ヒーロー
窓の枠組みに指をかけて明日香はしゃがみ込む。気怠げに顔を上げると、書道室と記された表札が目に入った。
雪百合高校は西棟と東棟に分かれており、全四階建ての構成だ。西棟には特別教室や部室があり、東棟には教室や職員室がある。つまり、明日香たちが今いる場所は西棟ということだ。
掠れた目で周囲を見渡したところ、どうやらここには誰もいないらしい。使われることが少ないためか所々に埃が目立つ。
「大丈夫? なんだかすごく怯えてたようだけど」
声を出せず、相槌を打つことで話を聞いていることをアピールする。
動悸を抑えようと明日香は胸に手を当てた。反発するような柔らかい感触に包まれると、少しだけ安心する。不安や恐怖に苛まれた時に身体を触るのは明日香の無意識の癖だ。
呼吸が乱れているのはここまで走ってきたからだけではなく、特に精神的な部分が影響していた。蛇口が壊れてしまった水道のように全身から汗が吹き出しており、その勢いは止まることを知らない。
心配してくれているのか、少女は先ほどからゆっくりと背中をさすってくれている。「私がいるから大丈夫だよ」と少女は明日香に言い聞かせた。
なぜこんなことになったのか。その出来事は一○分ほど前に遡る。
自分のクラスが判明し、そこへ向かっている最中のことだった。
ロッカーに外履を入れて室内用の靴に履き替えると、明日香は早速階段を上り始めた。一階から二階へ続く踊り場で身体を一八○度ターンさせると、前半身を叩きつけられたような衝撃が走った。かと思うと、視界が急降下していつの間にか明日香は尻餅をついている。
何が起きたのか理解できずにあたふたしていると「ってーな……」という声が頭上から発せられた。おそらく、実際にはそこまで剣呑な響きではないはずだった。しかし、明日香にはそれが獰猛な獣の唸り声のように聞こえたのだ。顔を上げると、体格の良い男子生徒に明日香は睨み付けられていた。
目の前の人物と接触したのだと、明日香はそこでようやく理解した。
「おい、どこ見て歩いてんだよ?」
内包しようともせず剥き出しになった感情を、男子生徒は明日香に真っ直ぐぶつけてくる。
自分は確かに右側を歩いていたのだから接触するはずがない。よそ見をしていたわけでも誰かと会話をしていたわけでもないのだ。間違いなく明日香は前を見て歩いていた。にも関わらず、どうしてこちらが悪者のように扱われているのか。
「ご、ごめんなさい……」
しかし、そんな感情は放出されず、胸の内で燻り続けるだけだった。
「そんな態度で本当に反省してんのかよ」
男子生徒が話している間、明日香はひたすらに自身のスカートを見つめていた。身体が痛かったからでも謝意がないからでもない。ただ、明日香は男子生徒を直視することができなかったのだ。
「なんでこっち見ないんだよ。失礼じゃないか?」
責め立てるような視線がジリジリと後頭部に注がれる。顔が見えずとも、相手がどんな表情をしているかは容易に想像できる。
身体がガタガタと震え出す。
この感覚を明日香は知っている。
過去の記憶が波のように押し寄せ、明日香の心をゆっくりと侵食していく。意識が朦朧とし、世界がグルグルと渦巻いた。
喉が渇き、すでに手足の感覚がなくなり始めていた。防衛本能が作動したように身体が過剰反応を起こす。取り込み過ぎた酸素を排出しようとすると、今度は体内のそれが著しく欠如してしまう。普段なら造作もなく調整できるはずなのに、明日香の意思に反して身体は全く言うことを効かない。そのことに焦りと憤りを感じ、明日香の肩の動きはさらに加速する。コントロールする弁が壊れてしまったら最後、あとは身を委ねるしかなかった。
ーー飲み込まれる。
そう、明日香は直感した。
「悪いのはあなたじゃないですか?」
不意に、聞きなれない声が落とされた。先ほどまでは存在しなかった第三者の声だ。凛とした力強さと柔らかさを兼ね揃えており、それを聞いていると温かい気持ちになる。丁寧に手入れされた楽器のような、美しく澄んだ音色だった。
「言いがかりかよ……。こいつが当たってきたんだろ⁉︎」
少女の言葉が癪だったのか、男子生徒は一段と声を荒げる。騒ぎが大きくなり、周囲の生徒達は野次馬のごとく群がっていた。
そんな状況にも臆せず少女は応戦する。
「私、見てました。この子は右側を歩いてたのにあなたは左側を歩いてましたよね? だからぶつかったんじゃないんですか?」
図星を指摘されて、男子生徒が怯んだ。
追い討ちをかけるように「違いますか?」と少女は畳み掛ける。分が悪くなって男子生徒がすっかり大人しくなると、少女は呆れているようだった。
「立てる?」
脇の間に手を回し、少女は明日香のことを立ち上がらせようとした。そのまま手を繋がれると、彼女は堂々と階段を上っていく。
こちらの手の冷たさに驚いたのか、指先が触れ合うと少女はピクリと反応した。大切なものを守るようにゆっくりと、しかし堅固に結ばれていく。少女の指は、明日香のそれとよく絡み合った。
白くて細長い。まるでしなやかな鞭のようだ。爪を磨くことが習慣化しているのか、その表面は瑞々しく輝いている。同性の明日香から見ても、少女は美しかった。
この手を永遠に離さないで欲しいと、明日香は漠然と思った。
「落ち着いた? 保健室行く?」
「大丈夫です……」
「やっと話してくれた」
少女は安心したようにまなじりを下げる。初めて彼女の顔を見て、明日香は電気ショックのような衝撃を受けた。頭の頂点から足先に至るまで、明日香は観察するように少女の姿を一望する。
肩よりもわずかに伸びた濡れ羽色の髪は、典型的なセミロングヘアーだ。ややつり目がちな双眸からは信念が宿ってるような力強さを感じる。丸みを帯びた可愛らしい鼻に、乾燥とは程遠い潤沢な唇。そのまま足元まで視線を落とすと、スラリとした少女の脚は黒のタイツに包まれていた。
少女は格好良さと可愛さを両立させたような容姿だった。
当然ながら、少女は明日香と同じ制服を着用している。もしや、この制服は彼女のために作られたのではないかと錯覚する。雪高の制服は少女の可憐さを引き出しており、少女もまた制服の魅力を発揮するように着こなしていた。彼女が雪の妖精だったとしても、明日香はそれを信じてしまうだろう。それほどまでに、明日香から見た少女は儚かった。
年頃の女子なら誰でも気になるであろう膨らみの部分は、明日香のものと比べると一回り小さいようだった。もしかしたら、スレンダーな体型なせいで着痩せしてるだけなのかもしれないが。
「さっきは助けてくれてありがとうございました。それと、迷惑かけてすみません」
「迷惑だなんてそんな。あなたは何も悪くなかった。だから、私が助けるのは当たり前だよ。……そういえば、あなたは一年生なのかな?」
「そうです。先輩が助けてくれなかったら今頃どうなっていたか……」
最悪な事態を想定してしまい、落ち着きを取り戻しかけていた心が再びざわつき始める。震えを抑えようと両腕を自身の身体に交差させていると、少女はゆっくりと明日香を胸に抱き寄せた。
少女からは自然の中にいるような穏やかな香りがした。柔軟剤なのかシャンプーなのか、それとも少女自身が発しているものなのか。そのまま頰を押し付けると、トクントクン、と心臓の鼓動が聞こえてくる。
幼い頃、美来にもよくこうしてもらったことがあった。その時よりもリズムが早いのは、ついさっきまで動いていたからだろうか。
「私がいるから大丈夫だよ」
何分か前に聞いたセリフを、少女は再び告げる。
一定のタイミングで背中を叩いてくれる感触が心地良い。少女と一緒にいると、どうしてこんなにも安らぐのだろうか。
「……私、男の人が怖いんです。中学の時に裏切られたことがあって、それ以来男の人を信じられないんです」
話すつもりなど一ミリもなく、無意識だった。誰にも言わないと明日香は固く誓っていたはずだ。知られてしまけば、きっと弱味に漬け込まれるから。それなのに、催眠術をかけられたかのように明日香は自然と口を開いていた。
少女はこちらの話を遮ることなく、黙って耳を傾けてくれる。少しして「もし……」と彼女は言葉を発した。
「その相手が女の子だとしたら、あなたはその人を信じられなくなってたのかな?」
「……分かりません。でも、多分そうだったかもしれません」
「そっか。じゃあ、どちらかというと人間不信っていう方が近いのかな? あなたの場合、その対象がたまたま男の人だったってだけで」
少女の言うことは一理ある。指摘されるまで考えたこともなかったけれども。
「……すごい汗かいてる。こっちに来て」
唐突に少女が言うと、応答する暇も与えられず手を引かれた。教室へ向かうのかと思っていたが、予想に反して彼女は廊下を突き進んでいく。
窓の外を見ると、風に煽られて桜が宙に舞い踊っていた。空の青さと桜の桃色は相性が良く、一面に鮮やかなパステルカラーを彩っている。下ばかり向いていたせいで、すぐ近くに絶景が広がってることに全く気付かなかったのだ。少女がここまで連れてきてくれたからこそ、明日香はこの景色を見ることができた。
呆然としたまま歩き続けると、明日香は少女の背中に体当たりしてしまう。彼女はいつの間にか足を止めていた。
「ご、ごめんなさい……!」
「ちゃんと前見てないとダメだよ」
何が面白いのか、少女は口に手を当てて笑っていた。彼女が肩を揺らす度に、静かな廊下に愉快な音色が落とされる。こんな笑い方をするのかと、明日香は胸が高鳴った。
少女の背中越しに、ある標識が目に入った。家で見ることはなく、公共の施設でしかお目にかかれないそれは、学生ならば誰でも馴染深いであろうシルエット。
「私はここで待ってますね」
「何言ってるの?」
明日香の発言をあしらうと、少女は躊躇することなくその中に入り込んだ。そのまま個室に入り、挙げ句の果てには鍵までかけてしまう。もちろん手は繋がれたままなので明日香も一緒だった。一人用の空間に二人で入るのは窮屈この上ない。
少女の行動を考察していると、どういうわけか明日香は制服を脱がされていた。胸元がはだけるかそうでないかくらいのところで、少女は手を止めてくれた。
動揺と羞恥で体温が急激に上昇する。混乱しつつも、身の危険を感じた明日香は両手で身体を隠した。
「あ、あのっ! これはどういうことですか……?」
「私が拭いてあげる」
どこから取り出したのか、少女の手には長さ三○センチほどのタオルが握られていた。黄色と白のラインが交互に引かれているシンプルなデザインだ。
「いいですよっ! 先輩にこれ以上迷惑かけるわけにはいかないですし。……それに、それくらい自分でやります」
拭くものさえあれば明日香だってそうする。しかし、こんなことになるとは誰が想定できただろうか。明日香の準備は不十分だった。さすがにトイレットペーパーを使用するわけにもいくまい。
前方には少女、後方には便器と逃げ場は完全に封鎖されていた。さらに言えば、用が済まなければ彼女が解放してくれる気配は無い。つまり、主導権を握っているのは少女なのだ。万事休す。完全に八方塞がりだった。
「いいからいいから。辛い時は無理しない方が良いよ」
今朝、美来も似たようなことを言っていた。年上から映る自分はやはりか弱いのだろうか。ここまで言われてしまっては、断ることが反って申し訳ない。
「気を使ってくれてありがとうございます。じゃあ、お願いします……」
全身が沸騰しそうだった。やましいことなどないはずなのにどうしても落ち着かない。
目の前の少女は、どんな想いで自分と接しているのか。汗臭くないだろうか。彼女の思考を想像すると、余計に漫ろになってしまう。
「ひゃっ……!」
突如、悲鳴にも似た声が個室に響き渡った。それが自分のものだと気付くのに、明日香は数秒の時間を要した。慌てて口を閉じると、少女と至近距離で目が合う。
「痛かった⁉︎ もしかしてさっき倒れた時に怪我とかしてたのかな? どうしよう……」
「落ち着いてください。私は大丈夫ですから。その、ちょっとくすぐったかっただけです……」
「よかったぁ」
明日香の言葉に、少女は気が抜けたように肩を落とした。なぜだが少女は額に汗を浮かべている。まだ夏ではないといえ、こんなに狭い空間で密着してるのだから仕方の無いことか。
この時、明日香は少女とのやり取りに違和感を感じた。抽象的過ぎて正体は掴めず、小さなささくれが立ったようにモヤモヤとした感触だけが残る。
「先輩」
「ん?」と少女が反応すると同時に、明日香はタオルを持っている方の手を取った。成り行きを見守るように、彼女の視線が結ばれた手に注がれる。明日香は、少女の額へそれを動かした。少女が自分にしてくれたことを、明日香はそっくりそのまま返す。
距離が近付くと、少女は固く目を瞑った。何をされるのか分からなくて反射的にそうしてしまったのだろう。
改めて間近で見ると、少女は人形のようだった。きめ細かな肌を傷付けないように、明日香はタオルを皮膚の上に滑らせる。優しく、繊細に、ゆっくりと。
「先輩も汗かいてましたよ」
「……ありがとう」
バツが悪そうに少女は苦笑した。
少女のおかげで身体はすっかりと乾いていた。これなら問題ないと、明日香は制服のボタンを下から閉めていく。
「さっき話したこと覚えてますか?」
「男の人が怖いって話?」
「はい。……私、過呼吸を起こしちゃうことがあるんです。遠くから見てるだけなら大丈夫なんですけど、直接関わったり声をかけられるのがダメで……。特に、相手の気が立ってたりすると何をされるか分からなくてすごく怖いんです。落ち着こうとすればするほどわけが分からなくなって、それで……」
切り出したはいいものの、着地点が見つけられずにしどろもどろになってしまった。しかし、そんな明日香の拙い告白にも少女は頻繁に相槌を打ってくれた。その仕草が、明日香を酷く安心させる。
あの出来事以来、明日香は心に大きな傷を負ってしまった。誰もが自分を一番大切にしているし、自分を守るためなら他人を傷付けることも厭わない。人は簡単に裏切るし残酷だということを、明日香は痛いほどに理解していた。
しかし、少女だけは例外だった。彼女になら弱さを隠さずに打ち明けられる。固く閉ざしていた心を解きほぐしてくれるような力を持っており、聞かれたわけでもないのに自分から話したくなるのだ。そんな風に思うのは、先ほど危険を顧みずに助けてくれたからなのだろうか。
明日香が少女の立場なら、きっと見て見ぬ振りをしていただろう。男子に物申す勇気も、困ってる人を包み込むような慈悲深さも明日香には持ち合わせていない。明日香にとって、少女は太陽そのものだった。
全てを聞き入れてくれた後、少女は当然のことのように言った。
「大丈夫。私があなたを守るから。だから一緒に頑張ろう?」