第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その百二十二
―――ブッチは強い意志を発揮して、背後を振り向いた。
手練れの暗殺者が放つ殺意のプレッシャーから逃れるのは、なかなか難しいんだけどね。
ブッチはやり遂げて、若い女暗殺者をにらみつける。
巨人族の男からすれば、あまりにも小さな人間族の女性……。
―――腕力勝負なら肉切包丁を扱いなれたブッチでも、十分に勝てる。
もちろん、腕力だけで勝てるほどプロフェッショナルの戦闘は甘いものじゃない。
ブッチもそれを本能的に悟っているから、一歩も動けないんだ。
この女暗殺者は意地悪で、自分の技術の高さに酔っている……。
「怖がってくださいね、肉屋のブッチ。私を見て、私を怖がって。そうすれば……貴方になら、分かってもらえるでしょう?」
「……何をだ、クソ女……ッ」
「肉の味が、変わるという事実をですよ」
「肉の、味……だと……っ」
―――肉については専門家だ、肉の味については誰よりも多くを語れる男だ。
だからこそ、女暗殺者の言葉の意味をすぐに察して吐き気を催せる。
あまりにも邪悪な意図だから、胃袋が踊ったんだ。
この女暗殺者は、『味わおうとしている』のさ……。
「……ど、どうしたと言うんだ、ブッチ……っ。何を、そんなに震えているんだ?」
「このクソ女は、に、肉を食う気なんだよっ」
「に、肉は……食べるものじゃないか……?」
「馬鹿言え!!……どんな肉でも、食べていいってわけじゃねえんだ」
―――少年はブッチの言葉に、何かしら神聖な生き物の肉を想像する。
トーリー・タイズンは、察しが良かった。
ブッチの恐怖心の意味を、ちゃんと理解したのさ。
だから、彼の胃袋も吐き気に踊る……。
「……ま、まさかっ。まさか、き、君は……っ。ぶ、ぶ、ブッチを……た、食べる気なのかい!?」
「え、えええ、えええええ!!?」
「……そうですよ。私の、『趣味』なんです」
「ヒトを食うなんざ、最大のタブーだろうがっ!!」
「あら。肉屋のブッチ。分かってもらえるはずですよ。生き物の抱いた感情は、血に乗って肉を駆け巡り、味を変えるという事実を」
「……そ、そうなの?」
「……まあ、あるぜ。生け簀の魚だって、不味くなるだろ?あれは、恐怖で、胃腸が壊れて、エサを食わなくなる。牛でも、豚でも、似たようなもんだ……っ」
「畜生どもでさえ、感情が肉の味を変えるんです。ヒトほど、大きな感情があれば?……もちろん、大きく変わるんですよ、ブッチ。肉の専門家の貴方でも、知らない貴重な『体験談』です」
―――女暗殺者は、その無表情な口もとを開き。
血のように赤い舌で、薄めの唇を舐めるんだ。
官能的なまでの美しさがあったはずだけれど、恐怖のせいで美は歪む。
ヒトではなく獣でもない、まるでカマキリのような印象だったのさ……。
「カニンガムさまに『調理してもらった肉』も、なかなかに美味ですが。私は、やはり。新鮮さを優先したいものです。ちゃんと、生きた恐怖が通った、温かな血と……殺して切り出したばかりの肉がいい。たとえ、老いて筋張っていても……生きた恐怖は口で踊る」
「……そ、そう簡単に……殺されてたまるかよ……ッ」
「あら。強気なんですね。私と戦うには、十年遅かったと思うんですが」
「ち、近づくんじゃねえ!!」
―――女暗殺者が、ゆっくりとした見せつける動きで近づいた。
三人は浴びせかける殺意のせいで逃げられない、体が一歩も動けないんだ。
女暗殺者は曲刀を引き抜いて、長く細い腕で一振りする。
風を斬り、その音を『肉』に聞かせるためだよ……。
―――それは一種の調理だったんだ、彼女は暗殺者以上のバケモノだ。
人肉食の禁忌の味に憑りつかれた、非常に厄介な捕食動物。
カニンガムのためだけじゃなく、己の食欲のためにも動く怪物。
昆虫のように冷たい、死の権化……。
「恐怖して、ください。絶望の味もいいのですが……それは、他の二人から、得るとしましょう」
「わ、私たちも、た、食べる気なのか……っ。ブッチを殺せば、助けるなどと……そもそもが嘘だったか……っ」
「た、たべ……たべられるのっ?こ、殺されて、た、たべられる……っ!?い、いやだよ、そ、そんなの、いやだぁ……っ」
「泣いてください。子供の肉が、ガチガチと鳴くのは……本当に、そそりますから。美味しく仕上がって。つまらない味のまま、食べられるなんて……もったいないでしょう」
―――よだれがあふれ、殺意が強まる。
押し寄せる邪悪な気配に、三人の身は竦んでしまう。
動けないし、死ぬことになるだろうが。
それでも、二人の男たちは父親だった……。
「し、死にたくないよおおおおおおおおおッッッ!!!」
―――『風』の結界に閉じ込められて、誰にも届かない悲鳴。
少年の上げたそれは、二人の記憶には響くんだ。
それぞれの子供たちを、少年の悲鳴は連想させる。
守ってあげたくなった、ただの父性だよ……。
―――記憶が与えた力が、二人の父親を動かした。
怖くても、殺気に押しつぶされそうでも動ける。
死ぬかもしれなくても、すべきことが選べた。
二人のいい父親たちが、邪悪な捕食者の前へと踏み込む……。
「逃げろ、クソガキっ!!」
「この女は、私たちが……ッ!!」
「ブッチさん、タイズンさんっ!!?」
「恐怖よりも、愛の方が……肉を美味しく飾ってくれる。鮮度のあるうちに、切り出すとしましょう!!」




