第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その三百七十二
―――時間と空間と、可能性の束縛もない究極の夢の世界。
女神イースは現実に対して、この世界のなかで抗い続ける。
殉教して彼女に力を与えてくれた子供たちを、次から次に。
霧散していきそうな残滓をやさしく抱き寄せて、自らの力を注いでいく……。
『どんな世界を、夢見たのか?』
―――たくさんの子供たちの欠片に、問いかけていく。
子供たちの記憶と情報で、補いながら。
壊れてしまった欠片みたいな魂の残骸でも、問題はない。
女神イースの力を注がれたら、ゆっくりと姿かたちを取り戻していく……。
―――世界を創る使命は、いくつもあった。
飲んだくれの父親に虐待されていた、マリオ・デニロア。
『カール・メアー』が保護したとき、彼は背中をナイフで刺されていた。
刺したのは父親で、恐ろしいことにこの男は悪気がなかったと主張する……。
―――レナスは怒りに震える筆跡で、遺しているよ。
マリオの父親は、自分に悪霊が憑りついたのだと言い張ったらしい。
薬草医たちの診察記録によれば、その男は重度のアルコール中毒だ。
妄想や幻覚に囚われながらも、足しげく賭博場に千鳥足で向かう……。
―――カード賭博で、『大損した』らしい。
レナスの注釈によれば、ビール三杯程度の金額らしいから大損とは言い難い。
この男は、自分がしでかしたことの責任から逃れるために言い訳を探していた。
悪霊ではなく、ただの堕落に憑りつかれていただけのこと……。
―――『カール・メアー』が関わる教会に、刺されたマリオを隣人が運び込んだ。
何を考えていたのか、ナイフは急所である腎臓を突き刺していた。
いや、刺すだけじゃなく背中からあふれるようにそれが飛び出している。
レナスは戦場用の応急処置で、救命を試みた……。
―――ちいさな体から、あふれた腎臓を押し込みながら。
必死に縫い合わせていく、それは地獄のような光景だったはず。
レナスはやり遂げた、それこそ女神イースの加護でもあったのかもしれない。
マリオはどうにか生き延びるが、レナスには成すべきことがあった……。
―――異端審問官という職業は、何も軍隊や戦地ばかりを相手するわけじゃない。
『カール・メアー』の教義における、『規律』や『正常』。
それから逸脱したものすべてが、裁くべき対象だった。
女神の聖典で、異端としたあらゆるものがね……。
―――『人間族ではない亜人種』も、その教義から逸脱した存在だ。
それ以外にも、殺人や盗みや詐欺などの犯罪はもちろん。
異形の魔物たちも、『カール・メアー』の異端審問官が倒すべき異端とされる。
うつくしくて清純な、聖典が示す秩序から反すればすべてが敵だ……。
―――では、息子を刺し殺しかけた父親はどう判断すべきか?
もちろん異端そのものだから、レナスは尋問室に閉じ込めた男に言った。
「尋問を始める。嘘をつけば、その時点で異端者と認定される」。
「心して、真実のみを語るがいい」……。
―――「酔っぱらっていたから、つい」。
「いや、あれは悪魔のせいなんですよ」。
「殺したいわけじゃない。飲むと、いや、夜になると頭がおかしくなるだけだ」。
「悪魔の妄想に憑りつかれちまうから、それを紛らわすために酒を飲んでる」……。
―――『カール・メアー』は、その主張に対しての明確な答えを持っていた。
「女神の与えたヒトの魂を、狂わせてしまうことは罪深い冒涜だ」。
正しさから逸脱した瞬間に、悪へと堕ちる。
過度な飲酒であろうとも、突発的な狂気であろうとも関係ない……。
―――正しさから逸脱した男には、厳罰が下される。
その田舎町の領主と協議した結果、斬首による死刑となった。
レナスがその剣を振る役目を担い、「オレは悪くねえ!」た叫ぶ男を始末する。
余罪の多い男だから、レナスの判断は正しいよ……。
―――領主はマリオの父親について、多くの悪い噂を把握済みだった。
「一昨年の秋のことだ。マリオの母親。つまりヤツの妻が死んだ」。
「井戸に落ちた。引き上げたときには、もう何日か経っていた」。
「酒浸りのヤツは、何日か家を空けていたといったわけだがね」……。
―――「あれは、大嘘じゃないかと私は考えているんだよ」。
「証言があったのさ。賭場に現れたヤツは珍しく大金を持っていた」。
「だが。ヤツみたいな男は金を持たせると舞い上がる」。
「腕のいいギャンブラーからすれば、いいカモだってわけさ」……。
―――「当然のように、大いに負けちまったのさ」。
「怒鳴り散らして、暴れてね」。
「そのまま、さっさと家に戻ったらしい」。
「酒飲みの言葉を信じちゃいないが、ヤツより賭場の連中の方が正気なのは確実だ」……。
―――「その金の出どころは、おそらくヤツの妻のもの」。
「父親が亡くなって、その遺産の一部を相続したというハナシだ」。
「私の推理では、ヤツがそれを黙って持ち出して博打に使ってしまった」。
「それを妻に咎められて、切れちまったんじゃないかと」……。
―――「病の風に襲われて、足もと取られて井戸に落ちる」。
「27才の細身の女性にしては、珍しい死因だ」。
「ヤツは怪しかったが、マリオは父親の証言を事実だと言い張った」。
「あわれな子供だよ。母親を殺した父親が怖くて、従うしかなかったのさ」……。
―――「物証が出れば、良かったが」。
「出なかったものでね。しょうがないから、事故という形になった」。
「まあ、真実は分からんところだよ」。
「飲んだくれで妻子を殴る男は、周りの心も殴って壊してしまう」……。
―――「彼女は自殺したのかもしれない。それはそれで、不幸だ」。
「そう。貴方のところの教義に反する」。
「何にせよ、終わったハナシだ。ヤツも、これで終わる」。
「静かになるよ。ああ、あの子のことは任せておけ。悪いようにはせん」……。
―――レナスとマリオには、短くて濃密な交流があったようだ。
父親に殺されかけたっところを救い、父親を異端者として処刑した。
意識を取り戻して、すべてを知ったマリオは女神イースに祈る。
「とうさんは、わるいひとだったんだ。でも、ぼくの、とうさんで……」……。
―――孤児院で暮らすようになったマリオだが、健康は取り戻せなかった。
ちいさな体は、腎臓を傷つけられたことで参ってしまっていたらしい。
一度は死を乗り越えたものの、体力はついに回復しなかった。
腎臓が完璧に壊されていたせいで、その体はゆっくりと弱って行くのみ……。
―――レナスは、聖堂でただひとり黙とうを捧げているマリオに訊いた。
誰のために、祈っているのか。
「わかりません。でも。とうさんと、かあさんのため、かも……」。
「しあわせなときもあったから。あのときを、いつもかんがえています」……。
―――青ざめた顔は、死相だった。
遠からず命を落とすマリオに、レナスは持ちかける。
「……はい。めがみさまが、ぼくをひつようとされるのなら」。
「まよいは、しません」……。
―――不幸につけ込んだわけじゃない、誰よりも不幸な人たちのひとりだからこそ。
共感することが、出来たというだけさ。
その土地での記録はないけれど、きっとレナスはマリオの死を。
聖なる歌と共に看取ったのだと、ボクは信じている……。




