第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百六十四
―――人魚の前で、サーカスが始まった。
絢爛豪華な舞踏に、攻撃的で恐ろしい演目もあれば。
優雅で楽しい技巧もあって、海の底にはなかったものばかり。
海中は人魚にとっては、あまりにも満ち足りていた場所だから……。
―――遊びのたぐいの発明は、少しばかりおろそかになっていたのかも。
身体能力も高く、圧倒的な海の領域の支配者でいられたから。
停滞を起こすほどに、完全に近かったのかもしれない。
その種の完璧さは、人々の魂を牢獄に閉じ込めてしまうのかも……。
―――何とも考察に満ちた現象なのだと、人魚の令嬢は考えてしまう。
自分たちの静かすぎる世界と比べて、この活力にあふれた雑多な混沌は何なのか。
知的なところもある人魚の心は、『不完全を目指す』これらに驚いていた。
だが、彼女は人魚のなかでも変わり種ではある……。
―――芸術という不完全な何かを、愛してやれる才能に秀でていた。
ここにあるのは何かが欠けた世界、何もかもがどこか現実に比べて足りていない。
だからこそ、より深く伝わってくれるものだと解釈する。
芸術というものは、そもそもが『欠けた足りない抽象』なのだろうと……。
―――それほど難しい考えなんて、置いておいてもかまわない。
肝心なのは、たった三つの演目を見ただけで。
人魚は楽しい気持ちになれていたのだから、とても明るい笑顔だった。
能力が高い者の心を動かすのには、それなりの苦労が必要とされる……。
―――海の霊長たる人魚が笑みを得るための手段が、海にあるとは限らない。
完璧でおだやかで、永らくの停滞を迎えていた人魚たちの世界。
そこに足りないものが何だったのか、人魚は半時のあいだに理解する。
芸術というものが、物語という何かしらの欠片が必要なものだったと……。
―――歴史や伝統でありながらも、それらか生まれた似て非なる何か。
学問足り得ない混沌の子、完全に止まりつつある世界への大きな問いかけ。
壊しながら世界は変わっていくものだと、人魚の娘は理解を得る。
これは人魚たちを幸せにするものだろう、そして嫌悪されるものだろう……。
―――単調な芸術しかない人魚の世界で、これはあまりにも多彩が過ぎるから。
長老たちはこれを好まない、若者たちもどこか怖がるだろう。
自分たちが、何か底の見えない深い穴に引きずり込まれていくような気持ち。
そういったものになりかねなくて、きっとそれは『善き流れ』とは異なった……。
―――人魚にはあまり信仰心がないけれど、『善き流れ』は人魚たちの信仰にあたる。
それは人魚たちにとって、守るべき理想の知識に他ならない。
神さま不在の宗教であり、それは芸術とは対極の満ち足りた完全しかない。
人魚の歴史と本能なかで熟成された、至高の生き方だ……。
―――それらがあるおかげで、おそらく多くの戦を回避してこれた。
地上を冒険心で旅する人魚も、かなりの数がいたけれど。
その大半が心に傷を負うほどには、地上は争いに満ちている。
旅した人魚の多くが気づく、地上には『善き流れ』が不在なのだと……。
―――それでも、人魚たちが冒険心に駆られて。
地上を旅する理由が、子供のころは分からなかったけれど。
ついさっきまで、よく分からない衝動が説明しにくい作用をしていたけれど。
今この天幕の下、人魚は『善き流れ』にも不在なものを知る……。
「ここは、とても面白い場所ね」
「そうだよ!その通りさ。きっと、好きになってくれると思う。ここは、誰かの心にある傷や、空虚さを……埋めてくれるための場所なんだから!」
―――楽しいだけでは、なかったと人魚は思い知る。
これは喜びであり、嬉しいことなのだと。
目の前にいる男は、多くの感情を抱きながらサーカスを楽しんでいた。
これはふざけた娯楽の場、芸術にしか過ぎないもの……。
―――でも、それは不完全にしかなれない人々の心を。
やさしく癒してくれるものであり、この慰めが人々を支えるものだ。
ああ、なんて愛おしい空間なのだろう。
終わりが来るのが、もったいないなと人魚は思った……。
―――おそらく、自分のかたわらにいてくれる男も含めて。
自分のなかに生まれた感情と、それ以上の大きな何かが機能している。
恋心など知らぬ乙女にとって、この時間は永遠よりも愛おしい。
抱きしめて放したくないもののひとつと、人魚は出会ったのだと自覚した……。
―――それでも時間は、有限なものだ。
完全に近しい海とは異なり、この場所で行われる何もかもがあまりにも早い。
すべてのものは有限で、やがては地上と海のなか。
どんなに絆を紡いでも、そのへだたりはとても大きく……。
「あ……だめ、危ない」
「だ、大丈夫だよ。これは、軽業といって……あえて危険な飛び方を」
「違う。たぶん、そうじゃないわ」
「え、ええと……まさか、道具が……シンディ!!」
―――綱渡りのロープの留め金が、バキンと折れて。
たゆんでしまったロープから、着飾った女が落下していく。
男は素早かったが、それよりも何よりも。
『彼女がどう落ちるのかを理解していたように』、人魚が驚くほど速かった……。
「ぐ、えええっ」
「い、いたた。なんで、『分かった』の?」
「な、なんとなく。それで、どう?う、動ける……?」
「あ、脚と背中を痛めてるっ。半月どころか、これ、半年……いや、もう、二度と」
「飛べるさ。だいじょうぶ」
「あ、ああ……ありがとう」
「ご、誤魔化そう。ピエロの上に落ちて来るっていう筋書きに。痛むだろうけど、ボクのアタマを叩くんだ」
「わ、わかった」
―――サーカスのアーティストは笑顔を作り、滑稽な動きで男を叩いた。
喜劇にすることで、まるでピエロのいたずらだったように誤魔化しにかかる。
観客たちは気づかない、ピエロが滑稽な動作で彼女を運んで行ってしまっても。
これが演目の流れでしかないかのように、どうにかこうにか誤魔化した……。
「だけど、も、問題があるわ」
「そ、そうだね。君の演技、大トリだ。誤魔化せても、また……見たいと思っているお客さんたちが多い。これ、『ため』だと思われてるし……」
「喜劇にすると、こうなるから……でも、何か、穴埋めを考えないと……」
「……あ、あるよ。最高の、穴埋めが……たぶん、君を、傷つけてしまうほどの才能が、いるんだ」




