4 硝子の檻
垂れ落ちる粘液の向こうで、ミナが笑っている。
結い損ねた髪が肩を流れおちるのも構わず、くすくすと朗らかに、この上なく楽しそうに。
私は汚れた額を拭うことも忘れ、じっとその表情に見入ってしまう。
愛らしいミナ。私の義妹。
彼女と初めて会ったのは、教会だった。
「領主の娘として、新たな領民と仲良くしてください」なんて勝手極まりない司祭の紹介で。
領主の権力と教会の権力は、街を二分している。いくら私でも、司祭に頼まれれば断れない。
司祭に連れられたあなたに向け、不機嫌に挨拶をして見せた。
だけど、顔を上げたあなたの顔を見れば、すぐに気持ちが変わったわ。
ミナはあの頃から可愛らしかった。
無邪気な瞳はまるで、スミレの花弁をうるおす雫のよう。
銀の髪は仄かに光をはらむ、レースのカーテン。
真珠のような肌に、淡く紅をはいたような頬。
魔術が使えないというのは、その時本人から聞いたことだった。
だけど、そんなことはミナの魅力を少しも損ないやしなかった。
私は決めたわ。
どうしたって、あなたを私のものにすると。
魔術の使えないあなたの代わりに、私があなたを守ってみせると。
領主の館で引き取りたいと折角私が言い出したのに、孫のようにあなたを可愛がっていた司祭は頷かなかった。
だから、父にも話を持ち掛けたわ。司祭からあなたを引き取って欲しいと。年の近いお友達が欲しいわ、とあどけない私が言えば、さしたる問題もなく父は頷いた。
だというのに、父が頼んでも首を縦に振らない司祭は、私にとって邪魔でしかなかった。
そのうち、私よりも父の方がミナを手に入れることに執着し始めた。
何かの隙に使おうと毒を手に入れたのは、父にしては良い判断だったわ。
司祭は人の好い男だった。大きな秘密を抱えているなら、もっと臆病にならねばならなかったのに。
結論から言えば、そういう意味でも、彼はミナの保護者に相応しくなかった。彼女の愛らしさはもっと積極的に庇護されるべきで、性善説を信じるだけで危険は遠ざけられない。
身を守る魔術も使えないといつか周囲に知られたとき、ミナの愛らしさは、彼女自身を傷付ける棘となる。
だから――司祭に代わって、私がその役割を果たすことにした。
ミナと遊ぶために教会に行った日、司祭の部屋の水差しに、たっぷりの毒を入れておいた。
司祭が気付いたのは、ぜんぶ飲み終わった後、真っ赤な血を口から噴き出してからだったわ。
「……まさかお前は、あの子の正体に、気付い、て……?」
血を吐きながら、司祭は私の足首に縋りつく。
もちろんその時の私は、ミナが何者かなど知りもしない。
ただミナの愛らしさをもっと近くで愛でていたかっただけ。
「どうか止めてく、れ……ミナだけは許してくれ……」
「なぜ私がミナを殺すだなんてお思いなのかしら。失敬ね」
私は薄ら笑いを浮かべつつ、意外な思いで首を傾げた。
司祭の手はますます強く、私の足を血で汚す。
「正妃の手の者には、認められなくとも……彼女が王女なのだ……王の血を引く娘を、失え、ば、この国は……」
小さな私にしては、よく考えたと思う。
うわごとのような司祭の言葉をしっかりと咀嚼して――そうして、一つの答えに達した。
きっと父も、ミナの出自を知ったに違いない。
だから、突然彼女を手に入れることに躍起になったのだろう。
司祭の死体を見下ろして、私は更に考える。
もしもミナが本当の王女ならば、ただの地方領主の娘とは、いつか離れ離れになってしまう。
そんなことが許せるはずもない。
彼女は――私のものなのに。
だから、ミナを私の傍に引き留めるために、手を打つことにしたのだ。
そして今――ミナは私の前にいる。
薄桃色の唇は、柔らかなプラムの果実のよう。
尖った靴先がそっと私の顎に当てられて、汚れた髪のまま上向かせられる。
「無様な姿ね、お義姉さま」
あの頃と同じスミレ色の瞳が、真っすぐに私を見下ろした。
苛立ちと蔑みの混じった薄笑いを見上げて、私の胸はじわりと痛む。
悔しさではない、ただ、あなたがそこにいる喜びに。
ミナは王女。いずれはこの国を守る女王となるだろう。
宮殿に戻された彼女は、もうけして玉座を離れない。離れられない。
いくらミナが望もうとも、周囲はそれを許さない。
きっと、薄々ミナも気付いているのだ。
ただ、高揚と日々の華やかさに見失って――いいえ、見失おうとしているだけで。
こうなることを私は知っていた。
知っていて、シャリドラ侯の耳元にそっと告げたのだ。
父は、あなたに隠し事をしている、と。
ミナ自身の望みでもあったとは言え、私をここへ連れて行くことが許されたのは、注進のおかげだろう。
あそこでミナが言い出してくれたのは、とても助かったけれど。
勿論、物慣れぬこの宮殿で、ミナの鬱憤を受け止められるのは、誰あろう私しかいない。
そのために、こうまで憎まれるように仕向けてきたのだもの。
街の人々からあなたを引き離すために悪口雑言を垂れ流し、同時にあなたは私だけの標的なのだと知らせるために、私のいない場所でのいじめを禁じたわ。館の者達にも、蔑むことは許したけれど、手を出すことはけしてさせなかった。
最後の一押しはきっと、シャリドラ侯の上着だったと思うの。あなた、随分とあれを大切にしていたから。
あなたを守りながらあなたの憎しみを一身に浴びるのは、大変ではあったけれど、苦ではなかったわ。
私だけがただ一つミナの自由になる、気晴らしの玩具になるためなのだもの。
ミナが足先を引いて、私に顔を近付けてくる。
こぼれ落ちそうなスミレの瞳が間近に迫る。
私とミナの周りを、垂らされた長い銀の髪が静かに覆っていく。
「ティリス、あなたはずっと私の傍にいるのよ。シャリドラ侯のところになんか、行かせてやらないんだから」
美しい銀髪の輝きは――ああ、まるで、硝子の檻のよう。
こんなにも脆く、輝いて見えるのに、けして外へは出られない。
私達を囲う、玉座という名の煌びやかな檻。
私はミナの瞳を見詰めながら、心の中だけで囁いた。
――でも大丈夫よ、私の愛しい義妹。
内側にいるのは、あなただけじゃないのだから。
ねえ、ミナ。
私たち、きっと、ずっと一緒ね。