第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その四百五十二
―――結果的には、死ななかったよ。
シモンを斬りつけた若者に、ミアが飛び掛かってぶん投げていたからさ。
鋼を振り回そうとするときは、不慣れな者は鋼に使われる。
隙だらけの姿勢は、いともたやすくひっくり返すことだってやれるんだよ……。
「剣をそういう使い方してちゃ、ダメだよ。握りしめても、ダメ。力が弱い人は、支えるようにしないと」
―――あまりにもお粗末な動きだったから、ミアは注意しておきたくなった。
誰もが子供のときは、剣を振り回す遊びをするものだけど。
おおむね木の棒なんかで、代用するものだよね。
そのせいで悪癖も身についてしまうことを、ミアはよく知っていた……。
―――ミア自身も筋力はない、ケットシー族の十三才の女の子だからね。
だからこそ、技巧と知識に頼るんだよ。
ソルジェみたいな怪力でない限り、剣を握力で完全に支配するのは難しい。
剣みたいな鋼のかたまりを弾く勢いを作るのも、かなり困難なことだ……。
「剣を使ってあげるときは、腕力じゃなくて……全身で支えてあげるの。それだけは、覚えておくといいよ。そうすれば、あなたは戦場で帝国兵をちゃんと殺せるからね!」
―――笑顔のミアは、投げながらも奪い取っていた剣を若者に返却する。
彼の両足の間に、投げつけてやることでね。
刃が当たらないように配慮をして、敷石の上に転がせたんだ。
傷つけるつもりはない、貴重な帝国軍と戦うための戦力だから……。
「な、なんだ……っ」
「か、彼女は……ストラウス卿の妹だ」
「い、妹……」
「うん。ミア・マルー・ストラウスだよ。ちょっと、このお兄さんにお話しがあって来たんだよね」
―――見つめていたのは、お腹にナイフを突き刺されたままのシモンだ。
『オルテガ』でいちばんの権力者が誰なのか、その答えは単純明快。
ソルジェであり、ソルジェには実に多くの情報提供者が集まっている。
フリジアでもなく、ビビアナでもないよ……。
「私のお兄ちゃん……ソルジェ・ストラウスにね、教えてくれた人がいたんだ。あなたが、ビビを殺そうとしたって」
―――笑顔だったよ、口もとだけは笑顔のままさ。
目は一切、笑っていないけれどね。
蛇ににらまれたカエル……いや、カエルの群れがいたいんだ。
この場の全員が、ミアから放たれるプレッシャーに支配されている……。
―――本能というものが、理性に勝るときは多いものだった。
こんな小柄な少女に、この場の全員の命が握られているなんて。
普通は理解できるはずもないけれど、不思議なことに本能は悟っている。
自分たちが圧倒的で絶対の捕食者の前に、姿をさらしてしまっているのだと……。
―――死の気配には、誰しもが敏感となるものだ。
とくに戦闘が終わったばかりの街角にいる彼らは、死の危険から生き延びたばかり。
解放されたはずの死が、笑顔といっしょに現れたのだから。
本能は健気に、その脅威を教えてくれている……。
「ああ。もちろん。この場にいるみんな、逃げちゃダメだからね。動いたら、痛い目に遭わせるから。そのつもりでいてね。安心してあきらめるといいよ。絶対に、私からは、誰一人だって、逃げられないんだから」
―――若く血の気の多い男たちは、目の前にいる可憐な笑顔に逆らえない。
誰もが試みることだってしないし、商人のはしくれのくせに自己弁護もやらないんだ。
ちいさくて小柄なケットシーの少女は、まるで勝ち戦の将軍みたいに偉そうだった。
彼らは正しいよ、ミアは言動以上に怒っているのだから……。
「……私を、売った者がいるわけだ。当然か……」
「当然だよね。私にとって、ビビがどれだけ大切なのか……」
「彼女は、『狭間』だ。しかも、『人買い』だった」
「だから、何なのかな?」
―――シモンに対して、助言してやりたくなったそうだ。
シモンを斬りつけようとしていた若者が、シモンを心配していた。
おかしなハナシではあるけれど、それが現場の率直な空気だったそうだよ。
ミアを怒らせるべきじゃない、ミアが怒れば全員が殺されるかもしれない……。
―――だが、このシモンという人物にはいくつかの欠陥があった。
潜在的な命知らずであり、覚悟が決まると多弁になる。
世の中には、大して珍しくもないほどには。
こういう自己破滅願望を抱えた男が、どこの街角にもいるものだ……。
「……『人買い』を亜人種の君が、大切に思うなんて。おかしいじゃないか」
「おかしくないよ。友達だもん」
「友達というのは、便利な言葉だね。個人的な絆のなかに、すべてを収めようとする。ジーの一族を、君は……ストラウス卿の妹が、友達と見なすのか」
「いい子だよ、ビビは。どんな状況でも、いちばん正しいと信じられる道を選ぶ」
「『人買い』なのに、何が正しいんだ」
「そうなるしかない状況で、必死に正しく生きようとしたの。生きようとする努力は、すごく正しい。嘘をついてもいいの。死を遠ざけるためには、それは許される。ママは……ビビのお母さんとお父さんは、ビビに幸せをあたえようとしてくれた。ビビは、必死だっただけだよ」
「……彼女の事情は、知らないさ。さぞや、フクザツな状況なのだろうけれど。罪のすべてが消えるわけじゃない。彼女を殺しかけた、私自身も含めてね」
「どうして、殺そうとしたの?」
「信じてもらえるとは、思えないが。突発的なものだよ。魔が差したんだ。彼女がいなくなれば、きっと、『オルテガ』のためになる……ジーの一族が、君たちストラウス家に近寄れば、『ルファード』をひいきするだろ?……それは、『オルテガ』のためにならなかった。だから、おそらく……私は、後悔する行動をしてしまった。正直に、言っている」
「うん。信じるよ。戦場だもん。つい魔が差しただけで、誰かを殺しちゃうなんて、よくあるもん」
「……腹にナイフを突き立てられた男の耳には、とてもよく染み入る言葉だ」
「信じてあげる。あなたは、私を、わざと怒らせようとしていたから」
「……殺されてあげるよ。それで、君の怒りが消えてなくなるというならね。ついでに、この場にいる若者たちを見逃してくれないか?いい戦士として、帝国軍と戦うだろう。いつなんどき、敵が舞い戻るか分からない。若者の数は、いた方がいいだろ」
「うん。この人たちは、殺さない。でも、まだ解放はしてあげられない」
「どうして?君は彼らにまで、怒りを持ってはいないだろ」
「あなたが命がけで庇おうとするのなら、大切な仲間なんだよね。だから、釘を刺しておかなくちゃ。ビビに指一本でも触れようとすれば、殺す……その事実を、理解しておいてほしいの」
―――戦場は恐ろしい場所であったけれど、今この空間はそれより死の気配が濃密だった。
それは、薄暗くて冷たい気配。
若者たちの全員が、氷の指で心臓をわしづかみにされた顔になってしまう。
真夏の汗は冷え切って、膝はガクガクと揺れてしまうんだ……。
―――ミアの怒りに触れるのが、あまりにも恐ろしくて。
彼らの全員は、カチカチと奥歯を鳴らす。
死の気配は真夏に遭遇しても、心まで凍えさせるものだった。
彼らの全員が土下座と謝罪をしたくなる、まだしてもいない罪への罰に怯えてね……。
「……彼らは、やらないよ」
「『やらせない』、私が許さないから。それが、大切なの。思い知ってもらわなくちゃ」
「……思い知っている。リトル・ストラウス。君に、彼らは一生だって逆らえないだろう。だから……逃がしてやるといい。もうすぐ死んでしまう男の言葉ぐらい、聞いてくれよ」
「…………分かった。もう帰っていいよ。ビビには、近づかないようにね。顔は、覚えている。知ろうと思えば、何だって知れるよ。どこの街も、一枚岩じゃない。あなたたちは、怒ったときの私からは、逃げられないんだ」
―――脅しは、十分だったよ。
だって、脅しでもなくて事実の宣告なのだから。
ミアはビビアナを守るためなら、何だってする。
単純なハナシだよ、死にたくなければ彼女の怒りを買わないように生きればいい……。
「……素直に、立ち去ってくれたか。ありがたいよ。これで、私が死ねば、あのときの間違いを清算してもらえるかな、リトル・ストラウス?」




