視線
鉄で作られた扉を叩くと、重厚な音が廊下に響き渡った。
「どうぞー」と中から返事が返ってくると、美優がおずおずとノブに触れる。扉が開かれると、明日香は絶句した。そこには、想像とは異なる世界が広がっていたのだ。
一面の花畑の中にいるような香りが漂って来る。その出所は、どうやら部屋の隅に置かれた加湿器のようだった。白を基調とした壁紙に、明らかにこの場に不釣り合いな木製の本棚。簡易型の小さな冷蔵庫やポットまで置かれている。
向かい合わせになるように机と椅子が四セット設置されており、その中の一つに腰をかけて少女は読書を嗜んでいた。彼女はこちらのことなど露ほども気にしていないのか微動だにしない。その瞳の動きからは、かなりの速読であることが伺えた。
首筋に沿うように揃えられた、やや紺色がかった短髪。感情の読めない目をしていて、どことなくミステリアスな印象だ。
扉のすぐ近くでは、部長である橘神奈が出迎えるように仁王立ちしていた。
学校にいるということを忘れてしまうほど、相談部の部室は私的な空間だった。しかし、そのおかげか家にいるような安心感が得られる。
「いらっしゃい! 君たちは一年生? お話しに来たの? それとも見学?」
興奮しているのか、神奈はとてつもない勢いでまくし立てた。眼鏡の奥にある双眸は好奇心を抑えきれずに活き活きとしている。明日香が一人気圧されていると、代わりに美優が対応してくれた。
「そうです。見学で来たんですけど、ここで合ってますか?」
「合ってるよ。探すの大変だったでしょ? よくここが分かったね」
「本当に迷いましたよ。職員室まで行って先生に教えてもらいました」
相談部の部室はなぜか体育館地下一階の奥にあり、見つけるのに二○分ほどかかった。学校の設備を十分に把握できていないことも、部室を探すのに苦戦した一つの要因だ。どうやら、雪百合高校の敷地は明日香たちが思っているよりも広かったらしい。
最終的に自力では見つけられないという結論に至り、やむを得ず教師の力を借りたのだ。西棟の一階には文化部の部室があり、体育館の地下には運動部の部室がある。さらに掘り下げると、地下一階は女子部員用の部室。地下二階は男子部員用の部室と細かく区分されていた。
一階には柔道場や剣道場、筋トレルームなど武道全般における設備が整っている。二階は入学式や部活動紹介時に使用したメインステージだ。バスケットボールやバレーボールといった、主に球を用いる部がこの場を使用している。
「雫。見学に来てくれたみたいだよ」
読書をしている少女に向かって神奈が呼びかけるも、彼女からは応答が無い。一目もくれず、少女は一心不乱に本に食いついているのだ。
もしや、彼女たちの関係性はあまり良くないのだろうか。五分も経たない間に、明日香の胸は不安一色に染め上げられる。
少女の態度にうんざりとしたのか、神奈は大きくため息をついた。無言で彼女の前まで歩み寄ると、神奈は子供からゲームを取り上げるかのようにそれを没収する。「あっ……」と小さく感嘆する少女の声は、見た目同様に静かで落ち着いたものだった。
「新入生来てくれたよ。雫も挨拶して」
雫と呼ばれる少女を引き連れて、神奈はわざわざこちらまで戻ってきてくれた。
「……臼井雫です。よろしく」
雫はご丁寧にお辞儀までしてくれた。彼女の自己紹介が説明不足と感じたのか、神奈が言葉を付け加える。
「この子は私と同じ三年生で副部長をやってます。といっても、元々部員は二人だけなんだけどね。雫は本を読むと周りの声が聞こえなくなっちゃうことがあるの。口数は少ないけど、良い子だから仲良くしてね」
「よろしくお願いします」
雫に倣って、明日香たちも遅れて頭を下げる。
「そして、私が相談部部長兼創設者の橘神奈です。部活動紹介の時に喋ってたから知ってるかもしれないけど、一応改めて」
「私は千都美優です。それで、こちらが同じクラスの水野明日香ちゃんです」
慣れない環境で明日香が狼狽えているのを察してか、美優は一緒に紹介してくれた。彼女のありがたいサポートに、明日香は再度会釈する。
「明日香ちゃんに美優ちゃんね。まぁ、そんなに緊張しなくても良いからね。うちは他の部みたいに大会とかあるわけじゃないから」
明日香の挙動が気がかりだったのか、神奈と目が合うと彼女はリラックスするようにと促してくれた。その隣ではコクコクと雫がひたすら頷いている。
「あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど。どうして相談部の部室は体育館にあるんですか? 少なくとも運動部ではないですよね?」
美優の疑問はもっともで、明日香も気になっていることだった。相談部は、どちらかといえば文化部のような活動内容のはずだ。にも関わらず、運動部と混じって相談部の部室だけが体育館にある。除け者にされているような仲間外れにされているような、そんな気がしてならない。
「紹介の時にも言ったけど、この部は去年作ったものだからね。だから、当初は相談部の部室が無かったのよ。どうにかできないか検討した結果、運良くここが余ってたの。それで、私と雫で片付けてって感じだね」
「そういうことだったんですね。相談部ってどんな活動をしてるんですか?」
美優の問いかけに、待ってましたと言わんばかりに神奈は眼鏡の縁に指をかけた。角度が変わると、そのレンズは怪しげに反射する。
部活動紹介の時は距離があって気付かなかったが、神奈はかなりの高身長だった。姉である美来と同等か、もしくはそれ以上。出るところは出ており、彼女は圧倒的なプロポーションを放っていた。見上げていると首が徐々に悲鳴を上げてくる。
「大体は話した通りだけどーー」
神奈が話そうとすると、何の脈略もなしに扉が激しく開け放たれた。あまりの衝撃音に明日香が背筋を伸ばしていると、部室に溌剌とした声が響き渡る。
「うぃーっす!」
突然の来訪者に動揺した明日香は、美優にすがりつくしかなかった。大きな音や光などの刺激は大の苦手なのだ。
神奈たちも目を丸くしており、来訪者の次の行動を注視しているようだった。
幼子をあやすように明日香の肩に手を添えながら、美優は軽蔑の眼差しを彼に送り付ける。
僅かに逆立った髪に、好奇心をこれでもかと詰め込んだような濁りの無い瞳。制服の袖から覗く手には血管が浮かんでおり、彼は見るからに健康的な肉体をしていた。一目で分かる。明日香にとって、彼は苦手な人種だ。
「あの、ここは女子部員の階だと思うんですけど」
「ああ、そうだったんだ。たしかに男は誰もいなかったかも」
「分かったら早く帰ってください」
最初から相談部の部員だったのかと錯覚するほど、美優の言葉には違和感が無かった。まるで、自分の領域を侵害されないように守り通そうとしているみたいだ。
「ちゃんとノックしなよ? みんなびっくりしちゃうから」
珍妙な空気になっていたところ、この状況を気にする素振もなく新しい人物が入ってきた。空気が読めるのか読めないのか、掴み所の無い態度で彼は現れる。
「あれ、真司じゃない。どうしてここにいるの?」
彼らに対する態度の差から、美優は最初に入ってきた人物のことを知らなかったのだと推測した。真司の顔を見るや否や、彼女の声色が途端に柔らかくなったのだ。
「僕たちも相談部に見学に来たんだ。まさか部室がこんなところにあるとは思わなかったけどね」
やはり、この場所は初めて来るには相当難易度が高いらしい。校内にポスターでも貼っておかなければ、相談者は誰も部室に辿り着けないのではないだろうか。
「どうも」と真司は神奈たちに向かって頭を下げる。喜ぶ神奈とは対照的に雫は相変わらず無表情で、何を考えているのか全く読めなかった。
「丁度これから話そうと思ってたところだし、みんなここに座って」
神奈は、先ほどまで雫が座っていた机を人差し指で弾いた。椅子は合計四つ、三年生二人を除けばぴったり人数分だ。明日香と美優、真司と彼という組み合わせで一年生たちは着席する。
幹部二人が改めて真司たちに自己紹介をすると、彼らも同様にすぐに名乗る。どうやら、部室に突撃してきた威勢の良い彼の名は川原健というものらしかった。
騒ぎが落ち着くと、神奈はようやく本題に入った。
「私たちがやることは、ここに来てくださった方の話を聞くことです。アドバイスをしたり、わざわざこちらから助言するようなことは基本的にしません。相談者がそれを求めてる場合は別だけどね」
「それはどうしてですか? 相談する理由って、何か問題を解決したいからだと思うんですけど」
早々に健は神奈に反論する。それを制止しようと、隣に座る真司は彼の肩を抑えていた。
「健、部長さんまだ話してるんだから遮っちゃまずいよ」
「別にいいよ。というか、質問してくれた方が話しやすいかな。その方がみんなも退屈しないでしょ? そういうわけで、気になることがあったらどんどん聞いてね」
なんでもないように神奈が言うと、雫はまたしても同調するように頷く。あまりにも従順だから、なんだかペットみたいだと思ってしまった。役割分担が決まっているのか雫は一度も口を開かず、神奈だけがひたすらに話し続けた。
「で、さっきの答えだけど。相談者が何を求めているかっていうのは各々違うのよ。でも、根底にある気持ちはきっと同じ。それがなんだか分かる?」
問いかけると、神奈はそこで一度口を閉じる。一年生たちが答えを出す時間を与えてくれているのだろう。やがて、全員が何かしらの結論に到達したであろう頃に彼女は再び喋り出した。
「それは、誰かに話を聞いて欲しい、自分を受け入れて欲しいっていう気持ちです。多くの人は誰にも話せないもどかしさや苦しみから解放されるためにここに来ます。そして、その手伝いをすることが私たちの使命です。もちろん、人によっては内容が重い時もあるんだけどね。そういう人たちは具体的な解決策を求めてくることが多いから、その時は何かしらのアクションを取るよ」
確認するように神奈が目配せすると「なるほど」と健はしんみりと呟いた。
「とはいっても、相談者が自分でも何をしたいのか分かってない時もあります。そういう時は、こちらが本質や意図を見極めなくちゃいけません。それを考えることも私たちの役目です」
「僕からも質問いいですか?」
話が一区切りすると、タイミングを伺っていたかのように今度は真司が切り出した。
「どうぞ」
「相談者がいない時はどうするんですか? そもそも相手がいないと活動できないと思うんですけども」
「そうなった場合は大まかに三つのパターンがあります。一つ目は、私たちが校内から相談したい人を募集すること。これは営業活動的な感じかな。状況によってはその場で話を聞いたりすることも多いです。二つ目に……と、これは雫に説明してもらおうかな」
突然の指名に、無味乾燥だった雫の表情が初めて色付いた。焦りとも喜びとも言えないようなそれを見て、神奈はクスリと微笑む。しかし、そんな顔を見せてくれたのも一瞬のことで、気を取り直した雫は冷静に話し出す。
「……そういう時は本を読む。小説とか参考書があるから、どれでもいい。本には様々な考え方や知識があるから勉強になるし、相手の心情を理解しやすくなる」
「ここに置いてある本は図書室から借りたものだったり雫の私物だったりと、様々なところから寄せ集められたものです。これらを読むと知見が広がって柔軟に対応しやすくなるので、私たちは読書することを推奨してます」
雫の淡々とした説明に神奈は補足する。
神奈はあえて雫に話すように促したようだった。せっかくなら明日香たちとも会話して欲しいと考えたのかもしれない。確かに、これからの活動を共にする仲間になるかもしれないのだから、お互いのことを知っておいて損はないだろう。
「そして、最後はとにかく遊ぶ!」
意気揚々と、神奈は両手を大きく広げて断言した。ふざけてるようにも真面目なようにも見えて、明日香はどうにも反応に困る。
「遊ぶって、どういうことですか?」
真意を確かめるように、美優が問いかけた。
「そのままの意味だよ。話を聞くことはエネルギーを消費するでしょ? だから、常に気を張りっぱなしだとこっちが持たなくなっちゃうのよ。自分たちが万全な状態で活動できるように息抜きしましょうってこと」
あっけらかんと神奈は言い放つ。それがさも当然のように語る彼女に、美優は納得がいかないようだった。普段は穏やかなその表情も、今ばかりは眉間に皺が寄せられている。
美優の懐疑心を読み取ったのか、神奈は先回りするように続けた。
「うちの部活は割と自由です。周囲に迷惑をかけなければ何をやっても良いし、相談とも言えない雑談をしに来る人なんかもいます。相談部は雪高の憩いの場としての役割もあります。例えるなら、この学校のメンタル保持の最終砦みたいな感じかな。だから、遊ぶ時は遊ぶ、やる時はやるってメリハリをつけて取り組んでいます」
自信と誇りに満ちた表情で神奈は言い切った。こんな清々しい顔、明日香は一度たりともしたことが無い。
神奈の意見を聞いて、美優はようやく受け入れられたようだった。真面目な彼女のことだから、部活とは名ばかりで遊び呆けていたら許せなかったのだろう。
「とまぁ、大体こんな感じかな。明日香ちゃんは質問ある?」
「……わ、私ですか?」
「うん。だって、あと質問してないの明日香ちゃんだけだから。特に無いなら構わないけど、気になることがあるなら聞いた方がいいかなって」
振り返ってみると、明日香以外の三人は各々疑問を訊ねていた。聞きたいことがあるわけではないが、このまま引き下がるのは気を使ってくれた神奈に申し訳ない。それでは、相談部に興味が無いみたいだから。
必死になって思案した結果閃いたのは、学生ならば誰もが知りたいであろうことだった。
「夏休みとかってどうしてるんですか?」
「良い質問だね! 夏休みや冬休みなどの長期休暇期間中は外部で課外活動をします。土日祝日もたまにそういう日があったりするかな。これは他の部と比べても特殊な活動で、相談部のもう一つの大きな仕事です。あ、ちなみに毎週水曜日は休みね」
そういうことだったのかと、明日香は通学中に目にしたチラシの意図を理解した。おそらく、あれは校外に部の存在をアピールする効果もあったのだ。事実、明日香が相談部を初めて知ったのはそれがきっかけだった。
「そしてここからが素晴らしいところなんだけど、その仕事を通すことで依頼者からお礼の品を頂けたりすることがあります! 食べ物から日常的に使えるものなど、その幅に限りはありません。何を隠そう、ここにある本棚や加湿器もその一環で手に入れたものだからね!」
「まじですか⁉︎ それってやばくないですか?」
しばらく大人しく話を聞いていた健が突如として参戦してきた。「やばい」という言葉がどの部分に当てられているのかは分からないが、彼が驚いていることだけはひしひしと伝わってくる。
健とは違う方向性で、実のところ明日香も内心で似たような感情を抱いていた。たった二人で、しかも去年作られたばかりで、どうすればそこまでの仕事をこなせるのだろうか。神奈が指を差した物はどれもそれなりに高価なはずで、それだけの見返りを与えてもいいと思われるほど彼女たちは貢献してきたということにもなる。
「でしょ? さすがにお金を直接頂くことはできないから物や形になっちゃうんだけどね。それでも、学校にいながら社会経験ができるのもこの部の魅力かな」
そこで一つの疑問が生じた。今度は無理やり捻り出したものではなく、純粋に気になったことだった。
「でも、それって部活よりも委員会とか生徒会に近いんじゃ……?」
「そうとも言えるね。でも、形がどうかっていうのは重要じゃないの。助けを求めてる人がいるなら駆け付ける。私たちにできるのはそれだけ。まぁ、最初は本当に話を聞くだけの部活だったんだけどね」
明日香の疑問に、神奈は真摯に向き合ってくれる。一つ聞くだけで多くを語ってくれるから、明日香にとってはこの上なく気が楽だ。
神奈はコミュニケーションが上手い。相手のタイプに応じて、彼女はその都度立ち回りを変えているように思えた。そして、各々との距離感を的確に見定めてくる。雫を促したり質問しなかった明日香を気遣ったりと、彼女は全体をよく見ている。自分がどう立ち振る舞うことが効果的なのか、神奈は心得ているようだった。
「とりあえず、話はこれでおしまいかな。私たちはこれから部活を始めようと思ってるけど、みんなはどうする?」
喋り通しで疲れたのか、神奈は腕を上に大きく伸ばした。
意思決定を任せるように美優の方を見ると、彼女は察したように振り向いてくれる。目が合うと、美優は「今日は帰ります」と返事した。
「俺らも今日は帰ります。な、真司!」
「僕はまだ何も言ってないけど」
「一人だけ残るの?」
「いや、僕も帰るよ」
「ならいいじゃん」
真司と健はテンポの良い会話を繰り広げており、思わず明日香は見惚れてしまう。
こんな風に、明日香は美優と話せない。性別的な部分もあるだろうが、その原因は自分自身にあると明日香は確信していた。世間話や中身の無い会話が苦手で、返答がたどたどしくなってしまうのだ。それでも、美優がペースを合わせてくれることで明日香たちの関係性は成り立っていた。
「それじゃあ、僕たちはこれで。今日はありがとうございました」
礼を言うと、真司は部室を出て行こうとする。健は一足先に出て行っており、遠くから真司を急かすような声が廊下から聞こえていた。
「私たちも行こうか」
「うん」
先行く美優の背中を追いかけると、明日香は突き刺さるような視線を感じた。
おそるおそる後方を一瞥すると、それが雫から注がれているものだったのだと気付く。表情一つ動かさず、彼女はじっと成り行きを見つめ続けている。監視されているようで落ち着かない。
何か言われるのではないかと身構えていたが、結局雫が言葉を発することはなかった。