第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その六百一
―――少年兵は、いやもう兵士という価値はなくなっただろうか。
自覚だってすでに無い、二度と戦いの場に彼は行けないだろう。
ここはあまりにも地獄のありさまで、彼はあまりにも罪深いと信じ込んだ。
誰もが殺されていくのに、自分は無条件で助けてもらった気がしてしまう……。
―――吐き気に苦しみながらも、彼は見たんだ。
殺されていく者と、捕縛されていく者たちを。
全員を助けてはくれなかったが、それなりの数が救われるのか。
それを数えたところで、この少年の苦しみは軽くはならなかったけれど……。
―――戦うことで、心は赦しを得られるものだ。
地獄の苦しみも、救いのない敗北という結末だってね。
その戦場で最後まで戦えた者たちは、誇りにしていられるものだ。
だが、逃亡兵だけはその名誉に手が届くことはないよ……。
―――彼はフェアではないと信じた、自分の年齢だけが助かった理由だなんて?
サメに食い殺されながら溺れ死んでいく者たちと、何がどれだけ違っているのか。
どんなに考えても、分からなかったんだよ。
理不尽な現象ではある、好きでその年齢でいたわけでもないのに……。
―――だが、無残な死を迎えた者たちにそんな言葉は酷だろう。
彼らだって生きたかったはずなのに、命を落としてしまったんだ。
生きていることに感謝すべきだと、少年だってアタマでは理解しているけれど。
それを心が実践できるのかは、また別のハナシだったのは確かだよ……。
―――死んだ方がマシかもしれないと思い込めるほど、彼の心は苦しかった。
それは善きヒトの特徴でもある、罪悪感を抱え込める者だけが善良に近づけるから。
誰しもが完璧なまっ白の心ではなくて、汚れて歪みながらオトナになっていく。
歪んでしまった心に、少年的な潔癖以外の価値観で評価をやれるのがオトナだよ……。
―――ずるいと言われるかもしれないが、実際その通り。
オトナになれば、多少の間違いだって自分なりの解釈で受け入れられる。
でも、潔癖な少年時代においては難しいんだ。
ついさっきまで泣くほど死ぬのが怖かったのに、今は生きているのが怖いときた……。
―――彼が時間を遡れたら、降参することなど選ばないだろうね。
戦って死のうとして、おそらく死んだはずだった。
でも、時間は戻らない。
レイチェルだって時間を戻せたら、どんなに楽な人生だったろうか……。
―――もちろん、どんなに時間を戻したとしても運命が変わるとも限らない。
彼女の夫は世界でいちばん勇敢と言える男かもしれない、死の運命を知ったあとでも。
あのサーカス団を作らなかったとは、思い難いからね。
彼は何度だって運命にしたがい、あのサーカス団を作ったと思うよ……。
―――変えられないほどに、巨大で絶対的な運命もあるんだ。
それらの多くが、個人の意志というものに支えられていることに。
ボクたちはときどき大きな感動を得られるもので、それでいて切なさも感じる。
無限の苦しみでも、変えられやしない運命があるんだ……。
―――しかも、それがあまりにも残酷なバッドエンドだったら。
どれだけの苦しみなのか想像して、どれだけの理不尽なのかに参ってしまう。
それでも、レイチェルの夫は彼女に言ったんだ。
「いっしょに、サーカスをやろう!」……。
「ええ。そうですね、きっと、それは、楽しそうですから」
―――絶望という意味を知ったばかりの少年は、目の前に人魚を見たよ。
海へと飛び込む彼女は、銀色の髪を長く躍らせながら。
人間族ではない姿をしていたけれど、あまりにも美しかったんだ。
何よりレイチェル・ミルラは笑顔だ、夫からの告白の言葉といっしょのときはね……。
―――星空高くへと舞うように飛んで、踊るように身を捻る。
多くのものが、このあまりにも美しい動きに魅了されたんだ。
動きには魔法があって、無言のままに心を魅了してくれるものだ。
すぐれたサーカス・アーティストの動きなら、とくに……。
―――ああ、でもこのときに限っては技巧も経験値も知識もなかったよ。
レイチェルがかつて、夫に初めて会った夜と同じように。
このときはただひとりのために、心が訴えるまま飛んでしまっただけ。
今も同じだったよ、変わっちゃいないところも大人はあるからずるいよね……。
―――海へと入った、血まみれでサメだらけの海の奥へと。
その地獄のなかで、人魚はサメたちをにらみつけはしなかった。
ただ、笑顔のままそばを泳いでいくだけ。
それだけでサメたちは自重という気の利いた態度を選び、肉を噛むのをやめたんだ……。
―――人魚に逆らえば、サメたちはいつだってコテンパンにされたんだろう。
あるいは、もっと酷い結末を味わって来たのかもしれない。
気高いレイチェルに、ケンカを売るなんてマネはしない方がいいからね。
どんな大きいサメさえも、レイチェルのために今は大人しくなった……。
―――海の底から呼び出されみたいに、サメたちは沖に向けて戻っていく。
食い荒らされた帝国兵どもは、それでももちろん助かりはしないよ。
それでも、あの男はまだ生きていたんだ。
息を止めたまま、ただひたすら耐えていた……。
―――死の運命が訪れるそのときまで、ただただ耐えるつもりだっただけの男だ。
助かる気なんてなかったのに、それでも人魚の気まぐれじみた救済の手は。
男を掴み上げると、そのまま海上に向けてぶん投げていた。
ゾロ島のキケは、気の利いた男だったよ……。
―――海から飛び出してきた男を、その猟師らしく赤い潮焼けした腕でキャッチした。
男はゴホゴホと海水を吐き出し、せき込んだ。
おそらく鼻の奥には塩がもたらす激烈な痛みがあって、状況なんて理解不能だろう。
それでも、彼は思ったんだ……。
「助かったのか……助かった……だ、だとすれば…………家族に、会いたい」
「会えるだろう。ナイフでえぐったぐらいの傷じゃ、ヒトはなかなか死なねえよ」




