第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百七十五
―――虚構のすばらしいところは、現実にある境界を取り去ってくれることだ。
そんな考えを手に入れながら、人魚は笑顔のままロープの上で踊る。
落ちそうな危うさで心配させながら、圧倒的な身体能力で驚かせながら。
演技という虚構の力で、観客たちの心に立ち入っていく……。
「すごい!なんて、パフォーマンスなんだ!!」
「お、落ちちゃう!今度こそ、危ないわ!!」
「大丈夫だよ、あの子なら……きっと!」
「すごいなあ。キレイだな。どうして、あんなに勇気があるのかなあ」
―――観客たちの心と、人魚の動きは同調していく。
怖がりたくもあるし、安心したくもある。
観客たちの心は、あまりにも移り気だけれど。
それがだんだんと、人魚の演技が生み出す虚構に向けて融け合っていく……。
―――ハラハラとする心が叫ばせた、ちいさな悲鳴も。
ドキドキとする心が叫ばせる、大きな歓声も。
移り変わるはずの心たちを感じ取りながら、人魚は笑顔で飛び跳ねる。
落ちてしまいそうなほど、ロープの上を器用に転がり……。
―――落ちそうになるたびに、復活してみせた。
危険な挑戦と、圧巻の勝利を見せつけることで。
観客たちは、人魚といっしょに冒険しているような気持ちになる。
ゆっくりと、人魚と観客たちの心にある境界線が消え去って……。
「ひとつに融け合っていくみたいね、サーカスっていうのは。海と人魚みたいだわ!」
―――観客たちといっしょに、サーカスを作るべきだから。
人魚はたしかに天幕の下にある、芸術の文脈を読み取っていた。
これは大いなる『遊び/虚構』、現実を越えてしまう特殊な儀式だ。
サーカスの魅力で、アーティストも観客たちも一緒に楽しめれば最高の結果……。
―――海とひとつになれる感覚が備わっている人魚には、この理解を得るのは容易い。
人魚は笑顔になり、ロープの上で恐ろしい速さで側転からの宙返りを演じる。
技巧の上でも素晴らしいし、危険性の上からも最上級だ。
不安定さも『演じる』ことで、観客たちの緊張感まで手玉に取っている……。
―――サーカスのアーティストたちも、あっけに取られていた。
新人のやれるパフォーマンスではなく、これはあまりにも見事だ。
天才たちのなかの、最上位だろうと思い知らされる。
いつの間にか自分たちまで見入っていることに気づき、我に返る必要があった……。
「みんな、レイチェルに心を掴まれているんだ。ボクも、そうだった。仕事を忘れてしまいそうなほどの、独壇場だ」
「……い、いきなり。ここまで、やれちゃうんですね……っ」
「教えてもらっているから、だな」
「観客から学び取っているのよ。要求のままに、素直に動いているだけ。あの子は身体能力だけがすごいんじゃない。『見る』ための力が飛びぬけている」
―――『見る』というのは、なかなかに難解な感覚だ。
アーティストは目に映ったそのままを、感じ取っているわけじゃない。
『見る』ことで得られるべきは、現実に秘められた真実だけ。
観客や空間、果てはアーティストたちからも感じ取っている……。
―――どんな演技をするべきか、どんな反応が起きるのを望んでいるのか。
この天幕の下にあるあらゆる者と、あらゆる物体がすべて人魚に『見られていた』。
才能のない男には、その事実だけしか分からない。
どうすれば、これだけの力を発揮できるのかは彼には一生理解できなかった……。
―――それでも、指導者としての才能を男はこの瞬間も磨いている。
アドバイスをしてやれるはずだ、センスだけでは創作できない領域もあるから。
ほとんど究極のパフォーマンスではあるけれど、完全無欠に近いかもしれない。
足りないことで、より完璧になれるのがサーカスの面白さでもある……。
―――男は満面の笑みで、誰よりも人魚のパフォーマンスを楽しみながらも。
心のなかで、責任を感じていた。
もしも人魚が望んでくれるなら、自分はあの子のために人生を捧げるべきだ。
心の底から、その覚悟をしていく……。
―――男の心に、師からの言葉が響いていた。
「才能は周囲の者を、尽くさせるのだよ」。
自分は巡り合った奇跡みたいな才能を、海から陸に連れてきたのだ。
あの運命の意味は、きっと自分が人魚に尽くすということに違いない……。
―――才能のない男は、このときも誤解をしてしまっていた。
サーカスの中心に立つ者が、花形以上にサーカスを担う者なのに。
人魚を海から連れ来て彼こそ、凡才以下でありながら天才以上の特別な才能。
人魚と共に在るべき、偉大なるリングマスターの定めが彼にはあった……。
―――サーカスの空間は、どこか間違いなく宗教に似ている。
観客たちが信者ならば、あがめられる女神は人魚になるかもしれない。
でも、それが成り立つためには大きな『神殿』がいるのだ。
サーカス団とそれが率いる者がいてこそ、人魚は観客たちとひとつになれる……。
―――彼はその事実に気づきもしないまま、『未来』への着想を手にしていた。
人魚のための舞台を用意しつづけるべきだ、人魚が望むべき形で。
人魚があらゆる者を、笑顔にするように。
今夜のサーカスを誰よりも明るい笑顔で、男は『見る』……。
「すごいなあ。オトナも、子供も。人間族も、エルフもドワーフも。巨人族のアーティストや、ケットシーのスタッフも、老人も、貧乏な立ち見のお客さんたちだっ……特等席のお金持ちたちだって、レイチェルに夢中だ。レイチェルのおかげで、笑顔でひとつに……レイチェルなら、『あらゆる人々とのあいだにある境界線を越えられるんだ』」
―――天才の証が、『見る』ことだと言うのなら。
千年間のあいだどんな覇王も、どんな神々も成し遂げられなかった『未来』。
それを『見た』とするのならば、誰が本当の天才だったのか。
「才能は周りを尽くさせる」ものだ、宙を舞う人魚は男の顔を見る……。
「レイチェル、いっしょに。サーカスをやろう!ずっと、ずっとだ!たくさんの人々に、どんな苦しみを抱えている人たちにだって、笑顔を届けてあげられる!ボクといっしょに、サーカスをやろう!」




