第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百八十五
―――苦難の多い道でも、信念があれば笑顔と共に歩んでいけた。
夫の理想は危うかったかもしれない、それでも痛みや苦しみにさらされる度に。
本当に正しいものだと、心の底から信じられた。
愛おしいと思えた、これが愛情だと感じられる……。
―――夫の目指す通りの世界になれば、きっと多くの子供たちが笑顔だろう。
生まれた人種なんかのせいで、苦しめられることはない。
好きなように笑えるのだ、政治的な枠組みなんて飛び越えて。
異常な世の中になりつつある、子供たちのあいだにまで差別が根ざしている……。
―――サーカス団への襲撃や、他分野のアーティストたちへの襲撃は相次いだ。
人間族第一主義に批判的な哲学者は、火あぶりにされてしまった。
犯人はただ帝国を信奉するだけの、若い男たちだ。
若者ほど、この熱狂的で排他的な意志に飲み込まれていく……。
「彼らは、経験が足りないからね。知識もそうだ。学んだことのない世の中になってしまい、あわてている。勝者である帝国が与えてくれる価値観を、鵜呑みにしているんだ」
―――哲学者たちの言葉を理解するためには、それなりの知恵が必要だった。
多くの若者にあるはずもなく、彼らは賢者の説得に耳を傾けるよりも。
賢者たちを焼き払って、より単純な価値観を求めていく。
ヒトの悲しい側面が、より明確になっていった……。
―――文明を破壊する方が、文明を高めるよりははるかに楽で。
学ぶ苦痛よりは、奪い取る労力の方がよっぽど簡単なものだった。
悪意はやはり合理的なもので、利益と権力のために人々は残酷になれる。
合理的で分かりやすい悪意に憑りつかれて、多くの亜人種が殺され始めた……。
―――ガルーナが滅ぼされ、やがて『プレイレス』まで帝国の手に堕ちた。
最も古く、最も高度な文明と知識を継承していた土地までもが。
アーティストたちからすれば象徴的な敗北であり、帝国にとってはその逆だ。
彼らは自分たちこそが、この大陸の真の継承者なのだと考えていく……。
―――『プレイレス』という文化的な覇権が屈したとき、帝国の暴走は大きくなった。
略奪と差別感情を高めるための演説がくり返されて、人々は憎悪を楽しむようになった。
帝国に属しようとする者たちは、あきらかに憎悪を楽しんでいる。
憎悪も娯楽のなかでは大切な感情であり、これに囚われた者たち特有の喜びもあった……。
「また、縛り首にされていた。ちいさな子供たちが、だよ。親を殺されて、それでも死にたくないから、パンを盗んだんだ。それなのに、たったそれだけなのに。何人もの子供たちを吊るしている。ありえないよ……本当に、どうして、子供たちを笑顔のまま殺せるんだ!?」
―――逃げ場にもなろうとした、貧しかったけれどサーカス団は引き取った。
他に居場所なんてないからだ、あの孤児たちは帝国とその思想の下僕に親を殺されている。
さみしくて泣いているから、抱きしめてあげた。
サーカスの芸は、一時的にでもなあの子たちから涙を止めさせてくれる……。
―――子供たちを殺して、笑顔になる連中が許せない。
こんなちいさくて、愛らしい存在に対してまで。
どうしてそこまでの憎悪を浴びせて、笑顔になっているのか。
奪い取った土地や畑や家に、幸せそうに住める理由が分からない……。
―――その椅子は、きっとおじいさんが家族のために作ったのに。
古びたタンスは家族の成長を見守ってきて、母親から娘にも受け継がれたものだ。
略奪者どもが我が物側で脚を乗せるテーブルは、かつて違う家族の笑顔が集まった場所。
憎しみの力は大きくて、正しさの基準だってあっさりと歪めていく……。
―――哲学者たちを殺して、小説家を殺した。
画家に描くのを求めたのは、諸神や英雄の物語ではなく。
皇帝ユアンダートと、帝国軍が勝利した戦場の英雄譚ばかり。
侵略はいつでも美化されて、泣き叫ぶ被害者たちの声は封殺された……。
―――子供たちの自殺者まで、生まれ始めてしまう。
死にたくなかったはずなのに、生きていたいはずなのに。
健康で悩みなく、すこやかに生きているべきだったのに。
枯れ果てた井戸の底に、その子は身を投げた……。
―――ナイフで自分の身を裂き続けて、何時間も苦しんであの子は死んだ。
誰にも看取られずに、この世に対しての絶望だけをにらみつけながら。
「お母さん」って呼んだはず、みんな死にそうなときはそう呼ぶものだから。
もうこの世にいない、奪われたお母さんを求めているから死ねもする……。
―――帝国軍は喜んだ、帝国の思想の下僕どもも喜んだ。
亜人種がひとりでも死ねば、あいつらは安心する。
あいつらの正義や理想の世界に近づいていくと、心から思い込んでいた。
抗おうとした亜人種たちの国や町を滅ぼす度に、彼らは祭りのようにはしゃいだ……。
―――サーカス団はそれでも、戦おうとした。
敵を殺したときに得られる喜びよりも、もっとマトモな笑顔のために。
あらゆる研究を続けながら、パフォーマンスを磨いていく。
人種を公表せずに公演することだってある、手段を問うわけにはいかない……。
―――私たちは子供たちの笑顔のために、夫のもとで抗った。
サーカスの魔法は、壊されていく世界のなかでも有効なの。
高綱渡りでも空中ブランコでも、エアリアル・バレエでも。
子供たちの心に、おどろきと喜びを与えられたから……。
―――亜人種のパフォーマンスで笑顔になったのは、子供たちだけじゃない。
帝国かぶれの親たちにだって、サーカスの魔法はちゃんと届いた。
せめて天幕の下だけでは、夫の願いの通りに人々は融け合えていた。
私たちにとっても、その事実は大きな慰みでもある……。
―――大好きなものが、人々から残酷な憎しみを無くしてくれるとすれば。
それはとても誇らしいものでしょう、その誇らしさがあればアーティストは。
どんな苦痛にも耐えて、自分の芸を磨き続けられる。
世界がこんな有り様になったとしても、まだあきらめずに踊れるの……。
―――世界はどんどん、大喰らいの獣みたいに貪欲な帝国どもに。
噛みちぎられて引き裂かれ、子供たちも親たちもおかしくなっていく。
奪い取ることは、アーティストの創作とは真逆の行い。
0から生み出す私たちに、誰かから奪い取った勝利は敵意を燃やした……。
―――私のお腹のなかに、新しい命が宿ってくれたのは。
引き裂かれた世界のど真ん中、私は喜びながらも。
どこか不安に思っていたのに、私の夫はどこまでも勇敢だった。
子供みたいに純粋な笑顔で、私の不安を見抜きながら手を取ってくれる……。
「大丈夫だよ、レイチェル。ボクと君とで、この子を幸せにしよう。このサーカスはすごい。きっと、ここから世界はちょっとずつ変わっていくんだ。だから、安心して。この子は、生まれたことを喜ぶよ!未来は、この子のためにあるんだ!」




