1 役割のない娘
透明な檻は、向こうを透かしてきらきら輝いている。
光には、けして手が届かないのに。
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ぐちゃ、と湿った音が頭の上で鳴った。
一瞬遅れてだらりとねばるものが垂れ落ちてくる。
さっき買ったばかりの――手の中にあったはずの卵の中身だ。髪の奥にまで、生々しい液体がずるりと流れ込む。濡れた銀髪が頬に張り付く。
慌てて両手で拭った途端に、上から笑いを含んだ声が降ってきた。
「あら、ミナだったの。ごめんあそばせ」
聞き慣れた声だけで、誰なのかわかったわ。
そして、降ってきた卵は絶対に偶然じゃないってことも。
束になった前髪のすきまから、ゆるみのない三日月形に歪められた瞳が私をのぞきこんできた。美しく透き通る、宝石のような青い瞳。
「ひどいお顔。自慢の銀髪も見れたものじゃありませんわね」
「ティリス……」
「ごめんなさいね、少し魔術を失敗してしまっただけよ。まあ、あなたでなければきっとこの程度の転移の魔術なんて、防御の魔術で防げたでしょうけど」
謝る気など少しもないことは、その表情だけでも分かった。優雅な微笑み。
私に防御の――いいえ、どんな魔術も使えないことなど、知っているに決まっているのに。
ティリスの肩越しに、向こうで彼女の取り巻き達も笑っているのが見える。
「ティリスさま、そんなに近寄ってはお服が汚れますわよ。卵がなくとも、その娘ははじめから汚れているのですもの。魔術なしの親なし、きっと身体に流れる血さえ汚れています」
「そうですわ、実の親もわからぬ身の上。養女とは名ばかり、しょせん別邸へ置いて頂いているだけ。領主さまの正統な息女であるティリスさまとは違いますのよ」
ティリスは――法律上の私の義姉は、私だけに見えるように笑いを浮かべた。
満足げなその表情は、これ以上なく完璧に美しいのに、私の憎みを掻き立てる。
ティリスはそのまま私には何も言わず、取り巻き達の方へと振り向いた。
「さあ、皆さま。恥ずかしい失敗をお目にかけましたが、気を取り直して他の魔術をご披露いたしましょう。今度こそ私も物体転移を成功させて見せますとも」
「失敗と言っても、転移の魔術が使えるなんて、さすがティリスさま」
「こんなに強力な魔力に守られるなんて、いずれティリスさまが領主となる日が楽しみですわね」
華やかに笑いながら彼女が私のそばを離れていくと、周囲の視線もさっと引き、私はまた元通り一人きりになった。
慣れているわ、こんなこと。
いつだってティリスは、人から私を遠ざけようとするから。
遠くから風に乗って、ティリスの小さな声が聞こえてくる。
「何故こんなところをふらついているの、早く館へ戻りなさい。さもなくば……次に転移を失敗したら、その心臓ごとどこかへ飛んでいってしまうかも」
無意識に手をあてていた胸元が、どきりと鳴った。
心臓を魔術で転移され穴の空いた自分の身体が、脳裏に浮かぶ。
私は身を震わせ、足早に立ち去ることにした。
卵で汚れた前髪越しに、すれ違う街の人々が見える。
あるいは冷たく目を背け、あるいは嘲笑を噛み殺して。
ティリスが私を嫌っていることは、この街の人ならだれでも知っている。
街の権力を一手に握る領主。その実の娘。
その養女とは言え、どこの馬の骨とも分からぬ、嫌われ者の私。
どちらに着くかは、あまりにも簡単な判断だったらしい。
大通りを歩く私を指さす者はいるけれど、助けようと声をかけてくれる人はいなかった。
どろどろに汚れた自分の姿が恥ずかしくて泣きそうになるけれど、ぎゅっと鼻の奥に力を入れて耐える。
ティリスの取り巻きたちの言っていた通りだ。
私には親もなく、魔術も使えない。
今の親は領主さまだが、本当の親はどこの誰なのかも分からない。
ある日教会に置かれていたのだと、私を拾った司祭さまは言っていたそうだ。
私を拾ってすぐ、司祭さまは亡くなった。二度目の親を亡くした私は、再び天涯孤独となった。
親がいない子どもは、本来なら街から追放されるものだ。
それを、領主さまが自らの養女としてくださったので、私の命は助かった。
住むところがあるというだけで、感謝しなくてはならない。
この寒空の下、何の役割もなく、放り出されていないというだけでも。
この国の人々は皆、役割を持っている。
物心つく頃には魔術を使い始め、その魔術で己の役割を果たす。
代々の国王陛下は、国を守る魔術を使うと言う。彼が玉座に座っているだけで、天候は程よく巡り、麦や果物が立派に成長し、羊や豚たちがまるまると太る。
その血を引く王子王女もまた同じ力を持ち、長じて国王となれば、彼らの力が国を守ることとなる。
大臣さまの魔術は書を守り、学び舎を守る。将軍閣下の魔術は、攻め入る隣国の人々を押し返すもの。それぞれのお子さま方もいずれは同じ地位につかれるのだろう。
領主さまのお力は、この街を守ること。
街を囲う城壁が崩れぬように維持し、狼や野犬から街を保護するもの。
そして、周囲の作物が良く育ち、家畜が肥えるようにすること。
実の娘であるティリスもまた同じ力を持っている。魔力の強さを人から褒めそやされることの多い彼女なら、きっと領主として立つ時は、優れた力で領民を守るのだろう。
それなのに――誰もが使えて当然の魔術が、私には少しも使えない。
医師からは、私に役割がないからだ、と説明された。魔力がない訳ではないらしい。ただ、魔術を使うには己の役割を確信する必要があるのだ、と。
猟師の子は猟師、農奴の子は農奴の力。
だけど、私は――私に受け継がれた力が何なのか、既に知る者は誰もいない。
ティリスのように転移の魔術などもってのほか。
小石を浮かすことすら出来ない。幼子でも自然にやっていることだと言うのに。
それはつまり、私が幼子以下の存在、ということだ。
「ミナ、帰ったのかい――まあ、何だいその頭は! 領主さまからいただいた服まで汚して……汚らしい」
館に戻ると、下女長が荒々しい足音を立てて迫ってきた。
おつかいを頼まれていた卵の行く末を思って、私はすぐに頭を下げる。
「あの、ごめんなさい。ティリスが魔術を失敗して、折角買った卵が……」
「自分の不出来を、言うに事欠いてティリス嬢さまのせいにする気かい。今日は王都からお客様が来るんで忙しいってのに、役に立たないったらありゃしない――ちょっと、こっちに寄らないどくれ! ああ、ああ! 館にも入らないで! 床が汚れちまうじゃないか」
「ごめんなさい……」
扉をくぐり再び外に出たとたん、背後からボロ布を投げつけられた。
「井戸で頭を洗ってきな!」
「……わかりました。急いで洗います。すぐに戻ってお手伝いを――」
「ふん、いつまでだって洗ってるがいいさ。その代わり、あんたの晩飯は抜きだからね。今は卵もひどく高いって言うのに、買い直しに行かなきゃならないんだからね。ああ、これだから下女の血をひかない子どもには、何も任せられやしない」
ごめんなさい、と、もう一度呟いた時には、大きな音を立てて扉はしまっていた。
生卵の汚れはしつこい。井戸で身体と服を洗い終えたときには、既に日が暮れていた。
下女の、あるいは下男の子ならば、もっと何もかも簡単に出来るのだろうか。
魔術で何もかも綺麗にするとか。私には、その血がないから分からないけれど。
水滴が落ちないようにしっかり絞ってから、ひやりとするスカートに鳥肌をたてつつ、私に割り当てられた屋根裏部屋へ戻る。途中ですれ違う使用人達は皆せわしなく、生乾きの私に目をとめる者はいなかった。
どうやらお客様というのは領主さまにとって、かなり重要な方のようだ。
いえ、それがなくても私に優しくしようなどという者はいないのだけど。
王都からのお客様というのは、どんな方なのだろう。
領主さまと取引をする商人か、それとも王さまに仕える騎士さま、教会の司教さま?
王都はこの街の何倍も大きく、人も何千人といると聞く。そこは天国のような華やかさで、美しい白亜のお城が建っているのだとか。
そんなところから来る方はきっと、とても立派な方に違いない。
まさか私が直接お会いできる訳はないけれど、せめて屋根裏部屋の窓からちらりとだけでも覗き見できれば良いけれど……。
はしたない妄想を浮かべた自分に、自分で恥ずかしくなった。
それに、見付かったらきっと怒られてしまう。
頬を赤らめ部屋へ戻る途中、突然、後ろから私を呼ぶ声がした。
「ちょっと、君。ちょっと待って」
振り向くと、立派な身なりの青年が困惑した様子で私を見ていた。
見知らぬ顔の方、身に着けているものもこの辺りのものとは少し違う。
襟の装飾や上着の裾の長さ、上下を染めた紺の涼やかな青さ、そう言った細かなことに都会の洗練された華やかさを感じる。
まだ若く見知らぬ方だけれど、整った顔立ちやしっかりと櫛を通した髪の艶やかさに、ほのかな好感を抱いてしまう。
ああ、でも私なんかはきっと、視界に入ることすらおこがましい。
考えるまでもなかった。話に聞いていた王都からのお客さま、あるいはその同伴の方だろう。
目が合った途端、彼は軽く目を見開いて私を凝視する。私は慌てて頭を下げた。
「あの、申し訳ありません。私が何かしましたでしょうか?」
「あ、いや。そういうことじゃなくて――館の中で迷ってしまってね。どこかで間違って曲がってしまったようで、道を教えて貰いたいんだけど……君、どうしてそんなに濡れているの?」
私のシャツをまじまじと見てから、すぐに弾かれたように目を逸らした。
「すまない、凝視するつもりじゃなかった。若い娘さんに失礼だね」
そう口にする頬がほんのりと赤い。
私もまた、張り付いたシャツが透けているのに気付いて、両手で身体の前を隠した。
「ご、ごめんなさい! こんな格好で人前へ……」
「いや、悪いのは私だ。こんなところで君を呼び止めて……本当は魔術で乾かしてやれれば良いのだろうけど、あいにく私の力はそういうものには不慣れでね、すまない」
「お客さまにそんなことをしていただく訳には――」
「――そうだ。とにかくこれでも羽織っていれば、少しは温かいだろう」
私の言葉も聞かず、彼は仕立ての良い濃紺の上着をするりと脱いだ。
穏やかな目元をわずかに緩め、丁寧に縫製された上着を私の背にかける。
香水だろうか。ふわりと爽やかな柑橘の香りが漂った。
「待ってください、こんな……汚れます!」
「良いから。お詫びの印だ」
「お客さまが詫びることなんて……何も――」
恐縮する私に、彼ははにかんだように微笑んで見せる。
「じゃあ、お礼の印だ。代わりに帰り道を教えて欲しい。広間はどちらだろう?」
「そんなことならすぐに……その、廊下を戻り左へ曲がって、2つ目の角を右へ。そうすればポーチへ出ますから」
「ああ、ありがとう。ポーチからならホールの場所が分かるよ、左で、右ね。上着は返さなくていい、気にしないで。助かったよ」
にこやかに礼を述べた後、ベストとシャツだけの身軽な背中は颯爽とその場を去っていった。
後に残ったのは、彼の纏っていた柑橘の香りと、滑らかな手触りの上着だけだった。




