第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百八十一
―――空中で踊ることは、人魚にとって本能的な表現だった。
シルクと絡み合いながら、体を捧げるように委ねる。
それは海のなかにいるときと、他の何よりも似ている行いだったから。
軽くなる体と、肌から伝わってくれる力の動き……。
―――波と踊るように、人魚は遊ぶように踊るのだ。
星空といっしょにかがやくのが、人魚の乙女の使命のようなもの。
人々の心を魅了して、力強い感動で動かしていく。
人の心はそれほど難しいものじゃない、笑顔になれば大きな力を得られるものだ……。
―――人魚の踊りから、男は文脈を読み取ろうとする。
天衣無縫で、自由が過ぎるような動き。
力に頼るようなところもあれば、物理法則の全てを読解したような繊細さもある。
回天の速さも方向も、空を舞うそれぞれ別の生き物みたいに違うから……。
―――天才であればあるほどに、この文脈はおそらく読み解けないものだ。
凡才である男にとっては、かえって分かりやすくもある。
人魚は観客たちの心にしたがって、踊っているだけ。
音楽はそんな人魚たちに、引っぱられているだけ……。
―――技巧は極まって、どんどん複雑になっていくのに。
シンプルなまでの調和が、この天幕の下にはあった。
ほかのどのアーティストたちよりも、人魚本人よりも。
男がこのパフォーマンスの文脈を読み解いて、テーマを把握していた……。
「サーカス、そのものだよね。これは」
―――本当のアーティストは、創り出す者とは限らない。
場所や人々の心に反応して、世界から引きずり出すように物語を受け取る者。
巫女のように、霊感を受信する者がそれになる夜もあった。
サーカスの夜は、どこか混沌としたこの場所にはその特性ある……。
―――『本当に素晴らしいもの』は、いくつあるのか?
最適解な答えは、数学が教えてくれるようにひとつだけ。
人魚は本能的に動いているだけだが、それは最適解を感じ取っていられるからだ。
人魚と観客とサーカスが融け合うようにして、答えが人魚の心に描かれる……。
「すごいや、レイチェル。君は、この天幕の申し子なんだよ」
―――天才という大きなイベントを、一言で説明するのは難しい?
サーカスの場合は、きっとそうではないと男は知る。
観客たちが喜んでいるからだ、おどろきと笑顔と歓声と悲鳴と。
無数のいろいろな感情を、心の底から楽しめればサーカスは大成功だ……。
「すごい、すごーい!」
―――大喜びの子供を見た、男はその女の子と同じぐらいに子供じみた笑顔になる。
いっしょになって拍手をしながら、人魚の演技を見つめるのだ。
人魚もきっと、この子を見つけているだろう。
こんなにかがやく笑顔なら、空中からでもよく見えるはずだから……。
―――すぐさま、その予想は正しかったと証明される。
女の子の拍手に応えるように、人魚は踊りのリズムを変えたから。
楽器弾きたちも大慌てになるが、そこはベテランたち。
問題なく新しい音楽に仕立て上げ、空で踊る人魚のための曲へと変わった……。
「音楽まで、踊っているみたい!」
―――子供の感性は、おどろくほど素直だから。
ものごとをいちばん楽しめるのかもしれない、男はそんな発見をしている。
観客席のうす暗闇のなかに、嬉しそうな子供たちを探した。
お金持ちの子供も、みすぼらしい服装の立見席の子供たちも……。
―――喜んでくれていて、みんなが笑顔だった。
人種も問わずに、同じように笑顔になってくれている。
この天幕の下でなら許される、人と人とを隔てる壁がなくなっているような。
同じような笑顔がいていい場所になっていることに、男は誰より喜んだ……。
「きっと、同じ気持ちに、いつかなってくれると思うよ、レイチェル。君は、こういう奇跡を起こすための力を、持っているんだから。君は、きっと……ここにいる子供たちに、未来と戦うための力をあたえる。サーカスから帰ったあとでも、君のパフォーマンスの記憶は、きっとあの子たちの全員に残るから。この思い出は、きっと、現実を変えてくれる。貧しい子もいる、不幸な子も。豊かな子もいるし、いろんな人種がいるけれど。みんな、同じような笑顔で、いっしょの気持ちになれるんだ」
―――人魚は無尽蔵な体力のすべてを、パフォーマンスに捧げ尽くす。
体中の疲労と、呼吸の乱れが極限になりながらも。
その地獄のような苦痛のなかに、大きな喜びと満足を得ていた。
永遠にこの天幕の下で、踊っていたいような……。
「分かるよ、レイチェル。でも、今夜はそろそろ……本当に限界だから。リングマスター!そろそろ、フィナーレを!」
「おう!!着地させて、礼をさせるんだ!!それに合わせて、花火だ!!」
―――男は人魚を見つめながら、床を手で叩くジェスチャーをして。
人魚がそれに気づいて着地すると同時に、お辞儀の仕方をしてみせた。
人魚は即座にそれを真似すると、観客たちは歓声と拍手の雨をくれる。
達成感とともに少しさみしさを感じるけれど、満ち足りた終わり方だった……。
―――いい夜になった、あまりにも大きな変化を得られた夜に。
人魚は賞賛の意味を知り、男は自分の運命を知った。
人魚にとって、ここは新しい故郷となる。
男にとって、人魚と共に世界を旅して回るのは新たな使命となった……。
―――人魚はサーカスの一員になって、海から離れることを決める。
天幕の下にある楽しみに、心の底まで取りつかれていたから。
演技の果てに、男のそばに戻った人魚は。
「これからよろしく」、と契約の言葉を告げていた……。




