第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その百十三
―――ジャンの知識欲に対して、レイチェルは歓迎的な笑みで応える。
若者が成長していく様子を見守るのは、何とも楽しい瞬間ではあるのさ。
レイチェルは石像の一つに近寄ると、その踊り子の指でジャンの視線を誘う。
女性の裸像だったから、顔を赤らめてしまうのは彼らしい……。
「美しい裸体です。芸術としては正しいのですが、解剖学的な正しさには乏しいですね」
「そ、そう……かもしれません。な、何というか……そ、その……あの……」
「視線で探るときは、違和感を覚えた部分をしっかりと見つめるのがコツです。特定できないときは、少しだけ意識を広げてみるのも良いでしょう」
「……っ。は。はい……その……ぜ、全体的に……く、癖が……ない?ような?」
―――ジャンの答えにレイチェルは満足して、にんまりとする。
松明の灯りに照らされながら、踊り子の体を動かした。
石像とそっくりのポーズだよ、美貌の『人魚』はなまめかしい美を体現する。
ジャンは顔を赤くしてしまうけれど、自分の洞察を進められもした……。
「ひ、ヒトと……石像では、や、やっぱり、ぜんぜん、違うんですね……っ」
「そうです。この石像は、『理想的な美』を創り上げた芸術品に他なりません。しかし、あまりにも理想が過ぎる。ヒトの体が、このポーズを取ったときは、左右が非対象になってしまう……」
「り、理想的過ぎて……現実を、む、無視して作ったんでしょうか?」
「ええ。その通りですよ。『空想の世界にしかない美』を、かつて『古王朝』に生きた芸術家たちは目指したのです」
「そ、そうなんですね。こ、こういう石像とか、え、絵とかって……モデルになった方を、そのまま、そっくり真似しているものだと……お、思っていたんですが」
「写実的な芸術を追求するときには、それも正しいのです。大陸東岸……そう、ファリス帝国の前身であるファリス王国の芸術においては、モデル通りの姿を模造することが好まれた」
「て、帝国は、そ、そういう芸術を好んだんですね?」
「いいえ。かつては、そうだった。ファリス王国が帝国になったとき、芸術における美の定義も変わったのですよ」
「び、美の定義が変わった……?つ、つまり、そのまま、そっくりの姿かたちを真似る芸術じゃ、なくなった……んですね?」
「ええ。現実の姿よりも、美しく描かれたり……勇ましく描かれたり。まるで、『古王朝』がそうであったように、現実よりも理想を求めるような芸術を好むようになった」
「ど、どうして……?」
「プロパガンダに使うようになったからですよ。『政治的な宣伝』に、用いるようになったとき……現実に即した姿よりも、現実離れした勇ましい戦士を描いた方が、民衆への宣伝として有効だったからです」
―――芸術が持つ悲しい側面の一つに、プロパガンダに利用される点があった。
宗教画も偉大な王さまの絵も、それを見た民衆に畏敬の念を与えるために描く。
支配のための道具に他ならないんだよ、芸術は大昔からいつもその側面を持っていた。
民衆のための芸術というのもあるけれど、それより政治の道具の方が百倍は多い……。
「そ、そういうものなんですね。げ、芸術って……ちょ、ちょっと、怖いトコロもあるんですね?」
「支配のために使う政治の道具でもありますからね。怖がれるのは、正しい感性でしょう。でも、怖いだけではありません。民衆のための芸術というのも、ありますからね」
「……そ、そうですよね!レイチェルさんの……お、踊りとか、歌とか……が、楽器を弾いてるときは……怖くないですもん」
「ウフフ。ええ。戦のために、芸を披露する日もありますけれど。私は、そもそもサーカスのアーティストですから」
―――サーカスの芸術に、政治的な意図は少ないものだった。
完全にないとは、言わないよ。
支配者が民衆の不満を解消したり誤魔化したりするときにも、娯楽は使われるからね。
だが、多くの場合でサーカスの芸術は民衆を楽しませるだけのためにあった……。
「で、でも……何事にも、例外って、ありますよね……?」
「私と、私がいたサーカス団を創り上げた夫は、そういう質を帯びた芸術が好きだったのです」
「そ、それは、とっても、レイチェルさんらしいですもん!せ、政治の道具よりも……もっと、やさしくて、そ、その……お母さんみたいな、魅力が、あ、あるんだと思います」
「あら。嬉しい誉め言葉ですね。『私たち』の芸術が、『お母さんみたい』と呼ばれるなんて!」
―――レイチェルは心底嬉しそうに笑うんだ、『彼女たち』の理想には相応しい評価だから。
星の光る入り江で泣いていた男から、涙を奪い笑顔を与えた美。
『人魚』に理想の芸の姿を見たリングマスターは、政治の道具を目指さなかった。
誰もが楽しめるサーカスを創りたいと、笑顔を目指したんだよ……。
―――政治の道具であることが常な芸術とは、真逆の道ではあるよね。
レイチェルの夫であるリングマスターは、ソルジェと同じくらい変わっている。
その証拠に、彼のサーカス団は人種も問わなかった。
多くの人々が囚われてしまうものだけれど、彼は全く気にしちゃいなかったんだ……。
―――ボクも芸術家の一員だからね、芸術と政治がどれほど近しいものか知っている。
どれだけの美が、差別のせいで駆逐されてしまったことか。
悲しいけれど、芸術というものを保護してくれるのは政治や権力が多い。
政治や権力に歯向かうような芸術は、とても純粋だけど儚くもあるんだ……。
―――だからこそ、レイチェルが『パンジャール猟兵団』にやって来たのは。
必然だったのかもしれない、そうボクは考えている。
『彼女たち』の目指した理想と、真逆な芸術があったのだから。
帝国はプロパガンダとしての芸術だけを、求めていたんだからね……。
―――異なる理想が二つあれば、どうなるかなんて歴史がいくらでも教えてくれる。
なるべくして、なったんだよ。
『彼女たち』のサーカスを、帝国兵どもが襲って虐殺しただろう?
芸術と政治は、いつの時代も近しいものなんだ……。




