運命の人
姿見を逐一確認しながら、明日香は採寸の時ぶりに制服の袖に腕を通す。新品の制服は生地が固く、関節の至る所が動かしにくい。一通り着替え、最後に黒色のハイソックスを履けば身支度は完了だ。
改めて鏡を見ると、強張った表情をした自分が映っていた。とりあえず笑ってみるものの、鏡の中の明日香はちっとも楽しそうではない。
肩にかかる程度のミディアムボブのおかっぱヘアー。やや垂れ目がちな双眸は我ながら気弱そうだ。女性らしい肉付きをした柔らかそうな頬に、平均的な身長に対してほんの少しだけ主張の強い膨らみ。
これといった特徴もなく、明日香はなんの変哲もない普通の女子だった。明日香自身も自分のことを不細工だとは思わないが、特段優れた容姿だとも思っていない。自分なんかよりも眉目秀麗な人物は探せばいくらでもいるだろう。にも関わらず、美来は可愛いと褒めてくれるものだからよく分からなかった。
準備を終えてリビングに入ると、キッチンで母が調理をしていた。どうやら、わざわざこちらの時間に合わせて朝食を作ってくれていたらしい。
母は専業主婦ということもあって、どちらかというと家にいることが多い。だからといって暇を持て余しているわけでもなく、家事をしたりママさんバレーを嗜んでいたりとそれなりに多忙な日々を送っているようだった。それなのにこうして自分のために動いてくれているのだから、明日香は感謝するしかない。
コンロからパチパチと火花が散っており、部屋の中がやたらと煙臭い。
「お母さん。換気扇回してる?」
「あー、気付かなかったわね。ありがとう」
「どういたしまして」
母の隣では美来が盛り付けを手伝っていた。あーでもないこーでもないと、二人は楽しそうに議論を交わしている。会話を続けていると声量が大きくなるのは女の性なのか、彼女らの声は聞くまでもなく耳に届いた。
現在の時刻は五時半だ。こんな早朝から騒いでいては近所迷惑になってしまうのではないかと明日香は不安になる。
視線を動かすと、椅子に座って新聞を広げている父の姿が目に入ってきた。眼精疲労に悩まされているのか、先ほどから眼鏡を上げてはしきりに目頭を押さえている。
「目薬刺さないの?」
「今は切らしていてな。帰りに買ってこようと思う」
「そうなんだ」
話は長く続かず、明日香は渋々父の正面の椅子に腰をかけた。あえて言葉をかけてこないことが父なりの気遣いなのだと明日香は知っている。だからこそ、お互いに無言のままでも気まずさは感じられない。
テーブルに置かれていた麦茶をコップに注いで一気に飲み干す。惰性的な動きで、明日香は意味もなくテレビを点けた。
「本日の気温は二四度。お洗濯日和ですね。ここからは占いですーー」
起床時間がずれていたため、見慣れないニュース番組が放送されていた。しかし、スタジオが同じなのか、見たことのあるメンツが揃っていることに明日香は安心する。
別に当たることを期待してるわけではない。それでも、朝の占いというのは不思議な魅力があってつい自分の順位を気にしてしまうものだ。
果たして自分は何位なのか。入学初日ということを踏まえると、可能な限り上位だと嬉しいのだが。
「おめでとうございます‼︎ 今日の一位は双子座のあなた! 困ってる時、あなたを助けてくれる人が現れるでしょう。その人は運命の人かもしれません!」
「明日香一位じゃん。……運命の人ねー」
テレビ画面を見ながら、美来は複雑な表情を浮かべていた。なぜ彼女がそんな反応をしてしまったのか明日香には分かる。だからこそ、それ以上家族は突っ込みを入れようとはしなかった。
「所詮占いだよ。運命の人なんて、そんな都合の良い人いるわけない」
心の中に留めておけば良いものの、反射的に明日香は本音を漏らしてしまっていた。自分でも恐ろしいくらい刺々しい物言いだった。こんなに強い口調、普段なら絶対に使わないのに。
朝の爽やかな空気から一転、室内は一瞬で陰鬱な雰囲気に包まれた。さっきまで祭りのように騒然としていたはずのに、明日香が発した言葉のせいで誰もが口を噤んでしまっている。
「……ごめんなさい。こんなこと言うつもりじゃなかった」
エプロンを脱いで、母はリビングへ足を踏み入れた。その両手には、美来が盛り付けを手伝っていたサラダの器が乗せられている。
「私たちには気を使わなくても良いのよ。少しずつ前に進めばいいの。お姉ちゃんもお父さんも、もちろん私も明日香のことはよく分かってるから」
ツン、と鼻の奥が痛くなる。込み上げてくる衝動を抑え込もうと、明日香は自身の胸に手を当てて呼吸を整えた。こうしていると少しだけ冷静になることができるのだ。
心の奥底に溜め込んだ感情を流すように息をゆっくりと吐き出す。それを三セットほど繰り返し、ようやく平常心を保つことに成功した。
「朝ごはんにしましょうか。というか、お父さんもいつまでも新聞読んでないで明日香の制服を見てあげなさいよ。せっかくの娘の晴れ姿なのよ?」
「……ん、ああ。似合ってるな」
「適当だなー」
母と美来は、父の関心の無さそうな態度を笑っていた。二人の猛攻に耐えかねたのか「トイレに行ってくる」と言って父は逃走してしまう。
ありふれたいつもの日常だ。
特別なことなどない普通の生活。中身のない会話をしては他愛もないことで笑う。水野家の朝は、実に平和なものだった。
雪百合高校の最寄駅は『雪百合高校前駅』だ。大学前や病院前という駅名は明日香にも耳馴染みがあるが、高校前というのはなかなか聞く機会がなかった。そうは謳っているものの、駅からはそれなりの距離を歩かなくてはならないのだが。
学校説明会の時に時間配分を失敗したことは今でも覚えている。てっきり、駅を出れば目の前に学校があると思っていたのだ。そんな淡い期待は呆気なく裏切られ、水野家御一行は説明会が始まると同時に到着するという事態に陥った。
あれから約一年が経ち、明日香は同じ道を辿っている。雪百合高校に行くには一度電車を乗り換えなくてはならないので、それも考慮して三○分早めに出ることにした。入学日なのだから、早すぎて困るということはないだろう。
時間の都合上通勤ラッシュが発生しており、多くの人で駅構内はごった返している。それを見て明日香は息が詰まりそうになった。人混みや人口密度が高い場所は苦手なのだ。
本来なら電車ではなく自転車で通学したかった。しかし、こちらに選択権が与えられる前に両親はすでに定期券を購入していたのだ。母曰く「娘にそんな危険な橋を渡らせられない」とのことだった。その結論に至る理屈は分からないが、正直なところ自転車だろうと電車だろうと危険度に関しては大差無いと明日香は思っていた。
雪百合を選んだ決め手は自宅から遠かったからだ。過去の自分を知ってる人たちと関わりたくない。その一心で進路を決めた。
逃げと言われても良かった。つまらないプライドを守って身を削るくらいなら迷わず逃げるべきだ。少なくとも、家族はそのことに同意してくれた。
『ご乗車ありがとうございました。開く扉にご注意下さい』
アナウンスと共に扉が開き、雪崩のように乗客が車外に押し出される。さすが高校前と言うべきか、周囲にいる人たちの大半は明日香と同じ格好をしていた。
今日に至るまでに何度かここに来ているはずなのに、その時とは空気感がまるで違う。例えるなら、傍観者から当事者になったような感覚だ。説明会に行った時は中学生だったため、生徒の服装はバラバラだった。さらには雪百合高校の在校生も休みだったため、この制服を着た人を見かけることは今までなかったのだ。しかしながら、明日香は今それを着てここに立っている。それも、皆が同じ場所を目指している。紛れもなく、明日香もその中の一員だ。
ここまで来てようやく、明日香は高校生になるのだと実感した。
一年生が過半数なのか、学校に向かう道中は一人でいる生徒がやたらと目に付いた。イヤホンを耳に刺す者。空を眺める者。淡々と歩き続ける者と、彼らの行動は様々だ。一体、何を考えながら彼らはこの道を歩んでいるのだろうか。
雪百合高校前駅は商店街やコンビニが多く、イベント会場のような騒がしさに包まれていた。そこから五分ほど進むと次第に静けさが増していく。
あとどれくらい歩けば学校に到着するのかと想像を膨らませていると、あるものに明日香は視線を奪われた。
派手な装飾でも、上質な紙が使われているわけでもない。しかし、明日香の身体はいとも簡単にそこへ吸い込まれた。話しかけられているような気がして無視できなかったのだ。事実、それは勧誘する目的も含まれていたらしい。
『心のモヤモヤは話してスッキリ! どんな人でも歓迎します。部員も募集中!』
一言一句に魂を込めたような筆跡で、これを書いた人物はさぞ活発な性格をしているのだろうと思う。さらに紙の下方部に目をやると『雪百合高校相談部』と記されていた。どうやら、相談者兼部員を募集するためのチラシだったようだ。
部活動。胸の内で反芻した言葉は、明日香にはおおよそ似つかわしくない響きだった。
中学の頃、明日香は帰宅部だった。周囲が活動に精を出す中一人で帰宅するというのは、罪悪感と優越感が混ざったような気持ちだ。生徒の自主性を重んじる方針なのか、部に所属することは強制ではなかったが。
明日香の放課後は、母の買い物に付き添ったり散歩をしたりとそんなところだった。過去を振り返ると、我ながらなんて虚しい学生生活を送ってきたのかと嫌気が差す。もう少し思い出に残るような、青春と言われる日々を送りたかった。
高校に入ったら何か始めてみるのもありかもしれない。雪百合高校に自分を知る人はいないのだから、新しいことに挑戦するには丁度良い機会だった。
学校に到着して校舎に足を踏みいれようとすると、すでに多くの人で溢れ返っていた。我先にと、入口の前に鎮座する集団はもぞもぞとうねりをあげている。入試の結果発表の時と似たような光景だった。
この状況を作り出している正体がなんなのか、集団に視線を阻まれてる明日香には分からない。
「俺二組だったよ」
「俺は五組だわ。てかさ、名前からして担任怖そうなんだけど……」
集団から脱してきた生徒たちの会話から察するに、この先ではクラスが発表されているのだろう。そこで、明日香は次の行動に悩んだ。
閑散とするのを待って自分のクラスを確認するか。今すぐに目の前の戦場に飛び込んで教室でゆっくりと時間を過ごすか。
どちらが危険に犯さずに済むかは明白だった。しかし、これからここにやって来る生徒が少なくなるという保証はどこにもない。むしろ、時間が経つほど混雑するだろうと明日香は予想した。
始業時間が八時半なのに対して、現在時刻は七時五○分。状況を冷静に吟味した結果、明日香は後者を選択した。
おそるおそる集団に飛び込むと、肌をジリジリと焼くような熱気に襲われる。満員電車のそれとは違った独特な空気感。誰もが興奮して浮き足立っている。
こういう空間は苦手だ。盛り上がりを強要されているような気がして居心地が悪いから。
早くここから抜け出したい。
その願いが通じたのか、明日香は幸運にも集団の先頭に踊り立つことができた。どうやら、流れに背中を押されたらしい。
入学おめでとうと華やかに装飾された文字を一瞥すると、明日香は左から順に見落としがないように紙面をチェックしていく。一学年は全部で八クラスあるらしく、三○○近くある名前から自分のそれを探し出すのは骨が折れる作業だった。
やがて、視線を上下に二回往復させたところで明日香は動きを止める。
「……三組か」
呟かれた声は、なぜか他人事のようだった。