第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百七十八
―――人魚の自由な演技は、素晴らしいものだったが。
さすがに、演技内容に限界が来つつあった。
バリエーションが見つからない、道具と語り合える彼女であっても。
道具の数だって、有限なのだから……。
―――サーカス・アーティストの心にある、虚無的な恐怖と初めて出会ったときだ。
母性的なほど観客に与えたいと考えている者も、同じパフォーマンスだけでは限度がある。
いつくしむためには、多様性が必要なものだった。
良い意味で複雑になっていくべきで、ひとりでは限界も早く来る……。
―――サーカスのリング/舞台は、大勢の観客に囲まれて。
大勢のアーティスト仲間たちも、すぐそばにいるはずなのに。
舞台の中心で孤独を感じてしまうときもある、限界を感じてしまったときだ。
それが心のなかに、他者と融け合うのを拒む輪郭的な限界を描いてしまう……。
―――そうなってしまうと、サーカスの天幕のあちこちにある闇が怖くなった。
そこにどんなバケモノが棲んでいるのか、いないはずのバケモノを感じ始める。
舞台に立つあらゆるアーティストは、多かれ少なかれこの感覚に襲われるものだ。
想像力の高さとストレスが合わさると、大勢の中心でも孤独に襲われる……。
―――多くのアーティストを壊してきた、恐ろしい重圧だった。
人魚はそれを、楽しんでもいるが。
この重圧との戦い方を、まだ知らない初心さがある。
そこまでを伝授するには、さすがに時間が足りなかった……。
―――この『どこまでも楽しい場所』にいるのに、不安がどんどん膨らんでいく。
自分の心の珍しい変化を、勇敢さにあふれた自分の変化を楽しんでいる。
不安がくれる震えに、人魚は面白がってはいた。
だが、アイデアの数がない……。
「どうしよう。困ったかもしれない――――」
「皆さま、新たな演目の時間です!」
―――救いの主が現れたような気がした、だが彼女は負傷しているはずだ。
立って歩いているけれど、それはどこかムリしている動きだ。
観客は気づかない、高綱渡りの花形の再登場に喜んでいる。
まだ理解していない、これが虚構だということを……。
―――だが、虚構か事実かはさほど意味がないかもしれない。
虚構だと気づいているのに、人魚は魅了されているからだ。
彼女を見つめてしまう、高綱の高みの上から。
何かが始まることに、期待していた……。
―――観客が悲鳴を上げた、罵るような声もだ。
ピエロがわざとらしく登場して、彼女に『バレバレなのにコッソリ』と近づく。
「やめろ!」、「邪魔をするな!」。
彼女は気づいているはずなのに、演劇のお約束にしたがい布を奪われた……。
―――彼女はこけそうになり、リングマスターに支えられる。
大きな声でリングマスターが怒鳴り散らすなか、舞台を滑稽な動きで逃げ回った。
その必死な動きは、演劇じみていなかったが。
観客を笑わせるには、十分な面白みがある……。
―――男ではなくて、リングマスターの動きがあまりにも上手だったから。
ピエロを捕まられそうで、まったく捕まえられない大男は何ともコミカルだ。
ピエロは逃げて、高綱のための柱を登り始める。
人魚は手伝うべきかと思ったが、男は拒むために首を振った……。
「そうじゃないんだ。レイチェル、ボクは、君に……新しい演技を伝えに来た。新しい道具の使い方の、『失敗』を君に伝える。君は、成功してくれ」
「なんだか、分からないけれど。やってみて……ねえ、貴方は大丈夫?」
「大丈夫。死なないように、リングマスターに受け止めてもらうから。ねえ、レイチェルそっちにボクがついたら、コミカルな動きで、ボクを殴る真似をして」
「リングマスターさんみたいな、動きで?」
「まさに、そうだ。そのケンカをするあいだに、エアリアルについて、ちょっとだけ伝えるから。君は、そのあとで、やってみて。絶対にできるから。もちろん、ボクの失敗は、真似しないようにね!」
「でも……ええ、分かったわ。貴方たちの覚悟は、よく分かったから。どんな危険なことでも、止めるべきじゃないのね?」
「もちろん。怖くないと、危険じゃないと、本物のサーカスにはならないから。美しいだけでも、スゴイだけでも、まだまだ足りない。本当に、人を喜ばせるためには、スリリングな危険さもいるんだ。ハラハラしないと、心は解き放たれないんだ」
「サーカスのことは、まだまだ勉強する必要がありそうだわ」
「ああ。もちろん、とっても奥深いものだから。君は、すごく、才能がある。ボクの一万倍か、十万倍、それ以上の、才能のカタマリなんだ。だから、もっと……知るべきだよ。知れば知るほど、君は、サーカスをもっと楽しめるし……もっと多くのお客さんを、笑顔にしてあげられるんだから!」
―――高くて揺れる、柱の上に。
男と人魚は、再開の場所を作った。
見つめ合ったのは、わずかな時間だ。
観客が作ってくれる文脈が、人魚になすべきことをさせるから……。
―――殴った、ぽかぽかとした可愛らしい動きで。
ケガをさせる威力はまったくないし、そういう意図ではない。
ただピエロの役回りを完成させるため、ピエロは逃げ回りながらも。
観客たちに笑われて、最後の任務に取り掛かる……。
「これから、痛い目に遭う。落ちるけど、学んでね!」




