姉と妹
けたたましく鳴り響くそれをめがけて明日香は手を伸ばす。憶測だけで動かす腕は宙を泳ぐばかりで目的地には一向に辿り着けない。目を開ければいいだけなのに、明日香はそれを拒んだ。
目に見えるものは確実性があって楽だ。自分が間違っていないことを確信できる。しかし、逆に間違っているということを明白にしてしまう可能性もある。
決断することは怖い。それはきっと誰だってそうなのだろう。白か黒しかない世の中は、明日香には荷が重すぎた。水で薄めた絵の具みたいに、全てを曖昧にボカしておけば誰も傷付くことはないのだろう。
振り回す手に衝撃が走ると同時に、ガチャン、と何かが落ちる音がした。その刹那、先ほどまでの騒がしさが嘘のように室内は静まり返る。
どこからかカラスの鳴く声が聞こえ、目の前まで迫ってきている現実を直視せざるを得なくなった。それから逃げるようにして、明日香は再び布団に顔ごと突っ込む。
柔らかな甘い香りが鼻腔を駆け抜けた。シャンプーの匂いだ。自分自身の香りというのは否応なく落ち着く。水野明日香という人物が確かに存在してることを実感できるのだ。
トントン、と不意に扉がノックされた。
強すぎず弱すぎず、適切な力加減でそれは繰り返される。音を奏でている主はどうやら諦めるつもりがないらしい。こちらの返事を待つことが無意味だと悟ったのか、やがて扉の向こう側の人物は部屋に乗り込んできた。
「起きてる?」
「……起きてるよ」
無視するべきか悩み、しかし結局は応答する。
「だったらこれは没収する」
声の主は躊躇することなく、明日香を覆い尽くしている布団を強引に剥ぎ取った。視界が大きく開けると、布団越しの人物が判明する。
目を痛めないように配慮してくれたのかカーテンは閉じられたままだった。数々の楽器がポップに描かれているそれは、明日香の部屋をわずかながら彩ってくれている。
「おはよう。明日香」
「おはよう。お姉ちゃん」
こちらの顔を見て、目の前の女性は満足そうに口角を上げる。悪戯が成功した子供のように、彼女は無邪気に真っ白な歯を見せてくれた。
彼女の名は水野美来。明日香の四つ上の姉だ。
美来は明日香を起こす係だった。係といっても家族で決めたルールなどではなく、明日香と美来の間で勝手に成り立っているものだが。
明日香は幼い頃から寝起きが悪く、寝坊しそうになる度に美来のお世話になっていた。その恩恵を受けてか、明日香が今まで遅刻したことは一度たりともない。以前は一緒の部屋で寝ていたのだが、美来が高校に入ると別々の部屋に分かれてしまったのだ。それでも気苦労は絶えないらしく、用事がない限りは基本的に毎朝起こしに来てくれていた。
ついさっきまで身を守ってくれていた装備がなくなり、裸にされたような気分になる。得体の知れない恐怖に襲われ、明日香は自身の身体を両手で強く抱きしめた。パジャマに深々と皺が刻まれ、二の腕に指が深くめり込む。
ベッドから床を見下ろすと、目覚まし時計が内臓を吐き出して無残に倒れている姿が視界に飛び込んできた。間違いなく、それは先ほど明日香が手にかけたものだった。
「本当に大丈夫なの? 辛かったら無理しなくてもいいんだよ?」
訳知り顔でそう告げると、美来は不安そうに胸元に手を当てていた。
よく見るとネックレスを身につけており、美来はそれを弄っているようだった。大学生はやはり自由なんだと、身を揺すられる度に煌めくそれを明日香は眺めていた。おそらく 、自分には無縁な代物だ。
「大丈夫。高校は私を知ってる人はいないと思うし、そのために雪高を選んだから」
雪高というのは、雪百合高校のことだ。近所の住民や生徒からは『雪高』という愛称で親しまれているのだ。雪高は、明日香の自宅から約一時間ほどの場所に位置する。最寄駅まで徒歩一○分、そこから電車に乗ること四○分、学校までが再び徒歩一○分という内訳だ。
入学式で登校初日ということもあり、時間に余裕を持たせようと明日香はいつもより早く目覚まし時計をセットしていたのだ。その甲斐あってか、カーテンから透けて見える空はまだ薄暗い。紺青色の空は、一見すると朝なのか夜なのか判別できなかった。
「明日香がそう言うなら私はこれ以上口は挟まないよ。……楽しい高校生活になるといいね」
「そう、だね」
果たして気丈に振舞えていただろうか。大丈夫だなんて豪語しておきながらも、ちっともその声には芯が通っていない。
「高校生か。懐かしい響きだなー」
美来は、ベッドのそばに吊るされているあるものを凝視していた。過去に想いを馳せているのか、彼女はその間一言も言葉を発そうとはしない。
「雪高の制服って可愛いよね。ちょっと羨ましい」
「お姉ちゃんはこういうのが好きなの?」
「好きだね。自分が着るかどうかは置いといてね」
「お姉ちゃんはかっこいいっていうか、綺麗系だもんね」
美来は間違いなく美人だ。姉ということを差し置いても彼女は周囲と比較して一際目立つ。女性の中では高い方である一七○センチメートルという身長に、耳が見えるように短く揃えられた髪。一言で表すならモデルのような出で立ちだ。彼女の容姿は、サッパリとした性格を見事に反映していた。やはり、内面は外見に現れるということなのだろうか。
線が細く、美来はジャケットにズボンという格好をしていることが多かった。きっと、それが自分を一番美しく見せられると彼女は理解しているのだろう。中性的な顔立ちをしてることもあり、幼少期から同性異性問わず多くの人からイケメンと持て囃されていたようだ。
何も知らない人に「この人はこれから女優になる」と伝えたとしても、その人たちはきっと信じるだろう。そう思わせるだけの美貌と魅力が美来にはある。明日香は、多くの意味で美来のことを尊敬していた。
「明日香は可愛い系だよね。姉妹でどうしてこんなに違うんだろうね?」
「多分、お姉ちゃんはお父さんに似たんだよ。それで、私はお母さん似だと思う」
「鼻の形とか特にそうかもね。お父さんかっこいいからなー」
「それ、お姉ちゃんが言うの?」
「言うね。だって、私もかっこいいから」
美来の台詞に明日香は唖然とするしかなかった。
仮に自分のことをそう思えたとしても、明日香は絶対にそれを口にしない。正確に言えばすることができない。そんなことをした暁には誰にどんなことを言われるか分かったものではないからだ。
想像するだけでも背筋が凍り付く。明日香は他者からの非難に耐えられない。誰かに傷つけられることは怖い。そんなことは火を見るよりも明らかだ。だからこそ謙虚に、流れるように身を任せる。個性を出せば誰かが粗を探し、ゆくゆくはそれが伝播して公開処刑にされる。ショーを終えた後の演者に観客は興味など無く、最後は見捨てられるだけだ。
美来は強い。自分に自信を持ち、正しいものは正しい、間違ってるものは間違ってると断言する。その上、他人に対しての配慮も決して怠らない。己の道を歩み続ける美来は明日香にとって眩し過ぎる存在だった。
美来のことは好きだが、時折嫌いになりそうなことがある。彼女と接していると自分の情けなさを炙り出されるような気がするのだ。きっと、明日香のトラウマであろう出来事も美来には簡単に解決できたに違いない。
「ーーすか、明日香」
美来の呼びかけに明日香は我に帰った。すぐに思考の檻に囚われてしまうのは明日香の悪い癖だ。
「ごめん。なんだっけ?」
「私がかっこいいって話でしょ?」
「それはもういいよ」
「はいはい」
初めから明日香の返答を予想していたのか、美来はそれ以上話を広げようとはしなかった。こちらから何か言った方がいいのかと逡巡していると「でも」と唐突に美来は言葉を紡いだ。
「明日香にはその制服似合うと思うよ。可愛い子が可愛い服を着たら可愛いよね。当たり前だけど」
美来の視線に誘導されるように、明日香の瞳は制服を捉えた。
白を基調としたシンプルなセーラー服。所々に紺色が混じっているのは刺繍と模様だ。雪の妖精を連想させるような儚くも繊細なデザイン。触れたら溶けて消えてしまいそうで、試着する時はかなり慎重になっていものだ。風の便りによると、この制服目当てで雪高に来る生徒も多いらしい。
この制服の利点は、真っ白ながらも下着が透けないことだ。これは年頃の女子にとっては非常に重要なことであって、装飾性と機能性を兼ね揃えた雪高の制服は明日香から見ても魅力的だった。科学は日に日に発展しているのだと、明日香は改めて感心する。
とはいえ、そんなことで大切な進路を決めてしまって良いのかと感じるのもまた事実だった。明日香自身も胸を張れるような理由で進路を選んだわけではないから、偉そうなことは言えないが。
「そんなに可愛いを連呼しないでよ」
「照れてるの?」
テンションが上がったのか、美来は突然抱きついてきた。
「ちょっとお姉ちゃん……。暑いから離れてよ。それに、今汗かいてるし」
見かけによらず、美来にはこういうところがあった。
誰彼構わず美来はすぐにスキンシップを取りたがるのだ。気が済むまで解放してくれないせいで徐々に対抗する気力を失い、最終的にはおもちゃにされるというのがいつもの流れだった。
「そうだ、私が着替えさせてあげようか?」
予想の斜め上を行く展開に、明日香の頰に熱が帯びる。
「それはいいよ」
「そっか」
呼吸がしやすくなると、胴体を締め付けていた感触がゆっくりと消え失せる。珍しく、美来はすぐに離れてくれたようだった。
「これから着替えるから、お姉ちゃんはもう出て行って」
部屋から追い出そうと、明日香は美来の背中を入り口まで押していく。思うことがあったのか、美来は真面目な様相で顔だけこちらに向けていた。かと思うと、彼女は突如として口元を綻ばせる。
「どうしたの?」
「いや、明日香の緊張がほぐれたみたいで良かったなって」
指摘され、先ほどまでの恐怖心が多少なりとも和らいでいることを自覚する。今までの何気ないやり取りにも全て意図があったらしい。
それを理解すると、目の前の人物には敵わないと改めて痛感させれた。付け加えるならば、罪悪感のような感情も含まれていた。美来の手をここまで煩わせてしまうのは、自分の弱さが原因なのだから。
「お姉ちゃん」
部屋を後にしようとする美来を、明日香は間一髪で引き止めた。これだけは伝えなくてはならない。
「ん?」
「ありがとう」
美来は驚愕したように両目を瞠った。しかしそれも束の間のことで、彼女はすぐに背を向ける。
「いいってことよ」
背中越しに手をヒラヒラとなびかせる姿は、相変わらず頼もしかった。