第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その二百五十八
―――世界が変わるための閾値が、どれぐらいなのか。
女神イースもそれは知らないだろうし、全人類も当然ながら知りはしない。
それはおそらく数学的な計算よりも、決意の問題になるだろう。
ボクたちは世界が変えられると信じて、『カール・メアー』はそうじゃないだけ……。
「女神イースに、剣を向けたところで……勝てるはずがありません」
「リングマスターなら、やれますわ」
―――レイチェルと詠唱長リュドミナの戦いも、決着がつこうとしている。
レイチェルはソルジェとゼファーを送り出して、この戦いを単独でこなしていた。
勝敗は元から決まっている、猟兵に勝てる戦士なんていないからね。
ましてリュドミナは多くの力を、女神イースに捧げてもいる……。
「そろそろ、楽にしてあげましょう」
「役目は、果たしてはいますから。あとは、付き合って差し上げましょう。その戦士としての衝動を、少しは削ってあげます」
「聖職者らしいですわね。闘争を、戦士の罪科などと感じる」
「間違っても、いないでしょう。聖職者よりも、戦士の方が多くの血を流した。感情に任せて」
―――聖職者らしい潔癖さでもあり、独善でもある。
さらに言えば、リュドミナはあわれんでもいた。
戦士たちが行う、感情的な戦いを。
罪深く狂暴な行いで、己を表現するしかない者たちを……。
「あわれです。貴方たちの罪は、何にもつながらない」
「『カール・メアー』の犯した罪は、償われたと?」
「分かっているじゃないですか。さすがです。すべては、過程です。すべては、手段。私たちは感情ではなく、教えに従って手を血にも染めた。しかし、女神イースが再臨なされた今では、あらゆる巫女戦士たち苦悩のも迷いも報われたのです」
「神さまの『せい』にして、己の判断を問わないなんて、それは身勝手ではありませんか」
「違いますよ。身勝手ではない。ヒトは、自己の範囲でしか世の中を認識できないからこそ、間違えてしまうのです」
「間違えてこそ、学べるでしょう」
「間違いを許すなんて、それこそ身勝手だわ。だって、ヒトが死ぬのですよ。教義や女神が保証してくれない、ただの個人的な選択の果てに。それは、無責任だわ」
「より良い可能性を結実するには、挑戦のリスクもいるものです」
「芸術家という職業の方々は、どうにも規範を軽んじる」
「それを越えてこそ、見える真実がありますから」
「そんなものの、価値なんて……」
「ありますわ。真実こそが、正義さえも超越する。本当の美しさです」
―――詠唱長も芸術的な訓練は受けているけれど、あくまでも聖職者の技巧としてだ。
モラル/規範を越えてまで、美しさを追求することは理解しにくい。
芸術家と宗教家は、最終的には反発し合う職種なのかもしれない。
究極/美しい価値観の実践が、ヒトを幸せに導くと信じているのは同じだけれど……。
―――レイチェルの身体が、『諸刃の戦輪』の舞いを放ち。
リュドミナはそれらを受け切るように、徹していく。
常に押されているが、それでも解放感があるからだろうね。
リュドミナは全身を刻まれながらも、会話を楽しんでいる……。
「傲慢ですよ、芸術は意味を持てませんのに」
「意味はあった。貴方も、幸せにしたでしょう」
「……言い切るなんて、自信家なんですね」
「正しいからです。良き歌い手であれば、多くの幸せにも触れたはず」
「そう、ですね……」
「心に、浮かんでいる。それが、貴方にとっての芸術の意味です」
「……美しい歌声は、音楽は……私の場合は胃の腑に響く。お腹に、感じられた」
「音楽家には、多い感覚です」
「歌うのが、好きでした」
「奏でるのも、好きでしょう」
「もちろん。踊ることは、それなりでしたが……」
「武術にも、音楽があふれている」
「ええ。『カール・メアー』の尼僧武術の鍛練には、音も使いましたから。呼吸も、歩調も。リズムもテンポも……とくに、『私たち』は、そうだった」
「つまり、貴方と―――」
「―――もちろん、レナス・アップル。最高の歌い手。あの子の聖歌は、本当に……」
「女神復活のための道具、以上だったでしょう」
「以上、というのは不敬にあたります」
「それでも、真実でしょう。貴方が人生の終局に思い出せる歌声。それは、『最愛の芸術』なのですから。それが、一つの手段でしかないなんて、ありえない。愛して、いたんです」
「愛、ですか。そうですね。慈愛や、同胞への愛以外にも、あったかもしれません。あの子の歌は、本当に……ただただ、ヒトを幸せに導けたはずだった」
「それを、道具になど押し込めずに。自由に解き放ってあげれば良かったのです」
「無責任でしょうに。あの子は、レナスは……女神イースのために、生まれた子なのに」
「それ以外の道もあった。そして、その可能性は、貴方も幸せにしたでしょう。それほど愛せる歌声ならば、聴く者たちを幸福にした。女神イースの信徒も、そうでない者たちも」
「……でしょう、ね。あの子は、本当に豊かな才能だったから。でも。でもね、レイチェル・ミルラさん。あの子は、とても不幸で、歌を自ら封じてしまった―――」
「―――いいえ。芸術家は、芸術を捨てられない。可能性を信じてあげれば、それで、また動き出せる。何度でも、何度でも。あきらめきれないから」
―――彼女たちには、それぞれのパートナーがいた。
芸術の才能には乏しいけれど、『リングマスター/座長』となった夫。
彼は芸術をあきらめきれない、執念の男でもあった。
レナスは歌声にまつわる悲劇で、心折れてはいたが……。
「女神以外のためにも、歌わせてみれば良かったのです。背中を押してあげればいい」
「……それが、あの子に、どれだけ大きな痛みを与えると思うのですか?その才能のせいで、去勢され、犯され、家族を殺されたのに」
「過保護なエゴは、指導者には向きません。貴方は、信じて支えてあげるだけで、きっと彼女は歌えたでしょう」
「……言い切り、ますか」
「貴方も、その可能性を信じられるでしょう。見えるはず。あらゆる絶望にも、恥辱にも、苦悩にも……たとえ、命を奪われることがあったとしても、芸術は死なない。私は、夫からそれを学んでいます」
―――芸術家であるレイチェルには、芸術は神さまよりも正しくて絶対だ。
それを教えてくれた夫は、最愛のパートナーだよ。
多くの観客に、笑顔を与えてあげたいと願えた男だ。
人種も越えてね、政治的な理由じゃなくてただひたすらに芸術を求めた結果として……。
「美しいものは、真実を教える。サーカスの幻想も、美しい歌声も、同じですよ。レナス・アップルは、歌える。信じているでしょう、リュドミナ。芸術も宗教に負けないほど、ヒトの心をつなぎ合わせられると」
「そう、だと、しても……」
「音楽も、人種を、越えるのです」
「……それは、『カール・メアー』の否定ですよ……そんな歌、あの子が、歌えるわけないじゃない!!あの子は、あの子には、『カール・メアー』の教えが必要だったんだ!!どれだけの絶望か、痛みか、孤独だったか……それを、救ってみせたのは、『カール・メアー』の教えだ!!」




