第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その三百九十七
「あるところに。やさしい兄と弟がいた。きびしいけれど、家族想いな父親のもとで。勤勉であることと、家業についての知識を学ぶ。ひたいに流れる汗は、星みたいにきらめいて。働くことで鍛えられていく腕を、誇りに思って見せ合った」
「海の見える、古い街並みで。やさしい砂浜で、家族と遊ぶ。照らしてくれる太陽は、とても温かく。遊び疲れたときの海は、おだやかで涼やかだ。白い砂浜。青い海。空は晴れて、夏だった。歴史は、それを許さないけれど。家業はそれを認めないけれど。兄の方は、とてもやさしい夢を見る。どんな子供たちでも、この海で遊んでいいと」
―――歌の天才は、オペラの才も持ち合わせている。
あらゆるリズムで、あらゆる言葉を歌に仕立てられる者がいる。
レナス・アップルも、当然のようにその才能を生まれ持たされていた。
合わないリズムは、無音の拍でまたたく間に調和させるのさ……。
「勤勉な兄と弟は、やがて大切な者の手を取った。弟は同じ種族の妻を娶り、兄は奴隷であるエルフの手を取った。ちがう種族であったとしても、まして奴隷として商品にしようとした過去があったとしても。その愛は、本当のものだった。偽りがなくて、正しい。遠い子供のときに夢見た海で、白い砂の上。星のまたたく夜のなか、やさしく永遠の愛を誓う」
「誰かにとって、許されない愛であったとしても、そのふたりには関係がない。あらゆる愛が、罪を問うことはなく。死よりも厳粛な、赦しのもとで。世界に逆らい、愛し合う。どんな未来が待っていたとしても、ふたりで生きて、幸せになると。弟は裏切られたとは、思わない。捨てられたとも思わない。兄に代わって、背負ってみよう」
―――声を、変えたよ。
力強い男の声に、歌声の六大属性を使い切れる『今』のレナスなら。
その身ひとつでも、さまざまな願いと感情を込めた歌を放てた。
異なる声になって、レナスは運命を奏でていくよ……。
「自分に与えた試練に打ち勝てば、強さを得られると。弟は信じていたのだから。妻も支えてくれる。兄が、きびしい愛に挑むのなら。それを応援するために、ここに残ろう。伝統と家業を継いで。兄が自由であるために、自らが、がんばればいいのだから。たとえ、世界が許さなくても。兄たちのことを、応援してやればいい」
「それは、苦しい道だった。矛盾をはらんでいるのだから。亜人種にきびしくあたりながら、亜人種と愛し合う兄と、その妻であるエルフを守ろうとするなんて。奴隷を悪人たちに売り払う、邪悪な『人買い』であるのに。そのくせ、罪深いまでにやさしい。矛盾を抱えて生きながら、強く賢くあろうと、耐え抜くことにした」
「険しい路の歴程は、何度も何度も問いかける。その愛に、偽りはないだろうか。そのいびつな信念は、どうすれば守られる。愛しい妻は、とても賢くて。ユーモアをしっかりと心得る。猫の仮面をかぶって、ジルバを踊りましょう。苦しいだけが、人生ではないのだから。猫のように、ときには無責任に。にこりと笑い、ただ遊ぶのよ」
―――声は代わり、女の声だ。
若くて賢い細君は、悩める弟の苦悩のしわをやさしい笑顔でなぞったのかも。
レナスは歌いながらも、身振りも手振りも使っていくよ。
これまでしたことなかったけれど、歌は全身で奏でるものと心得ていたのさ……。
「険しさの雨が、うがつ路。それでも、踊る脚が助けてくれた。許しの愛は、教えてくれる。完璧なものなどないのだと。表と裏を、使い分けて。この運命のなかで、しっかりと楽しく生きればいいのと。罪深くたって、いいじゃない。誰しも、穢れなく生きるのなんて、とても無理。神さまたちも、見逃してくれる。こっそり、賢く。楽しめばいいの」
「運命はかたくなだけど、人生は柔軟でもいい。猫のような、子供の無邪気なステップで。お天気のように、変わればいい。猫の瞳の気まぐれな、それでいて、いつもやわらかく楽しい時間を目指しましょう。あなたの往く路が、おどろくほどに過酷であったとしても。そばには、賢い私の愛がある。仮面をかぶり、苦楽を共に。真実の愛は、いつもいっしょ」
―――リュドミナも、笑顔だよ。
歌を楽しむだけの時間であり、罪も罰も『今』は問わない。
悲しみも喜びも、すべてはやさしい歌のための生贄。
芸術の与えてくれる、残酷な無邪気のなかでふたりは並び立つ……。
―――レナスは、リュドミナをしっかりと理解していたから。
目配せで、誘ってあげるんだよ。
遊びは、ひとりでするよりも。
多くの仲間でする方が、ずっと楽しいじゃないか……。
―――とくに、愛している者となら。
どんなに過酷な人生だって、楽しく遊べるように過ごせるかも。
こうして、歌の天才がまたひとり。
人生の終焉の遊びに、参加していく……。
「愛の時間は、過ぎていき。それは多くの喜びと、知識の明るさを弟にあたえてくれる。世界は、あらゆる掟で縛られて。窮屈な居心地の良さの沼のなか。その身についた土の味を、知ることだって忘れさせる。賢明な双眸で、その意味を見抜きましょう。苦しむことは、この痛みには、大きな価値があるのではないかしら」
―――最高の歌い手のひとりは、『今』のレナスに追随することを許される。
肉体がないことの、メリットかもしれないね。
レナスに勝てない才能も、『今』ならば技巧と知識と心の力で埋められた。
ふたりでひとつさ、この最後の歌はそれが相応しい……。
―――これは、最後の歌だから。
女神たちの力を授けられた者の、やさしい歌の物語。
ひとりぼっちで、歌うことはない。
『今』は、歌いたいことを歌えばいいんだ……。




