第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その三百九十六
―――苦悩は多い、痛みの記憶ばかりがあるわけじゃないけれど。
ヒトの人生にとって、それはつきものだからね。
とくにレナスは多かった、生きていることから解放された『今』になってようやく。
その痛みに縛られることを、やめつつあるよ……。
―――リュドミナといっしょに、歌と音楽のことだけを考える。
芸術はいつも世の中の主流と、反りが合わないところもあった。
世の中においては、宗教とか政治があたえてくれる『正義』に誰もが応えるものだ。
正しいことのために、人生を使うのが普通のことだからね……。
―――王さまのあたえてくれた『正義』に、みんなで命がけだ。
朝から晩まで、一生ね。
そうすることで王さまから守ってもらえるし、周りからも評価される。
芸術家は、正直なところ非生産的でも許してもらえる立場だ……。
―――まともな分野の裏側ぐらいに潜む、ちょっとヘンテコなものなんだよ。
だからこその自由も、あるんだ。
野良猫や渡り鳥のように、誰からも自分からも縛られない。
過去の痛みだってね、芸術家にとっては仕事道具になる……。
―――不謹慎なことでもあり、当然ながら正しくもない。
ボクたちは非生産的に、自分の求める行いをする。
『正義』とはいつも真逆にある、『真実』を目指してね。
世の中の役に立つかは目指してはおらず、そもそも個人的な救済が主だったりする……。
「……『今』は、歌のことだけを考えられます。女神イースからも、お許しをいただけた。そうだ……それは、こういう意味もあったんだと思います」
「ええ。あなたの思う通りに、してみていいのよ」
「……たくさん、悪いことを、してしまいましたが……」
「死の慈悲は、現世でのあらゆる罪を許してくれます。あなたも、私も。もう死んでいるのですから」
―――死があらゆる終わりではないと、『今』のふたりは体現者だろうけど。
ボクは生前のこのふたりの罪については、もうとやかくは言わない。
許せない者もいるだろうけれど、けっきょくは違う『正義』を求めただけ。
死んでしまった強敵ぐらいは、許してあげるの戦士の礼節だろうからね……。
「たくさんの、種族の声を、使おうと思うんです。『カール・メアー』では、きっと、許されなかったことですが」
「私は許しますよ。女神イースが、していいとおっしゃられていますし。仮に、罰を受けたとしても、怖くはありません。死者の、良いところですね」
「……はい。それに、芸術の良いところかも。規範からの逸脱も、わずかばかりなら許される……正しさも、罰せられることも、『今』は……問いません。楽しいことを、したいと思うんです」
「それで、いいの。やってごらんなさい。あらゆる種族の声を、使ってみるの。『狭間』の声も。種族的な特徴の、揺らぎであり境界の声……あなたは、何だってやれるの。誰よりも、多くの感情をその身に刻み付けてきたから」
「……はい。リュドミナさま。たくさんの声を、聴きました。誰もが、苦しみと……そして、喜びも、持っていたんです。私は……誰よりも多くの、貴重な記憶と触れあってきました。あなたの導きの、おかげです」
「あなたのお師匠さまのひとりになれて、とても幸せでしたよ。さあ、あなたの記憶を、受け止めてあげて」
―――泣きそうになるレナスを、抱きしめてあげた。
ボクたちと異なる『正義』の人々は、『正義』を捨てられるとただの芸術家だ。
『悪』を受け止めることさえ、許される。
亜人種や『狭間』たちを、想うなんてこともね……。
―――『カール・メアー』だとか、帝国側の『正義』のなかでは。
それは許されない悪事のひとつだよ、抹殺しようとしている敵を気に掛けるなんてね。
生きることは、ちょっと不自由なことでもある。
『正義』にしたがう義務がある、こんなマジメなふたりならばとくに……。
「か、かわいそうだと……思いました」
「そうね。幸せになれない者たちが、多かった」
「もっと、違う道もあるのではないかと……」
「あったかもしれない。でも、いずれの道にも傷みは伴うもの」
「……私たちは、正しかったのでしょうか」
「あなたは正しかった。正しいと信じたことに、命を捧げられるのは善人だけ」
「で、でも……」
「うん。誰一人だって、犠牲にしなくていい時代であれば、良かったのにね」
―――そんなに世界は、甘くはない。
『正義』が価値を持つためにも、たくさんの犠牲は必要とされる。
正しさを作り上げることは、間違いなく代償が伴うから。
歴史書は教えてくれるよ、いかなる『正義』の名においても血は流れた……。
―――マジメな生者は、それの囚われだよ。
ボクたちのように、自分の信じる『正義』のために敵を作って殺しまくる。
千年前も、千年後も変わらないヒトの本質的な行いかもしれない。
でも、芸術というのはそれから逸脱していい『真実』の追求だ……。
―――現実を、すべて否定しようじゃないか。
創作活動の、最も楽しいことを始めていこう。
現実も『正義』も殺して、とんでもない『真実』を空想する。
この世にありふれていない、それでいて『正義』よりも正しいと信じられるもの……。
「すべての声で、歌ってみていいの。悲しいのであれば、悲しみも。誰かのために、嘆くことも。あなた自身の痛みも。痛みと、それが生み出してしまう怒りだって。すべては、あなたの歌のための力になってくれる。誰よりも、やさしいレナスに戻っていいのよ。無邪気な子供のときみたいに。壊され、穢されて。生きることの痛みと、聖務の苦しみに押しつぶされた心にも、囚われることはありません。正義のための時間は終わり。無責任な悪霊と罵られたって、気にしなくていい。『今』はすべてが終わった、その先だから」
―――寛大な死の赦しのなかで、レナスはようやくやさしくなれた。
憎むべきはずの亜人種にさえも、同情していいんだからね。
自分のしてきた聖なる仕事も、今は残酷な暴力だと認めてもいい。
すべての仮面を取っ払って、やさしい歌を始めよう……。




