第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百七十六
―――人魚の体力と、想像力に底はなかったようだ。
初めての高綱渡りのパフォーマンスをすれば、心も肉体もすり減るはずなのに。
彼女はまったく疲れておらず、それどころか『本気の動き』を解禁し始める。
ミスへのリスクを含んだ演出をするべきだが、彼女はそれを捨て始めていた……。
―――観客たちも、とっくに気づきつつあるからだ。
人魚がミスを犯すはずがないと、『あり得ない認識』に囚われている。
人魚は自分がかけた魔法を、もう一段強めるべきなのだと悟っていた。
感じ取れるからだ、観客たちが望んでいるのはスリリングさではなくて……。
―――ただただ『すごいパフォーマンスを見たい』という、幼稚なものだと。
幼稚さは悪いものじゃない、むしろサーカスを楽しむには絶対に必要なものだ。
遊びも芸術も、ただの虚構に過ぎない。
そこに含まれた意味や価値を見つけられるのは、知性ではなく素直な欲求だけ……。
―――心のままに、楽しみ始めていただけ。
観客たちは無邪気な子供のように、人魚へ無限のパフォーマンスを求めている。
さっきよりも速く、さっきよりも高く。
熱狂的で幼稚で素直な言葉に、人魚の体と心は力を与えられていた……。
「『入っている』。神経がね、いくらでも研ぎ澄まされる高みというものがあるの。あのときは、何もかもが楽しくて、疲れなくなる。それでいて、周りが見えるの」
―――サーカス・アーティストたちが望みながら、ほとんどその領域に至れる夜はない。
多くの言葉が、それを表現しようとしているものだ。
あるものは『天意が宿ったとき』とも、またあるものは『憑依状態/トランス』。
『集中の極致』だとか、『楽しみの境地』でもいい……。
―――この神秘に満ちた、体と心を限界の檻から解き放つセンス。
それは多くの言葉で表現されてきたけれど、人魚のそれは『喜び』に拠するものだ。
人魚本人ではなく、じっと彼女を見つめていた男が悟ったものである。
楽しんでいるけれど、誰かを楽しませようとしている部分が大きい……。
―――あのたくさんの名前を持つ、独特の感覚について。
少なからずのアーティストたちが、必要な条件を言葉にして残していた。
『自分と相手がひとつになるような』、『自分以上の大きなモノとつながる感覚』。
人魚のそれは、人と人のあいだにある境界線を抱きしめて超えるような力だった……。
―――『見る』能力には長けている、感覚ではなく知識を総動員することで。
知識の良いトコロは、感覚よりもはるかに巨大な世界観で分析できる点だ。
男にはそれがある、伝統や口伝ではなくて異常なまでに知的な力。
アーティストしての表現能力はなくても、その点だけは天才だ……。
「まるで、喜びを現象にしたがっているような……」
―――いい『見る』能力の使い手は、言葉にする力にも長けている。
男の言葉に、周りにいたサーカス・アーティストたちは想像力を高められた。
悲しいことに男自身には、その種の芸術的なセンスは足りないけれど。
周りの人々がそれをやってくれるのであれば、問題なんてどこにもない……。
「現象、なる、ほど……っ」
「まだまだ、十分じゃない。そもそも……高綱じゃないかも」
「あ、あれだけの運動能力だし、そもそも……知識と経験値的に、いくら天才でも……バリエーションが不足する」
「でも、まだ、レイチェルは……」
「あの子の、得意な技はなんだ!?」
「もっと、やりたがっている。高綱だけじゃ、足りない。あの子のセンスなら、即興で自分の流儀を形にしてやれるはずよ!!」
「よ、用意はできるものには、限界はありますが……っ。人魚さんの得意な演目さえ分かれば……っ」
―――三人のサーカス・アーティストたちの目が、一斉に男へと注がれる。
人魚をこの場に連れて来てくれた男なら、その才能を発掘した彼なら。
少なくとも自分たちよりも、多くのパフォーマンスを見ているはずだった。
何かアイデアを出せと、血走ったアーティスト特有の目でにらんでいる……。
―――男には三人ほどの表現のセンスはないものの、知識は十分にある。
人魚の魅力も、たしかにこの三人よりは洞察が利くかもしれない。
だが、追い詰められることにも慣れていて。
こんな形相でにらまれると、過去の失敗の数々が蘇ってしまう……。
「れ、レイチェルの、得意技なんて、その、あ、あの……っ」
「あ、青ざめないでくださいっ!!過呼吸もナシ!!準備を、は、早くしてあげないと!!ね、ネタ切れになっちゃうますよう!!」
「焦らせても、出ないものは出ないかもしれないけど……ここは、サーカスよ!!焦ってもいいから、何か出せ!!サーカス・アーティストの芸人魂を見せなさい!!」
「そうだ、やれ!!口走れ、お前のアタマだけは買っているんだからな!!!」
―――脅迫しているわけではなくて、これもまたサーカスに伝わる技巧だった。
『考えさせず』に、次から次にアイデアを連想させていく方法だ。
男の口は、震えた声ではあるものの。
次から次にアイデア自体を、連ねていく……。
―――人魚の能力ならば、おそらくほとんどのネタが行えるはずだった。
圧倒的な才能があれば、道具と観客たちと無言のまま通じ合えるのなら。
才能は異常なほどに多岐に渡り、それから何かを選ぶのは難しい。
だが、皆でアイデアの海に溺れるのもいい行いだ……。
―――お互いのアイデアを、ぶつけ合うように競り合わせていく。
そうすれば、アイデア同士が補い合うように。
何かしらの形を紡ぎ出してくれるのが、この種の行いの良いところだ。
即興は時間に追い込まれ、時間が偉大な芸術家という意味を知らしめる……。
「な、何でもやれるのならば、逆に……っ」
「あるのものから、選ぶのもありよね!」
「何が、ありやがるんだ!?人魚の、あのけた違いの身体能力に、ちゃんと応えてやれる道具がいい!!道具でなくても、何か、彼女に合うものは何だ!?頑丈なモノだ、鉄か、鋼か」
「…………え、えーと。ぼ、ボクたちの使う道具で、いちばん、強さがあるのは……あれです。あれ。布。繊維は、とてつもなく頑丈です……っ。金属なら、レイチェルの力に押し負けて壊れるかもしれないけれど。布なら、やさしく力を分散するし……動いて、キレイで。芸も……ある……」
「え、エアリアル!!あの布、あります!!」
「シルクの、布で宙を舞う……っ」
「あの子のしなやかな身体能力と、華やかさには合っている!!」
「で、ですよねっ!!何より……見たい。レイチェルの、エアリアル!!」




