始まりの日
門出を祝う役割を終えた桜が散り始め、春の終わりが予感していた日のことだ。その日、水野明日香は微かな違和感を抱いた。
今日は一度も武田義彦と会話していない。それに気付いたのは二時限目を終えた時のことだ。心なしか距離を置かれている気がする。
なぜ急にそんなことになったのか、明日香には皆目見当がつかなかった。義彦に対する態度に失礼があったのだろうか。記憶の糸を手繰り寄せるも、やはり思い当たることはない。
どうしてこんなことになってしまったのか。心の中で嘆いた問いかけに答えてくれる者は誰一人としていなかった。
四時限目を終えると疑惑は確信に生まれ変わる。
昼食を摂ろうと、生徒たちは各々机をくっつけ始めていた。いつもなら自分もその輪の中に入っている頃だが、明日香は授業を終えた時と寸分違わぬ状態で突っ立っているままだった。本来自分がくっつけているであろう場所を見ると、ピースが欠けたパズルのように不自然に凹凸ができている。
突如、身体が沈み込むような感覚に襲われた。振り返ると、同じ班の少女に体重をかけられていたことに気付く。
「……どうしたの?」
「さっきから呼んでるのにちっとも反応しないから」
呆然としていた明日香を咎めるように少女は仰々しくため息をつく。ふと室内を見渡すと、いくつもの双眸がこちらを見つめていた。
明日香の反応を見てほくそ笑む者。意味不明とでも言いたげに首を傾げている者。興味深そうにひたすら凝視してくる者。そのどれもが、明日香には善意からくる行為とは到底思えなかった。
その中には義彦の顔もあった。一瞬だけ目が合うと、彼は焦ったように顔を背けてしまう。「こっちを見るな」と言われているような気がした。
眉を顰め、忌々しそうに孤を歪める唇。背中を向け、逃げるような素振りを見せた義彦の容貌だ。
どうしたってそれは照れてるようには見えないだろう。それどころか、視線が交わったことに対して明らかに嫌悪感を抱いているように思えた。
事情は分からずとも、義彦が明日香との接触を避けていることは明らかだった。受け入れ難い事実を認識した途端、心臓を鋭利な刃物で引き裂かれたような痛みが走る。
「ねぇ、聞いてる?」
「……うん。ごめんね」
無視してしまったことを謝罪し、明日香は離れ離れになっていた最後のピースをはめ込むように机をくっつけた。
「今日はやたらとぼーっとしてるね」
「そんなことないよ?」
「ふーん」
余計な追求をされたくないと明日香は素気無く対応する。まるで、自分は傷付いてなんかいないと強がるように。そんな明日香の態度は少女にも伝わったらしく、彼女から発せられる声のトーンが一段階低くなった。誰かと世間話ができるほど明日香は余裕を持てなかったのだ。
昨日までは問題なく会話をできていた義彦が、なぜあのような変貌を遂げたのか。それだけが明日香の思考を埋め尽くしていた。
初恋だった。
自身に舞い降りた感情に振り回されつつも、明日香はそれと向き合うことを決意した。
義彦とは三年になってから同じクラスになると、なんの巡り合わせか席も隣同士になる。どうやら、彼はサッカー部に所属しているらしかった。自己紹介の時にそう話していた。
サッカーどころか運動できるのか。
失礼ながら、明日香は心中で下世話な突っ込みを入れてしまったことを覚えている。
義彦の身体の線は細く、まるで女の子のようだったからだ。それでも、喉元から浮かび上がる出っ張りやワイシャツから覗く二の腕の筋肉からは、彼が男だということを辛うじて証明していた。
最初に話しかけてきたのは意外にも義彦からだった。明日香とは真逆で、彼は陽気な性格をしていたのだ。自分からアクションを起こすことが苦手な明日香に対して、義彦は常に誰かと一緒にいた。しかしながら、明日香は毎日一人きりだ。
だからこそ、義彦がわざわざ自分なんかに話しかけてくれることに明日香は戸惑った。席が隣だったことも相まって、彼と話す機会は日に日に増していった。他愛もない話題を振られては曖昧に返す。そんな日常を送り続けている間に明日香は義彦に好意を持ってしまったのだ。
義彦と具体的にどういう関係になりたいという願望があったわけではないが、このままでは彼は離れていってしまうだろう。それだけは間違いない。
漠然とした不安に駆られた明日香は義彦の友人に相談を持ちかけることにした。友人は、明日香の話を親身に聞いてくれるとても信頼できる人物だ。どういう風の吹き回しか、明日香の様子を見て察した友人が話を聞いてくれるようになったのだ。
明日香はただ、その厚意にすがりつくだけだった。
その日は一度も義彦と話すことなく、ついには放課後を迎えた。
この事実を友人に報告しなくちゃいけない。どうにかしてこの危機的状況を打破しなければいけないのだ。そうしないと義彦とは二度と話せなくなる。
義彦に事情を直接訊ねることもできたはずだった。明日香にはそうするだけのチャンスとタイミングを持ち合わせていた。
しかし、結局はそれを決行するに至らなかった。義彦と出会って二ヶ月も経つというのに、明日香はいまだに自分から話しかけたことがない。彼が話しかけてくれるのを待ってひたすら受け身に回る。蛹のように身を守り、その場に佇むことしか明日香にはできないのだ。
階段を上って待ち合わせ場所に向かうと、一人の生徒が背中を向けて立ち尽くしていた。おそらく友人だ。
相談しようかと悩んでいたところ、友人は偶然にも声をかけてくれた。話したいことがあると言われて、こうして呼び出されたというわけだ。
今から話すことは決して他人に聞かれてはならない。念のため周囲を確認するも、人影らしきものは見当たらなかった。そのことにひとまず安堵して明日香は声をかける。
「お待たせ」
こちらの気配に気付かなかったのか、友人はビクリと身を震わせた。ゆっくりと振り返る動作はロボットのようで妙にぎこちない。
「水野か」
暗く淀み、自嘲的な声で友人は呟いた。耳を凝らしていなければ聞き逃してしまうような声量だった。周囲が騒がしければおそろく聞き逃していただろう。
なぜだか、友人は苦渋の表情をを浮かべていた。不味い物を不味いと言えずに頬張り続けているような、そんな顔だ。
明日香の名前を呼んだっきり黙ってしまい、友人との間に陰鬱とした雰囲気が漂う。こちらから切り出せるわけもなく、明日香は様子を見続けた。
三階だというのに、一枚窓を隔てた先からは野太いかけ声が聞こえてくる。運動部が集団でランニングでもしてるのだろうと明日香は推測した。
「……話ってなに?」
一向に進展しない状況に耐えかね、明日香は早く用を済ませるように急かした。こちらの相談に乗ってもらわないと困るのだ。いつまで経ってもこのままでは、友人の話を聞いて解散ということにもなりかねない。それだけは避けたかった。
義彦にも今のように話しかけられればいいのに、と明日香は心の中で嘆いていた。
「今日あいつと話してないだろ?」
「……うん」
それが指す人物を明日香はすぐに理解した。友人と話す以上、必然的に会話の対象となる人物は限られているからだ。
先制攻撃を受けて反応が遅れてしまった。本来、それはこちらから話したい内容だったのに。
友人はどうしてその話題を切り出してきたのか。先ほどの口調といい、今日の友人の様子は明らかに変だ。
「悪い。俺、あいつに水野のこと話しちまった」
「えっ……?」
言われた意味が分からなかった。しかし、一拍置いてから頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。
突然の義彦の異変。目の前にいる友人の申し訳なさそうな仕草。全てが繋がり、明日香は一歩後ずさる。
「あいつと水野の話題になってさ、その時にうっかり話しちまった。ごめん」
「どう、して?」
紡がれた声音は弱く、脆い響きを伴っていた。言葉を発している感覚がなく、心の声が勝手に漏れたみたいだ。額や背中はグッショリと汗をかいていているのに、身体は驚くほど冷えている。崩れ落ちそうになる身体を壁に手をつくことで支え、なんとか持ちこたえた。
「お、おい。大丈夫か?」
「大丈夫なわけないじゃん……!」
張り上げた声はほとんど悲鳴のようだった。日が沈み、闇色に染まりつつある廊下にそれは強く反響する。
心が追いついてくると、瞬く間に視界が滲んだ。瞳から零れ落ちそうになる涙を拭おうともせずに、明日香は続けた。
「どうして話しちゃったの? あなたは私のことを応援してくれるんじゃなかったの?」
「そのつもりだったよ。でも、話しちまったんだからしょうがないだろ?」
「……なにそれ。自分は悪くないってこと?」
「別にそんなこと言ってないだろ。ごめんって謝ったじゃん」
開き直ったように、友人は軽く舌打ちをした。こちらの言葉に明らかに不快感を感じているようだ。
言い過ぎたと思うと同時にすでに遅いとも思った。分かっていても、悲しみや苦しさに押し潰されて相手を責めることしかできないのだ。そうでもしないと明日香は自分を守れない。本当は、これからどうしたら良いのかをただ相談したいだけなのに。
義彦との間にできた溝は自分一人じゃ解決することができない。それが分かってるからこそ友人を頼ろうとしていたのに、その結末がこれだなんてあんまりだ。
「大体、俺なんかに頼らなけりゃこんなことにはならなかっただろ? それに言ってたよ。あいつはお前のことなんか好きじゃないってな」
仕返しとばかりに友人は毒を吐く。
間接的に振られた。
その事実を突きつけられた瞬間、明日香はついに崩れ落ちた。頭が真っ白になる。何も考えられず、目の前に映る床の模様をただ眺めることしかできなかった。今すぐに叫び出したいのに全く声が出ない。
「じゃあな」
これ以上話すことはないと、友人は明日香の横を通り過ぎた。タンタン、と上履きが一定のリズムで床を叩いている。それが消えてしばらく経っても明日香は一人で座り尽くしていた。窓の外はすっかり暗くなっており、先ほどまでのかけ声も今は聞こえない。
ありとあらゆる刺激が失われて無が訪れる。涙はとっくに乾いていた。乱れた顔面を洗い流そうと立ち上がると、月光が目に沁みた。
このまま二度と朝が来なければいい。湧き上がった感情は、そんなくだらないものだった。
義彦に真意を問えばいいだけだった。
「そんなこと言ってないよ」と、悪夢から救ってくれるかもしれない。しかし、そんな妄想が現実になることはあり得ないということは明日香が一番理解していた。これまでの状況を踏まえれば、友人から告げられた内容が正しいはずなのだ。そうでなければ関係が崩れた経緯を説明できない。
限りなく低い可能性に身を投じれるほど明日香は強くない。信頼していた人に裏切られる絶望感を、この日明日香は初めて知った。
そしてこれ以降、明日香は男性という生物が悍ましくなってしまうのだった。