第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百九十七
「……す、すみません……っ。すみません、ぼ、ボクのために……っ」
「いいんだ。謝ることはない」
「ですが……でも、その……っ」
「謝罪はいらないよ。この作戦を失敗に導いてしまったのは、私のせいだ。いい、兵士でも、なかったと思う。勝利に貢献できる男であれば、きっと、ここにはいなかったし、君だけではなく、君たち全員を助けられただろう。謝るべきは、私の方なのだ」
―――死を覚悟すれば、見えるものが広がった。
海よりも広くて、空よりも高い。
時間さえも、この種の覚悟は超越させるものだから。
自由というものは、本当に気高い概念だとボクは考えているよ……。
「言い残すべきは、それほど多くはない。大した軍歴ではなかった。諸君らが酒の席で語るのは、もっと有能な男たちや女たちであって、間違っても私などではあるまい。それでも、諸君らを指揮する立場にいれたという事実は、私の人生が勝ち得た、最も大きな評価だろう。同期のなかには、私よりも大きな部隊を率いた者たちがいる。だが、彼らにも、今の私は劣等感を覚えはしない。ありがとう。諸君らと戦えて、光栄だった」
―――船のへりに立つ前に、男はさらに武装を解除していく。
装備品の多くは、帝国軍から借りたものだったけれど。
自分で持ち込んだものも、ひとつだけあった。
彼の父親からもらったナイフだ、戦争に行く男にはあまりにもちいさな鋼だが……。
―――戦いと鍛練で傷だらけになった指に、その素朴な一刃は良く似合う。
戦士としてよりも、職人や農民として生きるべき男だったけれど。
運命として選んだのは、帝国兵としての日々だ。
それを後悔するなんて、今さら彼にはやれなかった……。
「ファリス帝国軍に、栄光あれ!!」
―――彼が本当に恥知らずで、媚びしか知らない男なら。
今このときに、帝国軍を讃えるような言葉を叫びはしなかっただろう。
彼は帝国兵として生きた時間のすべてを、決して恨んではいない。
新兵とは、あまりにも関わった時間が違うんだからね……。
―――帝国兵どもを包囲する戦士たちからは、怒声だって飛び交った。
帝国軍が大嫌いだし、帝国軍はレイチェル・ミルラの大切な人たちを虐殺したのだ。
そんな組織を、この場で褒められるのは。
本当に気高い帝国兵だけだと、レイチェルは気に入ってやれるのさ……。
―――誰もが本当に愛せるのは、運命だけだろう。
自分で選び、与えられてもいるような道のことだ。
死へと向かう破滅の道の最中でさえも、時を越えて記憶と触れ合える。
農夫になるしかないと思い込んでいた若者の前に、帝国軍の勇壮な戦列がやってきた……。
―――学問なんてほとんど教えてもらったことがないが、帝国軍は教えてくれるらしい。
農夫の父親は、最初は帝国軍に入隊することを嫌っていた。
自分たちの祖国を破壊したのは、他ならぬ帝国軍であり皇帝ユアンダートだったから。
それでも農夫としての日々に、息子が満足しない理由も痛いほどよく分かったのさ……。
―――魔法のもしもを使いこなせるのは、アーティストだけじゃない。
想像力の世界のなかで、父親は理解していたんだよ。
もしも帝国軍がやってくる日が、あと二十年でも早かったなら。
自分から帝国兵への道を選んだと、農民よりも冒険的な日々を彼は過ごしたかった……。
―――鋼の語りが聴き取れるのは、ドワーフだけの特権ではあるけれど。
鋼に遊ぶほどなれた我々のような戦士たちは、そのナイフの意味を悟る。
その鋼は農民が使うナイフとしては、あまりにも高質なものだった。
ちいさいものだが、かつてこれを作った者は夢見ていたのだと……。
―――素晴らしい鋼で、巨大な剣や槍や戦斧を作り上げて。
それを手にして冒険の日々を送るのだと、古い鋼に夢を込めたんだ。
戦闘用のナイフだったものだよ、あまりにも父親と息子に長く連れそってくれたから。
すっかりとちいさく摩耗していたけれど、最初はずっと大きかったんだ……。
―――何度も刃は研ぎ直されて、先端なんか二度は欠けてしまっているかもしれない。
盗賊や魔物との戦いを考慮しつつ、根本からは絶対に折られない作りを選んだのさ。
その設計思想はどこか夢見がちではあったが、親子二代の度を完遂させた。
守り刀として持たせたよ、父親とともに生きて三度の戦を経験したナイフはね……。
―――息子にそれを託すとき、父親はおそらく誇らしげにはしなかった。
もっといいモノを贈ってやりと、男親というものは思うだろう。
どこか情けなくも感じたはずだが、それでも古い鋼は頼りになると知っていたんだ。
打たれたばかりの若い鋼とは違う、静かな不動を帯びた岩や山を連想できる逸品を……。
「父親が、このナイフを私に贈ってくれた!!立派な剣とは言わないが、すばらしい切れ味だ!!折れることのない、屈強で、あきらめないたくましさを持っている!!親父の脚のようだ、彼は雨の日も雪深い日もお構いなしに、牛や馬といっしょに泥だらけになりながら、カボチャやカブを売って回ったんだ!!日に赤く焼けた顔、大して文字も読めやしなかったのに、同じ故郷の出である詩人の本を、よく買っていたぞ!!長年、読めなかった一説を、帝国軍で字を習った私が教えてやれたときは、見たことのない笑顔を、見せてくれた!!私の選択を、彼がその選択を受け入れたことを、あのときようやく心から認めたのだ!!」
―――人生の物語は、とても長いものだ。
儚いくせに、ありふれたものでもあるくせに。
それでもただひとつしかない、かけがえのないものだから。
その男は、儀礼につかう剣でも扱うように父親のナイフを高く掲げた……。
「私は、帝国兵である!!誇りある帝国軍の、指揮官のはしくれだ!!私が、軍から賜った武器で、自らを傷つける日は永劫に来ない!!私は、私を、このナイフで殺そう!!あの辛抱強く、牧歌的で有名でない、およそ誰も知りはしないような詩を、長年じっと愛することのできる、あの父親!!彼からいただいた、ナイフで、最後の戦いに挑むのだ!!部下を守るために、死ぬ!!恐怖のひとつもなく、誇り高く!!私は、あの父親の息子にして、帝国軍の兵士なのである!!」




