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硝子の檻  作者: 狼子 由
2/4

2 奪われた宝物

 隙間風の吹きこむ粗末な屋根裏部屋に、不似合いな上着が一着。

 窓辺の月明かりに、繊細な金の飾りが揺れている。

 柑橘の香りが寝台の上にもほのかに届く。私を見るあの真摯な瞳。


 階下からはまだ笑いさざめく声が聞こえる。

 宴の客が、酒に酔ってバルコニーでがなり合っている。


「……陛下にお子がいないのは残念だがな、今がチャンスというものさ」

「世情が安定しないのは、王子殿下が亡くなってからだろう。野獣の数も増え、家畜もうまく育たぬ。早く次のお世継ぎを、というお声は多い」

「それだよ、君。こんな辺境へ――此度のシャリドラ侯のお越しはそういうことさ」

「どういうことさ」

「陛下のお子だよ。新たなお世継ぎが必要だ。めかけを探しに来たんだよ」


 それから、どの娘が相応しいかと内も外も引き比べる、ひどく下世話な話が始まった。

 私は必死に耳を塞ぎ、じっと上着を見詰める。

 いいえ、今の酔漢は、この上着をくださった方ではない。

 あの方の声ではないし、それに……あの方はこんな話はしないわ。


 ふと、バルコニーの扉が開く軋んだ音がした。

 ホールの華やかな音楽や会話が、夜空へあふれ出る。

 会話の中心にいるのは甲高い声の娘――きっと、姉のティリスだ。

 ティリスは領主さまの正統な娘として、歓迎の宴に堂々と出席しているのだろう。美しいと、麗しい姫君だと、誰もに褒めそやされながら。

 参加することさえはなから期待されていない私とは違う。


 私に上着をくださったお客さまは、無事にお戻りになれただろうか。

 上着のないままホールに入って、不審がられなかったかしら。


「……王都からいらした、立派な上着の方」


 どちらの方、どんな地位の方なのだろう。まだお若く見えたのに、こんな辺境まで。

 領主さまにどんなご用でいらしたのかしら。

 いつまで、こちらに滞在されるのかしら。

 耳を塞いだまま、寝台に伏せ、壁際で揺れる上着の輝きを眺めているうちに、私はうとうとと夢の中へ落ちて行った。


 その夜の眠りは深かった。

 濃紺の夢の中に、柑橘の香りが漂っていたような気がした。 



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



「どうしたの、いやに上機嫌ね」


 宴の翌朝、いつものように、ティリスの髪を整えていると、声をかけられた。

 鏡越しに私を見るティリスの青い瞳と、ふと目が合う。


 その眼差しに不審げな色と蔑みを見て、私は静かに目を伏せた。

 義姉あねの髪をセットしていると言えば、仲の良い姉妹のように聞こえるかもしれない。

 だけど、こんなのはティリスの嫌がらせでしかない。

 血も繋がっていない私を、普段は下女同然の扱いにしている癖に。


 ティリス自身は「ミナは自分の役割を知らないのだから、色々試してみれば、偶然にでも見つかるかもしれないわ」などと言う。

 だけど、私が領主さまに引き取られてからずっと、この習慣は続いている。いつまで経っても私は魔術を使えないし、私が侍女の娘だなんて可能性はとっくの昔に否定されている。

 私が本物の侍女の子ならば、今頃は主人の周りを差配する魔術が使えるだろうに。

 それなのに、嫌がらせのためだけに私を呼びつける。そんなティリスに対して、好意を持って接することのできるはずがない。

 私は、小声で問い返した。


「私が上機嫌ですって?」

「そうよ。口元が笑っているわ。気付いていないの?」

「そんな……」


 そんな訳がない。本当なら、ティリスの傍になんて一瞬たりともいたくはないのだから。

 まさか面と向かってそんなことを――しかも領主の実の娘に対して――言えるはずもなく、私はただ口ごもった。

 ティリスは鋭い眼差しで、鏡の向こうの私を睨み付ける。


「何か良いことがあったの。碌な魔術も使えやしないのに、浮かれられるようなお気楽なご身分で羨ましいことだけど」


 あからさまな皮肉に答える言葉はない。

 黙って髪を編んでいると、ため息が聞こえた。


「まあ、あなたに良いことなんて起こる訳がないわね。それより、今日はサッシュを腰に巻いた青いドレスを出してちょうだい。あれが一番私に似合うから」

「青ね、分かったわ」


 普段はそれで終わる会話が、どこか楽し気なティリスの声で引き伸ばされる。


「あなたは知らないでしょうけど、お父さまのところへお客さまがいらしているの。何でも、国王陛下のご命令でどなたかを探しているとかで。王都の若い侯爵さま――シャリドラ侯よ」

「侯爵さま……? まだお若い方なのに」


 昨日通りすがった上着の方が思い浮かんだ。

 若く紳士的で、華やかな王都の方。


「お若いし、それに――ふふ、独身なのですって。昨夜は盛大に歓迎の宴を開いたのよ。街の未婚の娘たちは全員参加したわ。ええ、あなた以外」


 私は黙って頷いた。

 呼ばれる訳がないのは分かっている。


「シャリドラ侯は素敵な方だったわ。地位だけじゃない、見目もよろしくて」

「そう……」

「昨夜は鮮やかな濃紺の上下を着てらして――ええ、途中で一度席を外して、上着をお着替えになっていらしたのよ。白い立襟も銀の刺繍が見事で、とてもお似合いでらしたわ」

「濃紺の、上着……」


 胸がどきりと鳴った。

 まさか、まさか。いいえ……ええ、やはり、あの方は。

 私の狼狽に気付かぬまま、ティリスは指先で鏡を指す。


「ねえ、そこにもう一つ飾りを付けて。そっちじゃない、向こうの大きな真珠の付いた方を」


 鏡の向こうで、ティリスの指した髪飾りがちりりと揺れた。ティリスの魔術だ。

 私は、伸ばした指の震えを隠しながら、真珠の髪飾りを取り、髪の隙間に挿してやる。

 あの方が侯爵さまだなんて。雲の上の方だとは思っていたけれど、そんなにも距離のある方とは。


 ティリスは私など気にも留めず、満足げに自分の顔を何度も見直している。


「お嫁に行くなら、ああいう方が良いわね。王都はここよりずっと華やかだもの。シャリドラ侯なら魔術に長けていらっしゃると評判だし、領地も安泰だそうだから。暮らしに苦労することもないでしょうし、髪飾りだってこんなものよりもっとずっと大きなものがたくさん買える」


 もしもそれが本当ならば、シャリドラ侯は、こんな古びた真珠を飾り付けた女も見飽きているでしょうね。反発したくなったけれど、口には出さなかった。

 私の意地悪を見透かしたように、青い瞳が再び鏡の向こうの私を捉える。


「あなたにチャンスはないのよ、ミナ。あなたがシャリドラ侯にお目見えする機会なんてないのだから」

「……言われなくても知っているわ、ティリス。私はいつも通り大人しくしているから」


 ええ、そうよ。

 お会いできる訳がない。

 たとえあの方の目にもう一度、私の姿が映る瞬間があったとしても――こんなみすぼらしい女に目を留めてくださるなんて、そんなことは決してあり得ないのだもの。


 そんなことは分かっているはず、だったのに――。


 周囲の気配に敏感になった。

 汚れた食器を抱えて、廊下を歩きながら。

 重いほうきで庭を掃き清めながら。

 もしかして、あの角を曲がれば、あの方がいるのではないかしら、なんて。


 後片付けの途中、不意にあの柑橘の残り香を感じて、胸が締め付けられるような想いを覚えることもあった。

 朝の日課の折に、ティリスからシャリドラ侯の話題が出ると、途端に胸が高鳴った。


「今日は、シャリドラ侯と教会跡へ行ってくるわ。前の司祭が亡くなってから随分経つけれど、そろそろ新しい司祭が決まりそうだという話だし」


 今日、あの方は、教会へいらっしゃるのね。

 何のために――ああ、この街へは人探しのためにいらしたのだったかしら。

 その方は見付かった? そんなものは噂の通り表向きの理由で、本当は国王陛下の愛妾を探しに来られたとか?

 それともまさか、若い娘たちが言うように、侯爵さまご自身の奥方を探されているの?

 もしもそうだとしたら――娘たちの中に、侯爵さまのお心を射止めた者はいたのかしら?


 お会いしたとして、あの方はきっと私など覚えていない。

 覚えていたとして、ただの下女以外の何者でもない。

 だけど――だけど、ええ。

 せめて声を、姿を、ただお会いできるだけなら、それだけでも。


 屋根裏部屋の壁にかかった上着に、触れる時間が増えた。

 朝、目覚めてすぐ。濃紺が目に入ると、それだけではっと目が覚める。

 夜、戻ってきてすぐ。いまだ微かに部屋に漂う柑橘の香りに、うっとりする。


 触れられるよすががあるだけで、細かに色々考えてしまう。

 上着の形。胸板はきっと逞しい。腕も、私よりもずっと太いわ。

 ああ、柑橘の香りが漂って。


 あの方が、もしも。

 ああ、もしも、もしも。


 ティリスの意地悪も、周囲の陰口も、暗い屋根裏部屋も。

 もう、何も怖くなかった。



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



「……あなた、香水なんて付けてないわよね?」


 くん、と鼻を動かしたティリスの言葉に、私は手を止める。

 今朝もいつもと同じようにしているはず。

 いつもと違う香りなんて――怯えを胸に隠し、普段通りの顔をする。


「付けていないわ。そんなもの、そもそも持っていないし」

「そうよね」


 答えと共に、青い瞳が氷の矢のように私を射抜く。

 分かっているなら、問わないで欲しい。

 止まってしまった手を動かして、滑らかな髪に櫛を通そうとしたけれど――ティリスはそれで許してはくれなかった。


「私、何だかおかしいのよ」

「おかしい?」

「最近いつもあなたから、シャリドラ侯と同じ香りがするような気がしているの」


 咄嗟に鏡から目を逸らして、それから自分の行動の不自然さに気付いた。

 慌てたせいで、手の中のピンが床へ転がる。


「ごめんなさい、落としてしまったわ……」


 拾おうとかがみ込んだ私の指を、尖った靴の先がじりりと踏みにじった。

 視線を上げた途端、私を見下ろす冷たい瞳と目が合う。


「ティリス、痛いわ……!」

「ここのところいつもご機嫌ね、ミナ。何か変わったことでもあったの?」

「ご機嫌なんて、そんなこと……ある訳ないじゃない」


 踏み付けられた手をどけようとしたけれど、ティリスは靴を上げてくれない。

 声に非難が混じるのが、自分でもわかった。


「ちょっと、ティリス。足を上げてちょうだい。私だって痛みを感じはするのよ」

「――ねえ、ミナ。あなたまさか、シャリドラ侯にお願いすれば、ここから出て幸せになれるなんて勘違いしていないでしょうね」


 怒りを圧し潰すような、冷たい声。

 その凍り付くような声音に押されてそっと頭を下げ、ティリスの顔を見ないまま小さな声で呟いた。


「……まさか。そもそも私には、シャリドラ侯とお近づきになる機会さえないでしょう」

「機会があれば、そうするの? あなたも他の娘たちに混じって、争奪戦に加わるつもり?」

「ティリス! もういい加減にしてちょうだい。私にはそんなことは出来ないし、したいとも思わないわ!」


 そうよ、そんなことが出来る訳がない。

 私に出来るのは、ただ一度交わした思い出を、何度も繰り返し咀嚼することだけなのだから。


 ティリスは何も答えなかったが、しばしの後、そっと足先を上げた。

 ようやく自由になった手を、靴の先にあったピンへと伸ばす。ピンは私の指を掠めてひとりでに持ち上がり、目の前でぐにゃりと曲がって、その用をなさなくなった。


「……床に落ちたピンなんて、私の髪に挿すのはやめてちょうだい。汚らしい」


 そんなつもりはなかったけれど、そう答えたところで、信じてくれはしないだろう。

 私は変形したピンから視線を逸らし、ティリスの髪に再び手を伸ばす。

 持ち上げた毛先が、指先に絡んで滑り落ちた。



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



「――あんた、こんなものどっから盗んできたの」


 下女長の金切り声が耳に痛い。

 だけど、それよりももっと胸が痛い。

 私は大声で叫び返す。


「返して! 汚い手で触らないで、それは私が頂いたものよ」


 とびかかったけれど、簡単にあしらわれ横に突き飛ばされた。子どもが大人を相手にするような力の差を感じる。

 下女は時に力のいる仕事だから、そういう魔術があるのだろうか。


「魔術の一つも使えない厄介者だとは知ってたけど、まさか手癖まで悪いなんてね」

「やめて、それは本当に私のものなの!」

「こんな立派な上着が、それも男物の上着が、あんたのものな訳があるかい」


 勝手に屋根裏部屋を暴かれたことよりも、上着を持って行かれることに怒りを感じた。

 上着を抱えて部屋を出ていく下女長の腰に必死でしがみつく。


「返して! 返してちょうだい!」

「返すなら本物の持ち主にだ、あんたにじゃないよ。この汚らわしい泥棒猫!」


 私を引きずったまま、下女長は階段を降りどんどん館を進んでいく。

 途中で出くわした下男下女は、私たちの様子に気付いて驚く。そのうちの一人が私を掴んで下女長から引きはがそうとしたけれど、私はけして上着から手を離そうとはしなかった。


「この……おどき! 邪魔だよ!」

「返して、私のものなんだから!」

「――何の騒ぎだ」


 騒がしい廊下に、低い声が凛と響いた。

 はっとした顔で下女長が手を止める。その隙に取り返した上着を胸に抱いて、私は顔を上げた。

 廊下の奥に立っているのは、領主さまだった。


「申し訳ありません、領主さま。これはその……この娘がどこかで盗みを働いたようで」

「盗み?」


 下女長の言葉を聞いて、領主さまの視線が私に向けられる。

 私の手にあるぐしゃぐしゃの上着に気付くと、微かに眉をひそめた。


「お前、それは……」

「盗んだものではありません! いただいたのです……この、上着の方から」

「あんたなんかに誰がそんな立派な上着をくれるもんかね!」


 下女長が私の言葉を遮る。

 領主さまはじっとあの方の上着を見詰めてから、小さく首を振った。


「その上着には見覚えがある……」

「ええ、そうです。これはあの――」

「返しなさい、ミナ。お前には……分不相応のものだ」

「そんな、領主さま!」

「返しなさい」


 ぴしゃりと言い放った声に、逆らうことは出来なかった。

 ぎゅっと握っていた胸元から、上着をゆっくりと差し出す。私の手が離れる前に、横から下女長が手を伸ばして、濃紺の上着をかっさらっていった。


「何を――」

「ミナ。お前のものではないのだ」


 領主さまは私の釈明など一つも聞きもせず、くるりと背を向けた。


「とにかく、騒ぐのはやめなさい。お客さまはまだ館にご滞在だ。それは私が返しておく」


 嬉々として近寄った下女長の手から上着を受け取ると、領主さまの姿は廊下の奥へ消えていった。濃紺の色だけが鮮やかに目の奥に残る。

 追いかけたくて仕方がない。両手に爪を食い込ませ、必死で足をその場に縫い付けた。

 まだ仄かに残っていた柑橘の香りが、ふわりと私の傍を舞って、散っていく。


 それを追って顔を上げた途端、廊下の途中の扉が少しだけ開いていることに気付く。

 隙間から青い目を覗かせているのは――ああ、ティリスだ。何の感情も思わせない静かな瞳で、私を見ている。

 下女長がそちらにちらりと目を向けてから、改めて私を振り返った。


「全く。領主さまの言う通り、あんたには分不相応なことだよ。どんな罰にするかは後で領主さまと相談して決める。とにかく今は大人しく部屋に戻りな」

「待って……どうして、私が上着を持ってると知ったの」

「どうしてって……上着があるかどうかなんて知りゃしなかったさ。ただ、あんたの様子がおかしいと、お嬢様がおっしゃったからだよ。まさか盗みまで働いてるとは思わなかったけどね」


 きい、と軋んだ音がした。

 ティリスが扉を閉める音が。

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