第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百七十九
―――男はよく知っている、舞台で最も怖いのは『何をしたらいいか分からないとき』。
サーカスの文脈は、何とも自由なところがあるから。
無限大の選択権があったとしても、最適なのはひとつだけ。
最高なのもひとつだけ、選べるのは一度きり……。
―――無限の可能性は、まるで夜の闇。
星のない夜のように、何も頼るべき道しるべがないようなもの。
そんな可能性のなかから、一発勝負で選ばないといけない。
それはアーティストたちにとって、とてつもなく緊張とストレスを与えてくれる……。
―――楽しめる勇気が足りない者もいれば、逃げ出す者もいた。
必要とされる才能のひとつに、耐久性がある。
あまりにも大きな課題と戦えば、誰の心であってもすり減ってしまう。
この天幕の下は世界の何処よりも華やかだけど、残酷な裁きの場所でもあった……。
―――男は人魚に、伝授していく。
身振りだけでの『トーク』で、物語を演じながらね。
人魚たちに嫉妬した身の程知らずのピエロが、これから大きな芸に挑むのだ。
観客席にいる者たちは、どんな言葉が交わされているのかを知らない……。
―――そこで交わされていたのは、男からの指示。
指示の通りに、人魚は動く。
「怒ったフリをするんだ」、「殴るような素振りをするんだ」。
的確な指示に体を反応させながら、人魚は『エアリアル』についても聞かされる……。
―――布をロープ代わりに使って、『空中で踊るパフォーマンス』だよ。
その言葉は人魚の心に、深く染み入った。
そんな考えをしたことはなく、人魚は好奇心の虜になる。
もちろん、『ピエロの演技』に付き合いながらもね……。
「コツは、重心移動。このシルクの布は、君の体重じゃ、決して切れることはない。二百キロ以上の重量にも、余裕で耐えてくれるものだ。ひねっても、ちぎれないし、裂けることはない。裂けるとしても、かなりゆっくりと裂けるから、危険な目に遭うリスクはない。でも、落下事故があるとすれば、摩擦不足。脚や腕、それらで張りつめさせていないと、布からすべって落ちてしまう。その無様な失敗例しか、見せてあげられない。だから、それだけは真似しないこと。他は、自由にやっていい。君は、きっと、それで大丈夫だから」
―――『ピエロの劇』も、人魚への授業になってくれる。
大げさな身振りと手振りで、エアリアルの『理想的な動き』をピエロは描いた。
観客たちは、「ピエロが分不相応に最高の芸をしてやると威張っている」と解釈する。
高みではそんな会話はなかったけれど、マイム/動きだけの劇は観客に伝わった……。
―――才能はないが、多芸で知識は豊富であるのがこの男。
間違いなく一種の天才であるが、今からやるのは一世一代の『大失敗』。
大ケガするかもしれないが、まあ死ななければ問題なし。
そんな考えになれるのも、どうにも魔が棲むアーティストのひとりだった……。
「やるぞ、やるぞ!」
「……気をつけて。もしも、危険なら」
「危険でも、やる。サーカスらしいから、それはそれで悪くない」
「……ええ。分かった。もう止めない。サーカスを、私に教えて」
―――ピエロの『劇』のあいだにも、スタッフたちは動いていた。
エアリアルのための装置が用意され、天井に張りめぐらされたロープのひとつが動く。
布をかけるための場所であり、それは想像以上にシンプルなものだと人魚は驚いた。
これでは危険だろう、自分はともかく男にとっては……。
―――それでも、集中する男を見ていると。
止められないなと、人魚は考えてしまった。
彼女も間違いなく、この天幕の住人の資格を持っている。
命がけのパフォーマンスに対して、拒絶反応を持っていないのだ……。
―――それでも、無事を祈ってはいる。
心配すべき行動ならば、止めるのが人魚としいて正しいのに。
男は観客席に両腕を広げ、罵声を浴びせられながらも。
エアリアルに挑戦するフリをした、本当は最初から失敗だけするつもりだ……。
――――シルクの布に、もつれるように無様にしがみついて。
彼は高みからゆっくりと降りていく、ブンブンと空中でその身を振り子にするが。
美しさも優雅さもない、私的な魅力はそこになく。
ただ失笑はどうにか手に入れられる、あまりにも下手で今にも落ちそうだから……。
―――人魚は集中していた、男の動きから学び取るために。
『おそらく、コレの真逆の美しい踊りをすればいいだろう』。
大きな教訓であり、また次の教訓も偉大なものだ。
『どこに力をかければ安全に捕まれるのか、あるいはその逆はどうか』だ……。
―――男は何度も滑り落ちかけては、どうにか藻掻いて必死に捕まる。
リングマスターが真下にやってきて、「早く落ちて来い!」とマイムで表現した。
男はあわてて藻掻くが、手も足もやがてシルクの布に拒まれるようになり。
ついに、勢いよく滑落してしまった……。
「う、ぐうう!?」
「大丈夫か。上手く落ちれた。せいぜい、折れていても肋骨。顔に力を入れてろ。痛い素振りはするんじゃねえ。あくまでも、お前は『おとぼけピエロ』だ」
「は、はい!もちろん!!」
「……上出来だ。あとは、人魚に任せよう」
―――リングマスターが、男を引きずるようにして舞台袖へと引っ込んでいく。
男は痛む胴体なのに、思い切り大げさに身を捻って滑稽さを演じ切った。
観客たちを、どうにかこうにかそれなりに笑わせられたのだから。
彼からすれば、百点満点どころか二百点だった……。
―――あるいは、三百点かもしれない。
だって、人魚にエアリアルを伝えられた。
痛む体を気にすることもなく、舞台袖までコッソリと移動する。
観客たちはサーカスを知っている、ピエロの失敗は成功のための前振りだと……。
「今度は、あの子がやるんだろ!」
「新人がやるには、あまりにも難しいんじゃないのかな?」
「あの子が新人だって?きっと、他のサーカスで腕を磨いていたんだよ」
「あんな身体能力しているんだ、新人じゃないよね」
―――観客たちはいつものように、無責任な推論の遊びを始める。
それはアーティストからすれば、喜ばしいことだ。
『遊びの道具』を、提供しているのと同義だから。
サーカスには、謎があった方がいいのだ……。
―――人魚は、さっそく新たな挑戦を選ぶ。
スタッフを見つめて、指で合図を出した。
ロープが稼働して、シルクの布が人魚のために舞い降りる。
指でそれをつかむと、想像以上にすべりやしものだった……。
―――怖がることは、人魚にはない。
怖がる理由は、もうなかったから。
すべきことが見えている、この布といっしょに空中で踊るのだ。
人魚はゆっくりと首を振り始め、リズムを作りながら……。
―――新たなアイデアを見つけた、バイオリン弾きたちがこちらを見上げている。
指で指示を出した、「弾きなさい」。
エアリアルがダンスならば、音があった方がいいだろう。
人魚はたしかに、豊かな才能の持ち主であった……。
「音楽を、弾かせるんだね。なるほど、そっちの方が、面白そうだ!」




