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雪解けに咲きたる想いは。 〜雪百合高校相談部〜  作者: たく
その手はいつも温かくて
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その瞬間を

 ぎこちない表情を浮かべた自分の姿が鏡に映る。鏡の中の明日香は制服に汚れが残っていないか、周囲から変に見られないかを入念に調べている。

「そろそろ行こうか」

 少女が扉に手をかけながら告げる。

「はい」

 時間を確認しようとスマホの画面を開くと、見慣れた景色が背景に表示される。

 明日香は自然が好きだ。時間に余裕がある時は目的を決めないまま散歩することがあり、その度に心を動かされたものは写真に収めていた。明日香の写真フォルダには野生の動物や草花などが大半を占めていて、人物画は一枚も存在しない。しかし、それらを見ている間だけは無心になることができた。世界の広大さに触れられたような気がして、自分がいかに小さな存在なのかが分かるのだ。

 散歩を始めたきっかけは一人になる時間を求めていたからだ。あの出来事の直後、明日香は家族と関わることすら億劫だった。今でこそ受け入れてくれているものの、当初の空気は張り詰めていたことをよく覚えている。もっとも、その原因を作っていたのは明日香自身だったが。

 どこにいても心が休まらなくて息が苦しかった。居場所が欲しかった。迫り来る恐怖心からひたすら逃げると、明日香は外の世界に身を馳せた。誰の支配下でもないそれは、明日香を無条件で受け入れてくれる。そしていつの日か、そんな世界を身近に感じていたいと明日香は写真を撮り始めたのだった。

 画面の背景に紛れて現在時刻が記されている。

 八時二五分。どうやら、始業まであまり時間は残されていないらしい。入学初日から遅刻なんてことはごめんだ。そんなことになればたちまち注目の的になってクラスの笑い者にされる。波風を立てずに穏便に過ごす。それが明日香の最優先事項だった。

 来た道を引き返し、次こそは教室を目指す。

 ゆっくりと余裕を持って過ごすはずが、結局は時間ギリギリになってしまった。これでは、わざわざクラス確認を急ぐ必要は無かったのではないか。

「でも、男の人が怖いのにわざわざ共学に来たの? 女子校に行くっていう選択肢だってあったはずなのに」

 少女の意見は至極真っ当で、それは母からもアドバイスされたことだった。明日香が足を止めると、それに釣られるようにして少女も立ち止まる。

「このままじゃいけないと思ったんです。確かに、高校生の間はそれでもいいかもしれない。……でも、その先のことを考えると根本的な解決にはならないんじゃないかって。だから、怖くても私なりに前に進みたかったんです」

 思わず力説してしまい、呆気にとられたように少女が口を半開きにしていた。

「……でも、こうして先輩に助けられてたら説得力が無いですよね」

 気落ちする明日香を励ますように、少女は首を横に振った。

「あなたは強いんだね。私がその立場だったら、きっとそうはなれないよ」

 少女の瞳が自嘲気味に歪められる。見てはいけないものを見てしまった気がして、明日香は様子を伺うように声をかけた。

「先輩……?」

「……ううん、なんでもない」

 素気無く答えると、少女は再び歩き出す。置いていかれないように、明日香は彼女の背中を必死に追いかけた。

 東棟に戻って教室に着き、明日香は少女に別れを告げようとした。しかし、なぜだが彼女は隣に居座り続けている。

「あの、先輩は下の階じゃないんですか?」

 雪百合高校では一階から順に上級生の教室が設置されている。一年生の教室は最上階である四階にあり、先輩である少女がこの階にいることは本来あり得ないのだ。

「ごめんね」

 何に謝られたのか分からない。どちらかといえばそれは明日香が言うべき台詞であって、少女が謝罪する理由はどこにも無いはずだ。

「言うタイミングなかったけど、私も今日が初登校だったんだよ」

「春休み明けだからですか?」

「そうだけど、そういう意味じゃなくて」

 意思疎通がうまくいかないことがもどかしいのか、少女は(じれ)ったそうに髪の毛を弄っていた。

「私も一年生だよ。三組だった。あなたは?」

 一年生。少女は間違いなくそう言った。確かに、それなら彼女がここにいる理由としては相応しいが。

「冗談ですよね? 先輩は私のこと助けてくれたじゃないですか。というか、三組なら私と同じクラスです」

 考えをまとめる前に言葉だけが先走り、もはや支離滅裂だった。

「その理屈は変だよ。それだったらあなたのことを助けた人はみんな年上になっちゃうよ?」

「……だって、あんなに堂々としてたじゃないですか。てっきり三年生の人だとばかり」

「私も正直怖かったよ。内心ではビクビクしてた。でも、後ろから見てたから。間違ってることはしっかり言わなくちゃって思った。……それに、あなたがあまりにも震えてたから」

 信じられなかった。同い年にも関わらず、少女は明日香の遥か先のステージに立っている。容姿的にも精神的にも、彼女は大人びていた。

「だから敬語も禁止ね。あ、そうそう自己紹介がまだだったね。私は千都美優(せんとみゆう)。数字の千に住めば都の都。名前は美しいに優しいだよ」

 その名前を、胸の内で何度も繰り返す。

 美優という名は少女にピッタリだった。名前負けせずに、強くて優しいヒーローのような女の子。それが美優への第一印象だ。

「水野明日香です。漢字は……多分想像してる通りだと思います」

「敬語」

 片手の手を腰に当て、もう片方の手の人差し指で美優はこちらを指差した。まるで、お節介で世話好きな姉のようだ。

「ご、ごめん」

「私は明日香って呼ぶね。私のことも好きに呼んでくれていいからね」

「じゃあ、美優ちゃん」

「うん!」

 口元を綻ばせると、美優は満面の笑みを咲かせた。初めて見る表情に心臓を鷲掴みにされ、温かな気持ちに満たされる。そんな顔を見せてくれることが嬉しくて、この瞬間を切り取れたらどれだけ幸せなのかと明日香は思った。




 緊張していたのか、入学式は瞬く間に終わっていた。その後、学年集会で今後の生活についての説明やホームルームがあってしばらく慌ただしかった。明日は部活動の紹介や歓迎会などが行われるものの、終業時間は今日とさほど変わらないとのことらしい。

「明日香。よかったら一緒に帰らない?」

 机の中から手紙やら教科書を鞄に移動させていると、美優の顔が突如目の前に現れた。そのまま両手で頬杖をつきながら、彼女は屈託の無い表情で微笑む。

 明日香の席は窓側から二列目の一番後ろの席で、美優は右隣の列の二つ前の席に座っていた。つまり、前を向くだけで必然的に美優の後ろ姿が目に入るのだ。いつでも彼女が見えるところにいてくれることに、明日香は強烈な安心感を覚えた。

 明日香の周囲は幸いにも男子が少なく、なんとか生活していけそうだった。しかし、その代償とも言えるのか、美優の席周辺には男子生徒が大量にひしめいている。

 美優は男女問わず多くの人から話しかけられていた。もしかしたら、今日一日だけでクラスの全員と言葉を交わしたのではないだろうか。あれだけの美少女ならば人気者になるのも致し方ないだろうし、必然ともいえる。その上彼女は愛嬌が良いのだから、多くの人が話しかけたくなるのも当然だった。

 ここに座っていると美優が会話するところを否が応でも見せつけられる。なぜだかそれを手放しで喜べず、明日香は目を背けるように寝るふりをしていた。

「私は構わないけど、美優ちゃんはいいの?」

「何が?」

「だって、美優ちゃん友達多そうだし。それに、私と一緒にいても楽しくないと思うよ……」

「そんなこと気にしなくていいよ。私が明日香と帰りたいの。ダメ?」

「……いいけど」

 乗り気ではないが仕方なくという雰囲気を明日香は醸し出した。もちろん、それは明日香の本心ではない。

 無愛想な対応になってしまったのは、明日香の本能的な部分が原因だった。美優は多くの人から好かれるような人間だ。スクールカーストというものがあるならば、彼女は間違いなく頂点に君臨する者だろう。

 対して、明日香は最底辺に位置する存在。自分の立場を履き違えるほど明日香は愚鈍ではない。美優は、明日香と真逆の人間なのだ。そんな彼女と一緒にいることは明日香としても恐れ多い。「なんであんな奴が? 釣り合わないでしょ」と、それを良く思わない人たちから揶揄めいた視線を送られることは明らかだった。

 だからこそ、明日香は渋々という様子を前面に押し出した。美優が言ってるのだから仕方ないというせめてもの意思表示。彼女から誘ってくれるという証拠が、周囲が明日香を許す免罪符になるのだ。

 しかし、決して自惚れてはならない。慎ましく生きなければたちまち攻撃の対象にされてしまう。謙虚で従順な姿勢を見せることで、周囲の人間はようやく納得してくれるのだ。事実、誘ってくれたのは美優からなのだからそういう態度を取っても問題はないはず。

 素直になれない明日香の態度が面白かったのか「ふふ」と美優の口から息が漏れた。




 ガタンゴトン、と電車がレールを走り抜ける音が聞こえてくる。それと同期するように明日香は船を漕ぎ、ついには美優の肩に額を落とす。

「眠いの?」

「……うん。ごめんね」

 膝に置かれている学校指定の鞄は、まだまだ新品同様の状態で維持されている。三年後に役目を終えた頃、この鞄はどうなっているのだろうか。先のことを考えても意味は無い。頭では分かってはいても、空白を埋めるように思考が働いてしまうのだ。

 眠気を追い払うように大きく伸びると、床に張り付いていた足が宙に浮く。寝ぼけ(まなこ)をこすって周囲を見渡してみても、乗客はほとんど見当たらない。初日ということで学校は早く終わり、明日香たちは帰宅ラッシュに巻き込まれずに済んだのだ。

「なんかね、あんまり眠れなかったんだ」

「遠足前の子供みたいに?」

「そんなんじゃないよ。……ちょっと悪い夢にうなされてただけ」

「そっか」

「うん」

 そこで会話は途切れた。

 家族を除き、基本的に誰が相手だろうと明日香が会話の起点になることはない。常に受け身なため、誰かに働きかけられない限りは何も起こらないのだ。

 唐突に美優に顔を覗き込まれた。微動だにせず、彼女は意味ありげにこちらのことを見つめてくる。

「明日香は、男性恐怖を克服したいんだよね?」

 耳に手を当てられると、美優は囁くように呟く。おそらく、他人に聞かれないように配慮してくれたのだろう。

「……うん」

 返事に迷いがあったのは、矛盾を指摘されたような気がしたからだ。前に進みたいなどと偉そうなことを言っておきながら、明日香は雪百合高校に逃げてきた。本当に変わりたいならばわざわざこんなに遠くの高校に通う必要性はない。結局のところ、美優に宣言した言葉も自分を正当化させるための手段に過ぎないと明日香は思っていた。

「明日香がよければなんだけど、男の子と話してみない? もちろん私も一緒だよ」

 美優の提案に、素朴な疑問が頭を過る。

「美優ちゃんはどうして私にそこまでしてくれるの? そんなことしても美優ちゃんにメリットは無いのに」

 今朝の件は成り行き上致し方無かったかもしれない。しかし、この件は全くの別物だ。そこまでされても明日香は美優に何も返せないし、実際に今も返せていない。

「知っちゃったから」

 明瞭な口調で美優は言い切る。

「明日香が苦しんでること、頑張ろうとしてることを私は知っちゃった。だから、明日香のためになることをしたい。そう思うのは悪いことなのかな?」

 ずるい言い方だった。そんなもの、最初から答えは決まっているようなものだ。相手の厚意を踏みにじるようなことを明日香はできない。だからこそ、次に出る言葉は必然的にこうなる。

「ううん、嬉しい。ありがとう」

 中学の頃から全く学習していない。他人の厚意に甘えた結果傷付いて後悔したのに、再び同じ過ちを繰り返そうとしている。

 それでも、明日香は美優のことを信じたかった。だって、美優は助けてくれたから。一人で動けずに背中を丸めることしかできなかった明日香の手を彼女は取ってくれた。きっと、最初から何も求められていないのだ。「助けてあげたからお礼をしろ」などと厚かましいことを美優は言わないだろう。だからこそ、明日香は彼女について行きたかった。

本井真司(もといしんじ)って覚えてる?」

 顎に手を当て、明日香はその名を示す人物を思い描く。しかし一向にその輪郭は現れず、すぐに考えることを放棄した。

「ごめん。覚えてないかな」

「私たちと同じクラスの子だよ。明日香の席の左の列で、前から二番目の席だったかな」

 言われてみれば、そんな人がいたような気がしなくもない。

「その人がどうかしたの?」

「真司はね、私の幼馴染なの。幼稚園に入る前からずっと一緒で高校も一緒なんだ。まさかここまでの付き合いになるとは思わなかったなぁ。……まぁ、腐れ縁みたいな感じなんだけどね」

 美優の瞳が懐かしむように天井を仰ぐ。きっと、彼女の脳内には真司と呼ばれる人物の顔が映し出されているのだろう。

「だから、私が信頼してる人なら明日香も心配しないかなって思ったの。もちろん真司に明日香の事情は話さないよ。真司はそんなことする人じゃないけど、万が一にも明日香を傷付けるようなことをしそうだったら私が止められる。これ以上打って付けな人物はいないよ」

 日光を遮るものが無く、背中に直接日差しが降り注ぐ。日向ぼっこをしているようで、気を抜くとすぐに意識を失ってしまいそうだった。かれこれすでに三○分以上電車に乗っており、あと二駅もすれば目的地に着くはずだ。

 美優とは最寄駅が同じだったらしく、意外にも近くに住んでいることが判明した。登校する時も同じ道を辿ってきたのかと考えると、それだけで不思議と親近感が湧いてくる。

「その本井君とは一緒に帰らなくて良かったの?」

 幼馴染ということは、美優の住んでる場所とさほど遠くはないはずだ。それならば最寄駅も同じはず。にも関わらず、それらしき人物は車内に見当たらない。

「私は明日香と帰りたかったからいいの。それに、真司だって友達はいるからね」

 てっきり、幼馴染というのは四六時中一緒にいるものだと思っていた。しかし、それはフィクションの中だけの設定だったらしい。

「ただ、他の人より一緒にいることは多いよ? 家族ぐるみでの付き合いもあるし」

「そうなんだ……」

 それがどういう状況を指すのか明日香には分からなかった。自分と美来の関係性が広がったようなものと考えれば良いのか。いずれにしても、友達すらいたことのない明日香には遠い世界の話だった。

「明日香のことを紹介したら真司はどんな顔するのかな。楽しみ」

 美優は肩にかかる髪を指で梳きながら言った。彼女のそれを彩るように光が差し込むと、普段から艶がかっている髪がより一層光沢を帯びる。

 触れたい。

 湧き上がる衝動を飲み込むように、明日香はきつく手を握り締めた。




 駅に到着すると、そこで美優とは別れた。「またね」と彼女は手を振ってくれたのだ。美優とまたすぐに会えるという事実に明日香の心は満たされた。あれだけ恐れていた高校生活も、いざ始まってしまえば一瞬のことだ。

 美優がいてくれるならこれからは頑張れる。なぜだか、明日香にはその確信があった。

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