第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百九十九
―――レイチェルは約束を守るだろう、かつて帝国兵どもは守らなかったけれど。
その事実は帝国軍への幻想を抱きながら死にたかった男を、大きく悲しませた。
それでも、覚悟の情熱は彼に行動を続けさせてくれる。
腕を切り、両の太ももをナイフで突き刺していった……。
―――もはや逃げることはない、どこかヤケクソだった。
ぶつける場所を見つけられない敗北感を、そのナイフに込めているかのようだ。
十分に傷ついてしまった太ももから、ボタボタと血がこぼれていく。
傷口が泣いているようであり、それは彼自身にもそう見えた……。
「ちくしょうめ……何で、こんな気持ちにさせるのだ!!意地悪な、人魚め!!人魚の夫め!!そ、そんなに……オレたち、帝国軍が、うらめしいか…………それは、当然、だな。ちくしょう……ちくしょう……っ。もう少し、気持ち良く、死ねると思ったが。それでも、人魚!!今から、死ぬぞ!!海に落ちて、おぼれ死ぬ!!サメの、エサになるかもしれないな!!約束は、ちゃんと、守れよ!!」
「もちろん。その少年兵だけは、助けてあげましょう。他は、殺してしまいますがね。私は、許せないようだわ。まだ、まだ。天幕の下には、戻れない。だって、帝国軍は、山ほど残っているのだから」
「あ、ああ……っ」
―――少年兵の見ている前で、血まみれになった男は海へと落ちる。
それほど大きな音が上がることはなくて、大きな海の前にすれば命がどれだけ小さいか。
その事実が少年兵の耳を通じて、よく分かっていたらしい。
少年兵はおびえながらも船から身を乗り出して、自分のために死を選んだ者を見た……。
―――見ようとしたが、夜の海というものはあまりにも暗いものだから。
星明りだけでは、足りるものじゃない。
暗く濁った青と緑に閉ざされて、呑みこまれていった男は見つからないのだ。
何とも暗く濁っているから、少年兵は気づいていた……。
「ち、血の海に、なっているんだ……っ」
―――ずいぶんとドボドボと飛び込んだものだから、その行いはサメを呼び寄せた。
昼間に争いがあったせいだろう、このときサメたちは十分に飢えていたんだ。
昼間は静かに身を隠しているしかできず、そのせいで飢えていたらしい。
サメの牙は溺れ死んだ者だとか、溺れ死にかけている者たちを喰らっていく……。
―――そのおかげで、彼らの体からは大量の血があふれていたんだ。
海は青く濁っているわけでもなければ、緑色ににじんでいるわけでもない。
本当は、真っ赤な血の海が出来上がっていたのさ。
血肉に喜ぶ大きなサメが、その巨体を見せつけるように波間に踊る……。
―――何かを咥えていたように見えたらしい、でも実際のところはどうだろう。
不確かな目撃に過ぎないよ、この少年兵にそんな能力はないのだから。
冷静に戦場を見つめられているわけじゃない、すっかりと恐怖の囚われでもある。
恐ろし過ぎて、幻を見てしまったのかもしれないだけ……。
―――サメが自分たちばかりをエサにすると、おびえた心が妄想していたんだ。
まあ、今宵のサメは飢えているのは確かだった。
少年兵は、その場にへたり込んだ。
お尻の下にある板は薄く、その薄さの向こう側にはサメの群れがいる……。
―――海中のなかで、男はサメの気配に気づけなかった。
痛みと悔しさで、暴れる気にもなれない。
呼吸はできなくて、まるで生きたまま埋められた気持ちになれる。
肺一杯に海水を吸い込めば、すぐに死ねるかもしれないと考えたが……。
―――まったく、やる気にもなれなかったんだよ。
何かに耐えたかったのかもしれない、挑戦すべき対象があれば。
人はがんばれたりするものだろう、彼はそんな心境に至ったんだ。
死ぬまで生き抜こうと、がんばろうとした……。
―――無意味な覚悟だと、もちろん知りながらね。
悔しかったんだ、自分を失望させてしまった帝国軍のことが。
失望してしまった自分にさえ、悔しさが募ってしまう。
どうして、もっと気高く死ねなかったのか……。
「帝国兵どもを、八つ裂きにしろ!!」
「飛び込まねえヤツは、オレたちが直々に殺してやるぞ!!」
「そのガキ、寄越せ!!レイチェルさんの約束したとおり、そいつだけは嫌々だが助けてやるぞ!!」
「武装を引っぺがして、泳がせろ!!」
「バカを言え!!さ、サメがうじゃうじゃいるんだぞ!!」
「ボートだ、その子を、ボートでそっちに渡すから!!」
「死なせるんじゃいぞ、死なせるな!!」
「こいつを渡している間だけは、殺すのを待ってくれ!!」
―――少年兵は、周りの兵士に立ち上がらされた。
うらやましいと思われている、そんな考えを少年は抱く。
それに間違いはなくて、正しくもあったんだ。
日焼けしたベテラン兵士は、少年をちいさなボートに投げ込むように乗せた……。
「す、すみません。すみませんっ」
「謝るんじゃねえよ。オレが、みみっちいヤツみたいに思えてくるだろうが」
「は、はい……」
「…………これを、持っていけ。奪われるかもしれないが、銀貨だ。死ぬ身には、まったくもっていらんものだから」
「そ、そんな。受け取れません」
「いいから!持っていけ。路銀ぐらいにはなる。亜人種どもに、奪われるなよ。家に帰るための、路銀にでもすればいい。二度と、戦争なんて、しにくるな。オレは、もう懲りているのに、死ぬんだから」
「……う、うう」
「みっともなく、泣いてろよ。それでいい。ボートをこげ。あいつらの船の方に、行くんだ。きっと、殺されはしない」
―――少年は、自分がそのちいさなボートで軍船から離れると。
何が起きるか理解していたよ、虐殺が始まるんだ。
帝国兵どもの心に、反抗心なんてもはやなかった。
レイチェルの物語を聞けば、生かしてもらえないのは分かる……。
―――理不尽なまでの憎悪と怒りを浴びて、帝国兵どもは殺されるんだ。
弓から矢が放たれて、軍船に降り注いでいく。
悲鳴が上がり、矢に貫かれた体が酔っ払いみたいな足さばきで回転したあとで。
大した音を立てることなく、サメのいる海面下の地獄へと落ちていった……。
―――狂乱したサメが、まだ生きている帝国兵に群がる様子を少年は見た。
大サメは悲鳴を上げる帝国兵を、生きたまま引きちぎりながら。
海面に叩きつけるように、太い首を振り回している。
血肉が飛んで、悲鳴にあふれた……。
「耳をふさいでいなさいな。聞かなくてもいい。聞きたくなくても届くでしょう。私は知っているわ。だから、見逃してあげるの。耳を防ぎ、仲間の死の苦しみから、目を背けたっていいわ。そうじゃないと、普通の覚悟しかできない者は生きられないから」




