第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その三百九十九
―――フリジア・ノーベルは、レナスとリュドミナにとっても特別な存在だよ。
同じ『カール・メアー』でありながら、『カール・メアー』を裏切った者だ。
それでいて、レナスに至っては憎み切れない相手だね。
どうして、そんな考えになってしまったのか……。
―――見捨てることが、なかったからかもしれない。
それは確かに大きいかもね、レナスに寄り添おうとしてくれたから。
そばにいてあげようとする行いは、孤独な者にこそ強く響いてしまうものだよ。
でも、それだけだったのかな……。
―――フリジアは、『カール・メアー』が背負うはずの葛藤を誰よりも強く生き抜いた。
それにこそ、このふたりは惹かれているのかもしれない。
表面上では迷いなんて見せなかったはずなのに、心の奥底ではそうじゃなかったのも。
誰だって立場に縛られるものだし、自ら縛り付けることだってあるのだから……。
「巫女はひとり、思い悩む。目の前にいる者は、愛されていた。自分には愛してくれる親はひとりだっていない。親の数え方を知らない哀れな者であっても、三つの指を折り曲げる。母親から愛されて、父親から愛されて、叔父からもちゃんと愛されている。誰もが命がけで、愛しているのだ。どの親からも、愛されなかった巫女は、その場所に立ち尽くす」
「怒りもなければ、嫉妬もなかった。どうしてなのかは、自分でさえも分からない。賢くはない巫女には、遠ざけていた記憶があった。親の記憶を持つ孤児たちにさえ、強い嫉妬を抱いたものだ。それは、とても醜い嫉妬だったとしても。止められるものではない。自分にはいない者を、持っているのだから」
「幼い声は、女神に祈る。女神さま、女神さま。私に、親の記憶をくださいませ。どちらの親の記憶もくださいとはいいません。どちらか、片方だけでもいいのです。できれば、お母さんの記憶を。私には、それが必要な気がするのです。やさしくなるために。慈悲の女神の、信徒であるために。親から愛されてもいなかった私は、ちゃんとやさしくなれるでしょうか?」
「切ない願いは、静かに響く。聖なる堂の、空虚な風に。涙が床に落ちていき、すすり泣く声は星に隠れた。いつもいつも。長い時を繰り返す。それを見つめていた者がふたり。男でも女でもなくなった者、詠唱の長として生きた者。女神は願いを、叶えてみせた。ふたつの親は与えてくれないが、彼女はちゃんとやさしくなれた」
「痛みは多くを学ばせる。悲しい者に、出会ったからだ。巫女は愛された者に出会った。両親に愛されて、女神に愛され、歌からも愛された者。多くの愛を、与えられていたのに。それでも、とほうもない不幸も刻み付けられた。それは、悲しい痛みに、心も体も引き裂かれた者だ。未熟な巫女の心は、かつて一度、それを拒絶してしまった」
「大きな大きな痛みは、心の深くに引っ掛かる。忘れてしまいたくなるほどの痛みから、逃げた彼女は理解する。自分はやさしくなどなれなかった、親からも愛されなかった者は、慈悲の心なんてやっぱり宿せない。自らの心が、とても醜く思えてしまったから。巫女は記憶に鍵をかける。心の箱の奥底に、こっそりと閉まって、忘れるにかかった」
「女神の痛みは、苦しいけれど。聖なる路を、照らしてくれる。赤く燃える痛みの血は、赤い翼のかがやきになって。心の奥底に、働きかける。親のように、それは見守った。その痛みから逃げるほど。巫女はやさしさを育てていける。やさしさは、逃げ道を与えることでも育つものだ。逃げ道を求めている者にこそ、真なる慈悲が与えられずに何とする」
「愛する親から引きちぎられた、悲しい歌い手は。女神からの使徒でもあった。巫女は心をはぐくんだ。彼女ほど、親の愛に飢えた者はいない。親を知らずとも、女神の慈悲を授けられ注がれた者はいない。真なる慈悲の体現者、逃げることの痛みを知った弱き者。星は巡って、海のとなり。巫女は愛しい者を見た」
「三つの親に愛される乙女が、一つの親もいない巫女に守られる。嫉妬はもはや、どこにもない。痛みがくれた、やさしい道。その果てにある今ここで、やさしき願いは紡がれる。あらゆる掟を裏切って、自らのたどり着いた真実を選ぼう。剣になって、盾になる。とても大切に育てられた、愛を注がれた者を守るのだ。聖なる巫女は、女神の真理にたどり着く」
―――レナスは、もう認めるしかなかったんだ。
痛みは固有の感覚で、誰かと完璧な共有を果たすことは出来ないものなのに。
フリジアの抱えた痛みを、誰よりも強く分かってやれたよ。
だって、今のレナスも女神にケンカを売ったあとだから……。
―――この悟りに至るには、すこしばかり親子ケンカが必要かもね。
分かりやすいやさしさを、『カール・メアー』の女神は与えてはくれないのだから。
レナスとフリジアに背負わせた運命は、巡り巡ることで大きな実りに至れたけれど。
それが単純な道だったとは、とてもじゃないけれど言えないものだ……。
―――痛みと苦しみが、この慈悲を本当の意味で紡ぎあげたとするのなら。
ふたりの背負わされた運命は、やっぱり大きな意義がある。
女神さまのすることは、ヒトには計りかねるところがあった。
おかげで、ボクたちは救われる……。
―――ボクたちを破滅させるための力を、女神たちの剣をレナスは有しているけれど。
それがビビアナを傷つけるはずがないことは、理解できたから。
どんな使い方をするのかまでは、知れなくても。
フリジアの悲しむ使い方を、レナスが絶対にするはずがなかった……。




