第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その二百二十一
―――『蟲』の力を使う必要があった、そうでなければ詠唱長と戦うのは不可能だ。
『カール・メアー』武術の最高峰の一人であるリュドミナに、商人が敵うはずがない。
そんな当たり前の事実を、カニンガムも理解しているはずだった。
絶対に勝てないはずの相手に、挑むなんてこの悪人らしからぬ選択ではある……。
―――どうしてカニンガムが、そんな行動をしたのかをビビアナは理解している。
『させられているから』だよ、この暴走も含めてすべてはリュドミナの手のひらの上だ。
カニンガムの潰されかけていたプライドが求めていた、自分の名誉回復を。
最底辺から這い上がって来た自分を、取り戻したいのさ……。
―――名誉も財産もない、ただのちっぽけな孤児からのし上がってみせた。
それは偉大な功績であり、十分に価値のある結果だよ。
それなのに、尼僧に媚びへつらう羽目になった自分が許せない。
傲慢な強欲な男にとっては、誰かの支配下になることは耐えらなかった……。
―――全身に仕込ませていた『蟲』が、魔力をむさぼる。
カニンガムの両腕も太ももも、はち切れんばかりに筋肉を膨隆させた。
鋭い加速からの、殴りつけ。
原始的なまでに本能じみた、力尽くの主張である……。
―――もちろん、そんなものがリュドミナ・フェーレンに当たるはずもない。
大振り過ぎる打撃は、いともあっさりと回避されてしまう。
大きく避けることもなく、わずかに身を捻っただけだ。
矢のような速さだけはあった拳の強打は、詠唱長の残した影に触れただけ……。
―――カニンガムの目が血走り、見開かれていた。
感情の熱量に狂わされながらも、知性が失策を自覚する。
後悔もしてしまうが、もはや躊躇うことも許されない。
ただひたすらに攻め続けることしか、カニンガムに道はない……。
「あらあら。私に手を上げるなんて、女神イースの救済を拒むのですね。クリア・カニンガム」
―――ささやきながら、詠唱長の体はステップを刻む。
無音にして流れるようで、まるで音楽のように優雅だ。
速さではなくスムーズさによって組み上げられた、攻撃である。
カニンガムは背後を奪われてしまうが、巨大化した腕を背後に振り回した……。
「がああああああああああああああああ!!」
―――獣じみた叫びには、その裏拳の勢いは相応しい。
速さと威力に震えるフルスイングを放つことで、恐ろしい微笑を遠ざけられた。
細い地下通路の壁に、詠唱長の細い女の背中が密着する。
まるで追い詰められたかのように、『演技していた』んだよ……。
―――カニンガムは、チャンスだと思い込まされていた。
彼の人生において、逃げ場のないところに追い詰めた獲物を殴り倒した経験があるのかも。
『カール・メアー』の尼僧武術の特質を思い返すより、反射的に拳の速射を放つ。
何度も何度も殴りつけるが、リュドミナはそれらの強打のすべてをあっさり避けた……。
―――壁が打ちつけられていき、カニンガムの拳だけが痛めつけられる。
微笑むリュドミナが体術を使う、素晴らしい足払いだった。
稲妻みたいに速くて、しっかりと体重が乗せられている。
カニンガムはみじめに転ばされるが、四つ足の獣みたいに身を捻った……。
―――すぐさま起き上がろうとしたものの、リュドミナの前蹴りに顔を打たれる。
首の骨が軋みを上げて、強烈な激痛が走った。
止まることはない、すぐさま体勢を整え直すと襲い掛かる。
いや、今度はあっさりと飛び越えられてしまい顔から壁にぶつかっていた……。
「ぐふ、うう!?」
「かわいそうに、クリア・カニンガム。勢いをつけ過ぎていましたね。前歯が折れてしまったのではないですか?」
「き、さま……ッ」
「さあ。もっと、自分を貶めなさい。救いを失えばいい」
―――カニンガムは『蟲』に、さらなる魔力を注いでいく。
リュドミナをどうにかして、自分の『下』だと分からせてやりたいからだ。
だが、どれだけ筋力を強めたところでどうにもならない。
すべての攻撃は回避され、今度はナイフで斬りつけられる……。
「ぐはあああ!?ああ、あああ……て、手が。手があっ!?」
「右手が落ちてしまいましたね。貴方は、利き手まで失ってしまったわ。でも、それだけではありません。もっと、もっと。失うことになる」
「ひ、ぐあ、あああああ!?」
「右目にナイフを刺された。痛くて、暗くて。怖いでしょう」
―――リュドミナは圧倒的な強さで、カニンガムを脅した。
右目まで奪われたことで、この悪人は戦意を喪失していく。
当然だ、戦士ではなくただの悪人でしかない。
勇気は激痛と無力感の前に吹き消され、その場にうなだれてしまう……。
―――屈服した獣は、情けなくみじめな態度を示すものだよ。
うずくまり、リュドミナに許しを請う。
もはやプライドはなく、あるのは後悔と不安だけであった。
数十秒の沈黙の果てに、ようやくカニンガムは言葉を紡ぐ……。
「も、申し訳、ありません……リュドミナさま。わ、私は……私は、自分を、コントロール出来ませんでした。わ、私は……私を……ど、どうか、許してください」
「もちろん、許してさしあげます。でも、貴方は罪を償わなければなりません。女神イースが差し伸べていたはずの手を、自ら拒んだのですから」
「ど、どうすれば……許されるでしょうか……ッ。わ、私は、ゆ、許されたいのです。こ、これだけが、本心です……もう、もう……私には……あ、貴方しか、おりません」
「ええ。そうですね。私だけしか、許してあげられません。獣のように強欲で、邪悪な貴方を助けてあげられるのは」
―――女神の救済を、与えておいて。
それをカニンガムに、自ら放棄させた。
それがリュドミナの『洗脳』の完成になるのだと、ビビアナは見抜く。
信仰の拠り所さえ奪われた悪人は、今この瞬間にリュドミナの下僕になったのさ……。




