第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その五百十九
―――完全な微笑みは、失われたままだったとしても。
キュレネイのちょっとおかしな微笑みには愛らしくて、独特の魔性があったよ。
こういう言い方は不適切かもしれないけれど、不完全だからこその魅力もある。
欠けた部分にだって、ボクたちヒトの心は引き寄せられた……。
―――ククリとククルは、キュレネイ・スマイルの意味をよく知っている。
ちゃんと説明を聞かされているからね、他でもないキュレネイ自身に。
戦場の夜は忙しいときもあれば、そうじゃないときもあったから。
帝国兵どもを殺しまくった静かな夜に、ふたりは聞いた……。
―――どうやって、『ゴースト・アヴェンジャー』になったのかをね。
キュレネイ本人も多くの過程を、忘れてしまっている。
脳に対しての特殊な呪術は、あまりにも残酷な行為だった。
幼い頃の思い出を多く忘れているけれど、それは絶対の忘却でもない……。
―――キュレネイの姉からの言葉もあるし、キュレネイ自身の魔力の大きさも幸いした。
魔力の制御を極めつつあるからね、それに身体の鍛練も良かったのかもしれない。
『メルカ』の長老殿も認めている、『肉体の強化は呪術による混沌から己を助ける』。
『筋肉で痛みと実在の感覚を得ていけば、それだけでも治療になるかもしれない』。
呪術が与えた損傷は、ゆっくりとキュレネイを解放しつつあるわけだ……。
―――それらは奇跡的なことではあるらしい、でもキュレネイは成し遂げつつある。
壊れた脳も、ゆっくりと成長して。
呪いの傷跡から解放されつつある、『りゅうのほむらの』の特訓はその助けになった。
ソルジェが聞けば大喜びで、妹分みたいな番犬を抱きしめるかもしれない……。
―――ああ、本当に罪作りな微笑みだったよ。
キュレネイも理解していたんだ、ソルジェがこの『りゅうのほむらの』を見れば。
どれだけ喜んでくれることか、兄や父親のような顔で褒めてくれる。
美味しいゴハンを食べさせてもくれるだろう、何て幸せな時間なのか……。
―――大きな大きな戦鎌を、大振りな所作で振り回した。
夏の風を切り裂く音と、きらめく銀色の大刃に『それ』は隠されてしまう。
目撃に成功したのは、この世でたったふたりだけ。
奥義の解析を話し始めていた『メルカ・コルン』の双子ではなく、男たち……。
―――キュレネイの『練習台』を実行してみせた剣の達人と、『ハーフ・エルフ』。
アーベルは嫉妬深い目で見ていたんだ、キュレネイ・スマイルも悪ふざけかと思った。
腹が立っていたから、にらみつけるような目で彼女を見ていたからね。
そのおかげで、これまではソルジェしか見ていなかった幻の笑顔と出逢えたんだ……。
―――愛の始まりは、奥深いものがあるだろう。
誰かに何かを与えてあげたいと思えなければ、それは始まることがない。
でも、恋の始まりはもう少し無節操なものだよね。
たったの一瞬、刹那よりも短い時間のなかでだってやれるから……。
―――『ハーフ・エルフ』らしい、優れた動体視力。
ほかには悔しさに由来する集中力と、ものすごく大きな劣等感が動機だった。
何ともネガティブな感情が土台となったものだったとしても、恋は偉大だよ。
ひねくれ者の『ハーフ・エルフ』でさえ、その虜にしてしまう……。
―――母性を感じたのかもしれない、その刹那の笑みは義理の母に似ていたから。
かつては自分に向けられた笑み、アリーチェにも向けられた笑み。
愛情深い笑みであり、無償の慈愛を秘めてもいた。
母性だけならば、懐かしいだけで済んだろうに……。
―――ソルジェからおごってもらえるはずの料理、それを考えていたキュレネイ。
そこにあったのは食欲だけでなく、もっと可愛らしい感情だったから。
そのせいで、アーベルは若い人生で二番目に現れた恋愛感情の虜になる。
『バカにするな』とか『ふざけるな』とか、怒鳴り込んでやるつもりだったのに……。
―――恋に落ちた少年らしい無様さに囚われて、その場に居心地悪く立ち尽くす。
地面に吸い付かれたように、足は動かなかった。
視線と顔面は、刹那よりも短い笑みを終えたばかりのキュレネイに釘付け。
その事実に、あまのじゃくな少年はブンブンと首を横に振るのみ……。
「ち、ちがうし……ッ!!ソルジェ・ストラウスの、部下め……ッ!!」
―――若さは素晴らしくひねくれているものだ、そういう感情は嫌いじゃない。
詩人の多くは好物であるだろうし、もちろんボクも例外じゃないんだよ。
人生は短いのに恋を恥じるなんて、少年らしく甘いよ。
でも、その甘さを戯曲は好むものだった……。
「……そういう表情が、本当のお前なのか?」
―――アーベルの言葉じゃ、もちろんないよ。
キュレネイに『殺されてもいい』と感じていた、達人の方だ。
妻子のいる彼は、恋に落ちることはない。
むしろ、目の前にいる無表情過ぎる少女に悲しみを感じている……。
「ふむ。何を言っているでありますか?」
―――どんな表情を見せていたのか、キュレネイには自覚がなかったよ。
皮肉でもなく、本当に分からなかったのさ。
達人はどんな言葉を返すべきなのか、迷ってしまう。
この世のすべての悲劇を知るのは不可能だけど、ちょっとは心当たりがある……。
―――それが、大人の抱える悲しみってものでね。
少女が笑顔を失ってしまう理由なんて、とてつもなく痛ましいものばかり。
聞くだけの権利さえも、他人にはないんだよ。
だからね、それでもキュレネイの『ファン』になった彼は訊いた……。
「ソルジェ・ストラウスという男は、良いヤツか?……腕っぷしでも、将としての才でもない。ただ、お前と一緒にいるときに……」
「美味しいゴハンを、食べさせてくれるであります」
―――キュレネイにとっての、百点満点の答え。
それをどれだけ達人が解釈できたのかは、難しいところだよ。
でも、妻子持つ身の男には人生経験があった。
満足すべき答えなのだろうと、彼は感じ取っていたよ……。
―――もちろん、あらゆる言葉が多面性を持っていたんだ。
アーベルは、その言葉を聞いたとき。
とても不躾で、とても非合理的な憤りを感じてしまう。
ソルジェに対して嫉妬を抱き、ソルジェのことがこれまで以上に嫌いになった……。
―――それがどういった仕組みだったのかまで、彼は気づけない。
自分の恋愛感情まで封じてしまうと、必要以上に鈍感となるものだ。
罪深い笑みは、こうして夏の風のなかに。
愉快な運命の仕掛けを、こっそりと仕掛けていたのさ……。




