快く歓迎してくれた。時折真司や健とも鉢合わせることがあり、彼らは一緒に行動してることが多いらしかった。美優に連れられて他の部にも一応は赴いたものの、やはり心は惹かれない。
そしてあろうことか、仮入部期間の最終日を迎えていた。部活に所属したい者は、本日中に結論を出さなくてはならない。
『次は雪百合高校前。ご乗車ありがとうございました。揺れる車内にご注意ください』
アナウンスが聞こえると、明日香は身体に力を入れて身構えた。座席側部の手すりに掴まり、美優は扉に寄りかかる態勢を取っている。
電車が止まろうと、ゆっくりと速度を落としていく。緩やかに流れ行く景色を眺めていると、不意に背中を押される感触がした。その瞬間、明日香の唇に柔らかいものが触れる。
倒れると思って咄嗟に目を閉じてしまい、状況が把握できなかった。おそるおそる目を開くと、そこには色白で瑞々しい肌と見覚えのある艶がかった黒髪が映し出されていた。
唇が熱い。
違和感を探るように視線を上げると、美優が動揺したように瞬きを繰り返していた。その速度は、少なくともいつもの倍はあったはずだ。
理解が追い付いていながらも、明日香は身動き一つ取れずにいた。なんと言って詫びれば許してくれるのかと、そんなことしか考えられない。
明日香は、美優の頰に口付けをしていたのだ。
明日香が扉に手をついて身体を支えたため、美優は扉との間に挟まれる形になっていた。傍から見ると、完全に明日香が美優に壁ドンをしている構図だった。とにかく、一刻も早く美優から離れなくては。
「ごめんなさい。大丈夫でしたか……?」
明日香の背中を押してしまったらしい人物が、焦ったように声をかけてきた。
「大丈夫って、な、なんのことですか⁉︎」
気が動転してしまい、素っ頓狂な声が上がる。うるさいと言わんばかりに、乗客から恨めしそうな視線を送られた。
きっと、周囲の人たちは明日香たちに何が起きたのか分かっていないはずだ。一瞬の出来事だったし、美優は明日香に覆い被されていたのだから。しかし、心配無いと言い聞かせても明日香は不安を払拭することはできなかった。
よく見ると、乗客の中には雪高の生徒も混じっていた。何十個もの瞳が、過ちを犯した明日香を責め立てるように射抜く。
そのうちのいくつかと目が合うと、明日香の身体は金縛りにあったかのように硬直してしまった。まるで、足下から茨に締め上げられているみたいだ。逃げろと脳が命令を出しているのに、身体に意思が伝達されない。思考と身体が切り離されて思い通りに動かないことに、明日香の苛立ちを覚えた。
気付くと、明日香は電車の外に立っていた。どうやら、頭が真っ白になっている間に駅に到着していたらしい。
右手に温かな感触があり、それを辿るように顔を上げるとそこにはやはり美優がいた。強引に電車から引っ張り出してくれたのか、結ばれた手はいつもより少しだけ痛い。
礼を言わなければと明日香が思うよりも先に、美優は歩き出してしまうのだった。
学校までの道のりをひたすらに進み続ける。
普段なら美優から話しかけてきてくれるため、会話が途切れるほとんどことはなかった。しかし、今は話しかけてすらもらえない。
こうなってしまったのは、もちろん先ほどの事件が原因だ。その場で何か言えばすぐに解決できたものの、時間が経ってしまったせいでどう切り出したら良いのか余計に分からなくなっていた。
「明日香、さっきのことなんだけど」
「は、はい」
初めて会った時のように、明日香はすっかりと敬語に戻っていた。前を歩く美優の顔は、当然ながら背後にいる明日香からは見えない。どんな表情をしてるか想像もつかなかったから、わざわざ見ようとも思わなかったが。
「大丈夫だった? 怖くなかった?」
「えっ……?」
そこで一度足を止めると、美優はようやくこちらに向いてくれる。よかった、いつもの優しい彼女の顔だ。
ただ、美優の言葉が予想外なものだったから明日香は拍子抜けしてしていた。さっきのことに対する認識が明らかにお互いにずれている。肩透かしを食らったみたいで、これでは嫌われると怯えていたのが馬鹿みたいだ。
「みんなから睨まれて動けなくなってたから。私は、明日香が過呼吸を起こしちゃうんじゃないかって思って……」
「それは大丈夫だけど……」
本音を言えば怖かった。疎み、蔑まれるような視線は過去の記憶を嫌でも引きずり出される。忘れたくても忘れられない出来事。だからこそ明日香はそれと向き合い、少しでも前進したいのだ。忘れられないのであれば自ら克服するしかない。とはいえ、実際に蓋を開けてみれば美優に助けられてばかりだった。
「……美優ちゃん。あの、さっきはごめんね」
「あ、あれは気にしなくてもいいよ! 私は反対側にいたから全部見えてたし、明日香は別に悪くないから」
具体的に何がとは言えなかった。それを明確にしなくても美優は理解してくれていたし、わざわざ言い直しても気まずくなるのは目に見えている。
「……ただ、ちょっと恥ずかしかった」
そう言って、気を紛らわせるように横髪を触りながら美優は微笑む。いじらしい仕草に、明日香は心臓を鷲掴みにされた。
どんな時でも凛としていて逞しい美優がこうして照れている。あまりのギャップに、不本意ながら明日香は可愛いと感じてしまった。そんな風に思ってしまうのは彼女に失礼なのかもしれない。それでも、普段は決して見ることのできない美優の一面に明日香は舞い上がっていた。この瞬間だけは、遥か高みにいる美優が自分と同じ場所まで降りてきてくれたようで安心したのだ。
電車の中で感じた唇の熱は、おそらく明日香が発したものではなかった。美優から発された熱が明日香に伝播していたのだ。それを悟られないように今まで平然を取り繕っていたのだと思うと、明日香の胸に満足感のようなものが込み上げてくる。
「……美優ちゃんはその、そういうことしたことないの?」
無意識のまま明日香は口走っていた。数秒して爆弾発言を投下してることに気付くと、どうして自分がそんなことを聞いてしまったのかという疑問が浮かんだ。
今まで明日香から話題を振ることはほとんどなかった。もしかしたら、これが初めてだったかもしれない。それなのに、こんな不埒なことを訊ねるのはいかがなものなのか。
「ご、ごめんねっ! こんな変なこと聞くのおかしいよね……」
「そんなことないよ。でも、明日香からそういうこと聞いてくるの意外だったかも」
「なんか気になっちゃって。嫌だったら全然話さなくていいからね。……って、これだと偉そうだよね」
「私にはそんなに気を使わなくていいんだよ? 気になることがあったらいつでも聞いてくれていいから。ほら、神奈先輩もその方が話しやすいって言ってたでしょ? こっちから切り出しにくいことでも、相手が聞きたいって言ってくれたら話そうって思えるし」
それは明日香自身が一番痛感していた。常に受け身な明日香にとっては相手の意思が全てだ。自分から行動を起こせば他人に批判される可能性があるし、余計なお世話だと一蹴されてしまうことだってあるだろう。だからこそ、明日香は動けない。
「私、恋人とかいたことないんだ。だから、私はそういうことしたことないよ」
明日香の言葉を真似るようにして美優は言う。
「そうなんだ」
自分から聞いたくせに、全くといって感情が込められていなかった。これでは冷酷な人間に見えてしまう。
しかし、そんなことよりも美優の回答に明日香はホッとしていた。美優が誰のものでもないという事実が、明日香はなぜだかたまらなく嬉しかったのだ。
昼休み。美優は真司のことも呼んでいたらしく、三人で昼食を摂ることになった。中庭は人が少なく、雪高生徒の秘密のスポットとなっている。太陽光が直接降り注ぎ、春らしく生温い気温は昼寝と相性が良い。とはいえ、たまに吹く強い風がそれを台無しにしてしまうが。
「僕が一緒にいても平気なの?」
「うん。たまにはこういうのも悪くないでしょ?」
「そうだね。中学の時は外でご飯食べるなんてこと無かったしね」
雪百合高校の規則では、校外に出なければ昼休みはどこで過ごしても良いということなっていた。
神奈と雫はどうしているのだろう。もしや、今頃部室で優雅に紅茶でも飲んでいるのだろうか。
「それで、どうしてわざわざ僕を呼んだの?」
「部活をどうするのか聞きたくて。あと、こうやってみんなでご飯食べた方が楽しいでしょ?」
「部活、ね。美優は?」
「私は相談部に入る予定だよ」
「……じゃあ、僕もそれで」
意味深長に間を置くと、真司は美優に同調した。
「『じゃあ』ってどういう意味よ。そんなに適当でいいの?」
「見学に行った時に面白そうだなって思ったし、美優がいるならそれでもいいかなって。元々拘りがあったわけじゃないしね」
二人の会話の内容にそれとなく耳を傾けておきながら、明日香は弁当箱の中身を黙々と食べ進める。輪に混ざりたいのは山々だが、こちらから振るような話題も無く結局は黙っていることしかできなかった。
複数人で行動するのは苦手だ。誰とどの程度接すればいいのか分からないし、全員と均等に話さなくちゃいけないような気がするから。決まった人と一緒にいるなら集団でいる意味はないし、自分がここにいる必要性は無いのではないか。
母が作った卵焼きを口へ放り込むと、明日香は白飯にすぐに手を伸ばした。母の卵焼きはやや塩分過多で、単体で食べるには味が濃い。父も塩派だったため、水野家の卵焼きの味は昔から変わらなかった。
「ごめん。私たちばっかり話しちゃった。そういえば、明日香は結局部活どうするんだっけ? 私としては一緒に入ってくれたら嬉しいんだけど」
「私も入る。美優ちゃんがいるなら、きっと頑張れるから」
「やった! 明日香ならそう言ってくれると思ってたよ!」
感情が昂ったらしく、美優は明日香に抱きついていた。自分がいるだけで彼女はこんなにも喜んでくれる。誰かに必要とされているような感覚は、明日香の自尊心をサワサワとくすぐった。
美優の反応に対して真司は冷静で、彼はお茶を飲みながら美優の様子を見ていた。突っ込みを入れるわけでもなく、ただ黙って成り行きを傍観し続けている。
「なになに? 楽しそうなことしてるじゃん」
ノリの良さそうな男の声が唐突に背後から降りかかる。聞き覚えのある口調に、明日香は身を強張らせながら振り返った。そこに立っていたのは、連日顔を合わせることの多かった健だ。
「あれ、もう食べ終わったの?」
「一応ね。っていうか、学食ってすごい混んでるのな。もうラーメンとかしか残ってなかったわ。俺はカツカレーが食べたかったんだけどなぁ」
「でも、とりあえず食べられたならよかったじゃん。ね、水野さん」
会話に混ざろうとしない明日香を気遣ったのか、真司は同意を求めるように話を振った。
「そ、そうだね……」
半ば裏返った声で、明日香は辛うじて意思表示をする。しかし、それを健は聞き捨てならなかったようだった。
「よくないだろ。好きなもの食べないと元気が出ない。これは午後の授業に差し支えるレベルだよ。水野もそう思うよな?」
真司だけならまだしも、健までもが明日香に意見を求めた。先ほど真司の意見を肯定してしまった以上、ここで頷くのは矛盾してしまう。しかし、否定すればそれに嘘をついたということになる。板挟みのジレンマに陥り、明日香の思考はグルグルと行き場を失ってしまった。
逃げるように、隣に座る美優に明日香は縋るような眼差しを送ってしまう。彼女の察知力は相変わらず鋭く、明日香の困惑をすぐに汲み取ってくれた。
「二人とも、明日香を困らせるようなことしないの」
「あー……なんか悪いな」
健は意外にも素直に謝罪した。別に、彼が悪いことをしたわけでもないのだが。無神経そうに見えて、どうやら引き所は見極めているらしい。
「千都たちはさ、部活とかもう決めたの?」
「今その話をしてたのよ」
「へぇー、真司は?」
「僕は相談部に入ろうかなって。美優たちも一緒だよ」
「まじか。じゃあ俺もそうしようかな」
数分前に見たであろうやり取りが再び目の前で繰り広げられていた。健も真司も、そこまで流されやすい人だったのだろうか。
「そんなに適当でいいの?」
「それ、真司が言う?」
やはり、美優は真司に言及した。真司が健にかけた言葉は、つい先ほど彼自身が美優に言われていたことだ。
真司の質問に健は投げやりに答える。
「うん。結構自由で楽しそうだったし。それに、こんな変わった部活多分この学校にしかないでしょ? 他の人ができないような経験するのって、なんかワクワクしない?」
「じゃあ、僕たちみんな同じ部活ってことだね」
「でも俺だけクラス違うんだよな。どうせだったらクラスも一緒だったらよかったのにな」
健は四組らしく、休み時間になる度に真司に絡みに来ていた。聞くところによると、真司と健は同じ中学だったらしい。つまり、明日香以外の三人は同じ中学出身ということになる。しかし、美優と健は接点が無かったらしく、部室で顔を合わせたのが初めてだったとのことだ。
そこまで考えると、今までの会話に違和感を覚える。健は美優とすでに打ち解けていたし、なぜだか明日香の名前も覚えていた。見学の時に彼らは遅れてやって来たため、明日香たちから自己紹介はしていなかったはずだ。その後もほとんど会話をした記憶は無い。にも関わらず、どうして健は明日香の名前を知っていたのか。
「そういえば、健と美優はいつの間に仲良くなってたの?」
明日香の頭の中を覗いていたかのように、真司はタイミング良く切り出した。
「あー、それな。千都ったら初見で俺のこと変質者扱いするんだから酷いよな」
非難してるように見えるが、健の表情は少しも怒っているようには見えない。それどころか、美優とのやり取りを楽しもうとしているようだった。
「だって、まさか女子の階に男子がいるだなんて思わないでしょ?」
相談部に関しては、男子の出入りが特別に許可されているらしい。そうでなければ相談者は女子に限定されてしまうからだ。しかし、それでは女子の階という意味が無いのではないか。現に、今までも相談に来た男子が部室を間違えたらしく、鉄拳制裁を食らわされたという話もあったようだ。
「まぁ、それに関して俺はそんなに気にしてないけどね。千都とは一応同中だったし、名前は聞いたことあったんだよ。賞取って表彰されてたこともあったし。……えっと、書道だっけ?」
「よく覚えてるね。私は健のこと全然知らなかったよ。……なんか申し訳ないね」
健のことを美優は名前で呼んだ。真司はまだしも、健までそう呼ぶとは思っていなかった。
美優は誰に対しても下の名前で呼ぶらしい。確かに、美優は中性的で男女共に距離を縮めやすいのだろう。その上、彼女は自ら働きかけることが得意だからその傾向はより顕著になる。
小学生くらいまではそういう子も多かった。しかし、大半は思春期を迎えて接し方が変わるものではないだろうか。意図的にしろそうでないにしろ、男女間に溝ができてしまうのは当然のことだ。
「こう見えても俺は覚えるの得意だから。だから、千都は気にしなくていいよ」
「じゃあさ、どうして明日香のことは知ってたの?」
突然名前を出されて跳ね上がりそうになる。膝に置いていた弁当箱を間一髪のところで抑え、明日香は健に目を向けた。
「知ってたわけじゃないよ。ただ、雫先輩が『水野さん』って呼ぶから分かったってだけ」
思い返してみると、雫にはそう呼ばれていた気がする。しかし、当の明日香がそれを忘れていた。
なにしろ、雫も明日香同様に口数が少ない。そのため、個人的に雫と会話する機会は皆無に等しかったのだ。神奈や美優と違って、雫は全員を苗字呼びしていた。ちなみに、神奈は真司と健のことを『しんちゃん』『たけちゃん』と呼んでいる。
「なるほど。健ってすごいんだね。びっくりしちゃった」
「だろ? 千都も俺の偉大さが分かったかー」
美優に褒められると、自信満々に健は自身の胸を叩いた。自分のことをそんな風に誇れる彼が、明日香には少しばかり羨ましい。
「っていうか、先輩たちのことは名前呼びなのにどうして私たちは苗字呼びなの?」
「あの二人は名前呼びがしっくりこない?」
「それは分かるけど」
「僕は恐れ多くてそんなことできないなぁ」
「あの二人はそういうこと気にするようなタイプじゃない気がするけど」
「それも分かる」
同じ中学出身の三人は、途切れることなく会話を展開していた。
そんな彼らを、明日香はただ黙って見ていることしかできない。水筒の蓋を意味も無く弄ったり、スカートの裾を撫でたりして明日香は時間を潰した。