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忍者という職業はまだない  作者: 菜香野はる
序章:神隠し
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001:遁走の果てに

「いかん……、もう空が白んでいる……」


 朝日がその姿を現すにはまだ少しかかるという頃合い。

 濃い朝霧が立ち込める山中をその人物は足を引きずりながらさまよい歩いていた。

 まだ人の手の入らぬ山中には、おおよそ道などと呼べるものは存在せず、深い茂みをかき分けながら進んでいく。

 一体どのくらいの距離を歩いてきたのだろうか?

 もはや生気が感じられないほど消耗しきった身体は、いつ倒れ込んでもおかしくないほど大きく浮き沈みしている。

 さらには脇腹に添えられた左手。

 その指の隙間からは未だに鮮血がにじみ出ていた。


 人物の名は『才蔵』。

 全身を藍染の忍び装束に身を包んだ『忍』。現代風に言うなら『忍者』だ。

 

 とある任務に失敗した才蔵はこの山中を遁走している所だった。

 その様子からただの失敗ではないことは察しはつくが、返り討ちにあい深手を負った挙句、追っ手として猟犬までけしかけられるという手痛い大失態。

 忍者としての素質を疑うほどの失態ではあるが、才蔵自身の身体能力は極めて高く、今回の失敗は不幸な事故の連続によるものだった。

 簡単に表現するなら、運がなかった。ということである。

 

 されど失敗は失敗。忍者などという裏稼業を生業とする以上、失敗が死へと直結することは当然のこと。

 その世界で生き、死んでいった仲間はたくさんいた。

 才蔵も今さら恐怖や後悔の念などはなく、今の自身の状態をどこか他人事のように冷静に見据えていた。

 

 とうとう歩くことに限界を感じた才蔵は、その場で目立って大きく張り出した木の根へと身体と預けた。

 地面から大きく張り出した木の根は、そのうねりで身を寄せるにはちょうど良かった。


 溜め込んだ感情を吐き出すように大きなため息をひとつ落とす。

 息を吸い込むと脇腹の激しい痛みが蘇り、才蔵に人間としての感情を思い出させた。

 一時の休息が才蔵を『忍者』という役回りから引きはがし、『人間』へと引き戻す。


 わずかに冷静な思考を取り戻した才蔵は、周囲の状況もだんだんと理解できるようになってきた。

 だんだんと白んできた山腹は、濃い朝霧が雲海となって覆い、詳しい様相までは見知ることができない。

 ただ、そんな視界の効かない状況でも一つだけわかることがあった。


 (ここは……、いったい……、いずこの山か……?)


 悪いことにそれは、才蔵の見知らぬ土地であるということだった。

 似たような山林には違いないが、山々の並びも形も違う。

 職業柄、才蔵が近隣の地形を掌握していないなどということはありえない。 

 それがよもや帰る里の方角すらわからぬ状況だった。


 土地に覚えがないということには、才蔵もうすうす感づいていた。

 だがそれは、追っ手として放たれた猟犬から逃れるため、いつもよりも山奥へと進んだ故の一時的なものだと思っていた。

 ところがどうだ、こんなに見通しのきく場所に出たというのに、皆目見当もつかない土地に放り出された状態だ。


 (それに、お主はいったい、なんという木なのだ……?)


 才蔵が言う“お主”とは、身を預けていた木の根。──そこから天高く伸びる巨木の事だった。

 そもそもここに身を寄せたのはただの行きがかりではない。

 夜の闇の中、この巨木は月の光を受けて、さらに大きな影で森を覆うという、とりわけ目立つ存在だった。

 才蔵もその存在に気が付いた時には驚き戸惑った。

 この巨大さにも当然驚いたが、ここまで目立つ存在を自分が知りもしないということに驚いていた。

 ここが見知らぬ土地なのではと感づいたのもその瞬間からだ。

 なんの目印もない山中で、才蔵は引き寄せられるようにここへと向かっていた。


 樹齢500年は軽く超えているであろう見事な巨木。

 もたれかかっているその根のうねりの地上部分だけでも才蔵の身の丈を軽く超えている。

 幹の太さなど大人30人でようやく周囲を取り囲めるかという信じられない太さだ。

 

 ここまで巨大な木が生えているとなれば、人によって祭り上げられ、縄が掛けられたり、近くに社が建てられたりするはずだと才蔵は考えていた。

 人の手が加わった形跡があるならば、おもむいた人間の足跡が道となって繋がっているはずだった。

 知らない土地だとしても、道をたどれば人里へと下ることができると考えていた。

 ところが巨木の周辺には祭り奉るような様子はまったく見られない。

 

 ただただ巨大というだけで、そのたたずまいは周囲のただの木となんら変わりはない。

 遠近法で『近くにあるから大きく見えているだけ』なのではと錯覚するほど、ただの一本の木なのだ。

 

 残念ながらこの巨木からは人里を思わせる手がかりは得られなかった。

 それどころか、近づき、触れることで、その存在はさらに才蔵を混乱させた。


 枝ぶりも、葉の形も、表皮の質感も、どれも、覚えがない。

 まったくの未知の種類の樹木。

 少なくとも500年前からある、この巨木が、だ。

 才蔵はふたたび大きく息を吐いた。

 吐息と共に吐露されたのは紛れもなく『あきらめ』という感情。


 だんだんと白んでゆく景色の中、脇に生えた野草の葉を手に取ると、それもまた覚えのない植物だった。

 やや遠くに目をやれば、やはり覚えのない花のつぼみが、朝日が昇るのを待ちきれずに開こうとしている。

 気が付けば、あれもこれも、どれもそれも、あたり一面、知りえる植物はなにひとつも生えていない。


(ふふっ、これでは血止めの薬草すら探せぬな……)

 才蔵は自嘲気味に笑い、手の中の葉をピンッと弾き飛ばす。


 当初の才蔵の予定の通りであれば、当の昔に里へと帰りつき、キズの手当てを済まして、身体を休めているはずだった。

 一晩中山中を駆け回る結果となった今でも、人里に下りれば、まだなんとか生き延びる道もあっただろう。

 しかし現在、人里の手がかりすらなく、当座の薬も手に入らない状況へと陥った。

 喉の渇きを潤したくても、湧水を探して歩く体力すらない。 


(もしや、すでにここは冥府の一端なのではなかろうか?)


(しかし、死した身にしては傷が痛むな……。)


 非常にわずかな時間──、肺の中の空気を一回交換する間。才蔵は全てを諦め、ただただぼんやりと明けゆく空を眺めた。

 脇腹からの出血量は限界に近く、気を失わないよう強く保っていた意識もこの時ばかりは手放しとなっていた。

 


「──ッッ!!」


 そんな静寂を破ったのはとある気配。

 『忍者』として長年培ってきた危機探知能力が才蔵に意識を取り戻させた。


(なんとも執念深い──)


 深い山中の茂みをものともせず疾走する獣の足音。

 才蔵は痛む体を地面になげうち、冷たい土へしっかりと耳を付けた。


 ──忍術だ。


 地面から伝わる音や振動を拾い、敵の位置やその人数、移動速度、方向などを割り出す術。

 その姿だけなら誰でも真似できるだろう。しかし、ここから細かく正確な情報を引き出すには数多の経験が必要となる難しい術だ。


(……血の匂いを嗅ぎつけられたか?)


 忍者としての高い技量を持つ才蔵は、わずかな時間で分析を終え、身体を起こした。分析結果は予感と違わぬものだった。

 追っ手として仕向けられた獰猛な猟犬が、ここまで追いかけてき。

 数は変わらず二つ。

 こちらへとほぼ一直線に向かっている。

 才蔵にとっては、とうに撒いたはずの相手だった。


(……犬に食い散らかされて死ぬとは、なんとも、情けない)


 もはや生存など不可能であると先ほど『あきらめた』ばかりの才蔵ではあったが、やはりその死に様は選びたい。

 相手が犬であれば、木の上に身を隠してやりすごせる可能性も無くはない。

 少なくとも才蔵の想像するように無残に食い殺されることはなくなるだろう。

 才蔵は、もたれかかっている大樹を仰ぎ見やった。

 枝の一本一本がそこいらの木の幹の何倍も太く、生い茂る葉もまた一枚一枚が笠のように大きい。

 しもべのように数多の蔦をまとわせたたたずまいは、どのような災厄をも寄せ付けぬ重厚な雰囲気を漂わせている。


(あらためて見るに、なんとも信じがたい大きさ。普通の木ならいざ知れず、こんな身体で、果たして木登りなどできるだろうか?)

 

 才蔵がいままで登った木とは比べるべくもない巨大さ。比べるなら城の石垣のほうがまだ比較になるほどだ。

 それでも木には違いあるまいと、才蔵は絡みついた蔦を手に取って握りこみ、体重をかけてみた。

 この蔦もまた見知らぬ植物ではあったが、強度は才蔵の体重を支えるには十分なようだ。

 そもそも、ここまで巨大な幹を持つ樹木へと登るには、なんらかの足掛かりがなければ始まらない。蔦があるという小さな偶然に感謝しながら、才蔵は地面を蹴った。


 ──刹那、才蔵の体を異常な加速感が襲う。

 突風を吹きつけたかのように目が開けられなくなった。

 

 蔦の先を掴もうとしていた左の手は宙をさまよい、気が付いた時には枝の上へと投げ出され、ぶざまにも必死な形相でしがみついていた。


(──なんだ、何が起こった……?!)


 不可解すぎる現象に才蔵は激しく混乱していた。

 下を見れば地面ははるか下、先ほどまで寄りかかっていた根のうねりも見える。

 しかし、これだけの高さを登るとなれば、相当な時間と体力を有するはずだった。


(身体が軽い? 何故だ? いつから?)


 いくら才蔵が忍者としての才に秀でた身体能力を持っているとはいえ、こんなに高くジャンプできるわけがない。

 ならば、身体が風船のように軽くなったとしか考えられない。


(やはりここは冥府で、拙者は幽霊になっているのでは……?)


 才蔵の中でオカルトじみた答えが出そうになった時、茂みを走る猟犬の音が遠くに聞こえるようになってきた。

 もはや術を使わなくても、神経を集中させればその存在を感じる距離だ。

 才蔵は気持ちを切り替え、さらに高所へと身を隠すべく次の枝へと視線を向ける。


 視線を向けてみたはものの、足が出ない。

 そもそも木が巨大なため、枝と枝が異様に離れていて、枝から枝への跳躍が難しいのだ。


 そう、『今までの』才蔵では到底届かない距離。


(だが、先ほどの跳躍ができるのであれば──)


 さっきのような異常なジャンプ力があれば容易に飛び移ることができる。

 ただ、飛距離を見誤れば当然落下することになる。この高さからの落下ともなれば無事ではすむまい。


 才蔵は首を振って隣の枝を諦め、真上──。

 直線距離でははるかに遠い上空にある、真上の枝へとジャンプすることに決めた。

 真上なら落下しても最悪この枝の上で、地面まで落ちる可能性は低い。


 才蔵は意を決して、力強く枝を蹴った。


【 ハイパー ・ ジャンプ 】


 跳び上がる寸前、何か聞きなれない言葉が才蔵の脳内に響いた。

 瞬間、再び突風が吹き付ける。

 先ほどとは比べものにならない風の強さだ。

 

「くっ……!!」


 あまりの向かい風に目も耳もまともに機能しない。

 それでいながらも才蔵はすでに冷静に状況を把握していた。

 忍者としての才に恵まれた才蔵は、たった2度の経験で、この能力を理解し始めていた。


(本当に飛んでいる……。これではまるで、天狗ではないか……。)


 才蔵の体は目標としていた上空の枝をゆうに飛び越えていた。

 天狗の神通力を得たかのような錯覚。

 いや、これは錯覚なのだろうか?

 そんなことを考えながら目標の枝へと落下する。

 踏み出した時に聞こえた謎の言葉など、もうすでに頭になかった。

 風を切る音が偶然そのように聞こえたに過ぎないと気にも留めていなかった。


「──ぐうっ!」


 枝に着地すると、衝撃で脇腹が痛んだ。

 傷口は確かに痛んだが、着地した足はまったくなんともない。

 相当な高所からここへ降り立ったはずなのに、逆に全身で支えようと伸ばした手のひらの方がひりひりする。

 これは全身が風船のように軽くなったわけではなく、脚力が一時的に強化されたことを示していた。


「本当にこれは『天狗の神通力』だな……」


 才蔵は手のひらを払い、改めてその力に感嘆した。


(しかし、ここまで登れば、何とかごまかせよう……)


 高さ約30メートル、マンションなら10階ほどの高さだ。

 目線が周囲の木々を越えそうなほどの位置にいる。

 それでも、この巨木にとっては3分の1ほどの高さでしかなかった。


 周囲を見下ろすと、揺れる茂みが2本のすじとなって、猟犬が接近してくるのを知らせていた。

 もうすでに視認できる距離だ。

 その道のりはまっすぐで、的確に才蔵の臭いを追っているのがわかる。


(奴らは、ここの山林が普通ではないことに気付いているのだろうか? そもそも、ここがどこの山なのか知っているのだろうか?)


 この、どこともわからぬ山中で、淡々と自分の仕事を真っ当する猟犬に、才蔵は変な感心をしていた。


「ん……?」


 猟犬にばかり気を取られていたが、辺りを見渡すと、猟犬とは逆方向にもう一つ、小さくうごめく茂みがあった。

 それもどうやらこの木に近づいてきているようだ。

 茂みに隠れて、姿こそはっきりと視認できたわけではないが、かすかにガチャガチャとこすれる“道具”の音が聞こえてくる。

 つまり、そこにいるのは人間だ。


(なぜ気付かなかった? まさか、奴も忍びかか……)


 追っ手か、山賊か、はたまた同業者か、いずれにせよこんな場所でこんな時間に、真っ当な人間などいるはずがない。

 その接近を許してしまったことに、才蔵は背筋を凍らせた。


 だがそれも束の間、わずかに観察しただけで、どうやら危険な存在ではないということがわかった。


 のろのろとジグザグに移動している様から、山歩きに慣れていないのが見て取れたからだ。

 かなり近くにいたはずだが、こちらに気付いている様子もない。

 そのような者がなぜここにいるのかはわからないが、とにかく才蔵にとって脅威となる対象ではなさそうだった。

 才蔵の張りつめていた緊張は解けたが、その人物がこちらに向かっている以上、無関係とはいかない。


(しかし、このままでは猟犬と……)


 そう、このままでは猟犬とその人物がこの木の下で遭遇することになる。

 殺気立った猟犬との接触が、凄惨な結果を迎えることは火を見るよりも明らか。


 ただ、この場で唯一それを知る才蔵が動くことはなかった。


 このような山中に、不慣れな人間が一人など、自殺行為もいいところ。

 当然、何か訳があってのこととは思われたが、だからこそ、関わり合いになるのは危険であると考えた。


(奴が囮となってくれれば、上手く逃げおおせる可能性もあるか……)


 酷な様だが、才蔵にできることと言えば、自分が逃れるための策を講じることだけであった。




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