第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百九十八
―――心地良い生き様だ、無限の困難に自らの意志で立ち向かうような魂の持ち主は。
この結末は、彼にとっては地獄のように苦しいものだったかもしれない。
それでも今の彼は誰よりも自由だったと思うよ、誇り高く最後の任務を始めるのだから。
帝国軍のあたえた鋼ではなくて、彼の父親からの贈り物を使うことで……。
「人魚よ、見るがいい!!お前の家族を、仲間を、虐殺した軍勢の一員が、その身を切り裂いていくぞ!!お前の怒りが、これで癒えることなど、ないだろうが!!それでも、私に部下をひとりだけでもいいから、助けさせろ!!」
―――ためらいなんて、なかったよ。
ナイフを左の腕に突き立てて、自分から切り裂きにかかるんだ。
もちろんとてつもない痛みだ、泣き叫ぶのが当たり前だろう。
本能が拒むよ、狂気に苛まれていない者の自傷行為なんてものは……。
―――いやいや、たとえ心が大きな病みに蝕まれていたとしても。
自分の肉をナイフで切り裂くなんて行為は、やれはしないものだ。
せいぜい動脈あたりを掻き切るのが精一杯、彼は病んでいないからやれるんだ。
焼けつくような痛みで、自らを裂いていく……。
―――血がドバドバとあふれて、傷口からは肉どころか骨が見えてしまうだろうよ。
星明りに反射する白いものは、彼の前腕を構成するふたつの骨のうちのひとつ。
橈骨というものでね、その一部が裂かれた傷口から見えてしまっていた。
正気を失いかねない激痛のなか、彼は歯をかみしめながらもやり遂げていく……。
「うぐう、痛いが……っ。やるさ、やってのける!!だから、だから!!ひとりだけでもいいから、助けてくれ!!し、信じているんだ、そっちの言葉を……私は、あ、亜人種なんて大嫌いなのに!!ちょ、挑発したいわけじゃない、た、ただの真実を告げよう!!私は、諸君ら亜人種が、大嫌いだ!!これを、人種差別だと思えたのは、つい先ほどからに過ぎない!!ずっと、ずっと昔から、諸君らを、嫌っていたのだ!!」
―――だから、捕虜でも平気で殺した。
まあ、まったくの心の傷になっていないわけではないけれど。
それでも大した傷ではない、嫌いな生き物を殺すなんてヒトはよくやるだろう。
腐敗を招くハエだとか虫けらを、慈悲なんて抱くまでもなく殺すんだから……。
「それは、その差別は!!た、確かに諸君からすれば、何とも残酷で、無慈悲なものだろう!!だが、それはもうひとつの側面もあるのだ!!帝国軍は、帝国は、人間族のためだけの軍隊である!!人間族第一主義のための、軍隊だ!!我々は、理解している!!亜人種という『私たち以外』が滅びれば、我々は、もっと豊かに暮らせるのだと!!そのために、我々は、君らを殺して、君らから奪い取る!!残酷だろうが、より、人間族は幸せになった!!私の父親も、かつてよりは豊かになって、暮らしている!!彼は祖父になった、私ではなく、妹が子供を産んだのだ!!私が、せ、戦死すれば、彼らにわずかばかり銀貨が届く!!」
―――人間族からすれば、他種族から奪い取れば幸せになれるんだ。
間違いではない、歴史がそれをとっくの昔に証明済みではある。
我々が目指すのは、歴史というヒトの本能が出した答えへの反乱だからね。
世界は暴力と強奪を根拠にした時代を過ごすものだ、およそすべての時代がそうだ……。
「我々は、正しい戦いをしている!!人間族のための、人間族による、人間族だけの豊かな世界を勝ち取るために!!それは……それで、正しい!!正しい……正しいが!!」
―――見ている、見てしまっている。
彼に対してまっすぐな視線を向けているレイチェル・ミルラを、見つけている。
悲しそうな双眸は、何も口にするまでもなく問いかけた。
瞳はいつも鏡のような力があって、人魚の悲しみはヒトの心に届くものだ……。
―――すべての生き物が、誰かの子供だったからね。
彼がこの地獄みたいな状況で頼ったのも、父親との絆だった。
甥っ子に対して、戦場でいつ死ぬか分からない自分の大切な代役とも思っている。
家族を守ってくれる、自分の代わりに育ってほしいなどと……。
―――レイチェルの人生のどこに、あるいは誰に対して。
感情移入をしてしまうのかは、人それぞれだった。
彼の場合は、レイチェルの夫に対してだ。
自己犠牲的なまでにやさしいトコロは、類似点があるからだろうか……。
―――レイチェルは知っていても、想像が及んでいたとしても口にしないだろう。
あまりにも痛ましい可能性を、妻である彼女はいくら何でも考えたくない。
彼の夫にはたくさんの槍が突き立てられていた、それはもしかして。
部下のためにナイフで自らを切り刻む彼と、同じような行いだったのではないか……。
「ボクを、殺せよ。みんなの代わりに、ボクがその槍を受け止める。剣刺しマジックのようなものだ。今回に限り、本当に種も仕掛けもないけれどね。みんなの代わりに、ボクに刺してごらんよ。耐えてみせる。だから、その代わり。見逃してくれ、みんなを。ボクの大切な家族であり、最高のサーカス・アーティストたちなんだ」
―――他人であるボクが思いつけるほどには、あり得たことだと思うんだよね。
それでも、あまりにも痛々しくて悲しいからレイチェルだって言えなかった。
彼はきっと耐えただろう、突き立てられていく槍をいくつもいくつも。
どれだけの痛みだったか、即死の慈悲は彼に与えられていなかったから……。
―――ヒトあつかいされない虫けらにするように、ただ弄ばれただけ。
無数の槍に貫かれて、地面なんかに杭打ちにされていくんだよ。
どれほど痛みであり、どれほどの恐怖であったろうか。
それでも、きっと彼は笑顔だったと思うんだ……。
―――話を伝え聞くだけでも分かるほどの、お人よしだから。
自分の苦痛がきっと、仲間を助けることにつながると信じていただろう。
その命がけの願いが、まさか踏みにじられるなんて思わなかったかもしれない。
誰一人として帝国兵どもは、助けてあげることはなかったんだからね……。
―――レイチェルの物語を聞いて、今まさに彼と同じような絶体絶命の責任者となった。
そんな状態だったなら、この男は人魚の物語に出なかった真実だって見えたかも。
誰もが誰かに感情移入しながら生きているよ、悲しい人魚の瞳の鏡の向こう側に。
彼はやさしいサーカスのリングマスターの、踏みにじられた戦いを知れたかも……。
「私は、約束を守るわ。帝国軍の兵士とは違ってね。私は、約束を守る。死んで見せなさい。あの人のように。でも、与えてあげる結末は、あまりにも違うものよ。私は、たったひとりだけ助けてあげる。ああ、なんて。寛容なのでしょうね」




