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開国

作者: 山本カモ

開国、という大仰なタイトルですが、史実に基づくわけでも時代小説というわけでもありません。気楽に読んでいただけたら幸いです。また、感想で駄目な点や分かりにくい点などをご指摘いただけたらとても嬉しく思います。


 陰鬱な様子で、どことなく倦怠感漂わせる雰囲気の男はダウンタウンを下っていく。港を目指して淡々と歩いていく。徐々に寂れていく街の景色に男は何も感じない。だんだんと強くなる潮の匂いにも男は何も感じない。ただ淡々と、ダウンタウンを南に下っていく。


 遥か北の山の向こうのそのまた向こうから来た男は活気ある街の視線を集めるにはあまりにも平凡だった。にも関わらず、男はあらゆる人の視線を集めた。昼前の仕込みに忙しいレストランのシェフ、ゆらゆらと街を散歩する老人、休日を楽しむ家族、昼休みを心待ちにするオフィスビル三階のサラリーマン。それこそあらゆる種類の人間の視線を集めた。何も男に特別な魅力があるわけではない。それを表すように目の前を通り過ぎた男の顔を誰も覚えていない。誰もその男に視線を奪われる理由などないはずなのだ。しかし、昼前の仕込みに忙しいレストランのシェフは塩と砂糖を間違え、ゆらゆらと街を散歩する老人は足を止め、休日を楽しむ家族からは笑顔が消え、オフィスビル三階のサラリーマンのキーボードを打つ手が止まる。


 ただその男の陰鬱な様子が、どことなく倦怠感漂わせる雰囲気が、街の人々にとって異質だったのかもしれない。街の人々はその男に興味を持ちつつも、誰もその男が何をするために港へとその歩を進めているのか、分からない。もちろん、男の方はそんな街の人々の奇異なものを見るときの不躾な視線など何事もないかのように淡々と歩いていく。事実、男は一切その歩を緩めることなく街を通り抜けた。


 男が歩いて行くその先には何があるのか、街の人はちらりと見るがありきたりな、いつも通りな港を目にとめると、何も見なかったかのような心境になる。ついには街の人々はそこに男など見なかったかのように、男が通りすぎていったばかりの場所にはただ微小な風が吹いただけであるかのように、それぞれの日常へと戻っていく。その男も日常へと戻っていくのか、それを否定するかのように男は淡々と歩いていく。



 街から遥か北の山間部に名前もない集落がぽつんとあった。外部との接触が物理的に断たれているため、その集落に生きる人人にとっての世界とはそこにあるものがすべてであった。独特すぎるほどの文化。彼らはその集落で生まれ、外部との交流の機会などあるはずもなく育ち、一生を終える。


 だが、転機とは突如として訪れるものである。誰も予期しなかった、できなかったからこそ転機なのである。すべてはこの集落から遥か南にあるという港町出身の自称冒険家の男がこの集落に迷い込んだことから始まった。その自称冒険家の男はこの集落に莫大な知識をもたらした。ここである疑問が生じる。彼らは互いに言葉を交わせたのか。偶然にも、その集落はあらゆる文化を他と異にしていたが言葉だけはその類ではなかった。多少の文法の違いや独特な固有名詞なども何とかなった。とにかく、集落の人々はその男の知識に驚いてばかりであった。この集落内で賢者として名高い男は自称冒険家の男と知識比べをしようとした。二人の知識は全く異なるものであったからお互いに驚きあった。二人とも互いを賢者であると認識した。しかし、自称冒険家の男の故郷の話になったときにバランスが崩れてしまった。そこまで賢者として対等に接していた二人の知識に差が明確に出たのである。『海』という概念だ。集落の賢者は視界いっぱいに広がる深青色の風景を思い描くことができなかった。その水が塩辛いということも理解の範疇を超えていた。この集落では塩とは岩塩を指し、人工的に水を塩辛くすることはできても、自然に塩辛いということはあり得なかったのである。さらに、水も小川を流れる川底の見える透明なものしか知らなかったのだ。その集落の賢者は無知を恥じた。罪の意識から恥じたのである。集落の賢者は何としてもその海とやらを見てみなくては気が済まない。賢者は自称冒険家の男が集落を去ってから海を見に行くことを決めた。賢者は少量の食物と、これまた少量の水を持って出かけた。この集落ができて以来の旅行者であろう、誰も何がどれだけ必要なのか分からないのである。集落の人々は男が海を見に行くと言っても何を言っていてどこに行くのか分からない、この集落の外には山と森と川しかないのに、と思っていた。しかし、集落の賢者はこの集落とその港町が山で隔てられているだけで同じ世界に存在するということも自称冒険家の男から聞いた。行くしかなかった。それゆえに、男は陰鬱な様子で、どことなく倦怠感漂わせる雰囲気だったのである。


 男は遂に波の音が聞こえるまでに海に近づいた。


 目の前に広がる海。

 青よりも、藍、いや、むしろ黒。

 綺麗だとも、恐ろしいとも思わず、男は涙していた。純粋な畏敬の念からであった。


 海、これが海。

 何と雄大なことだろう。これがすべて塩辛い水だというのか。これがかの男が生命の母と大層な名前をつけた海なのか。なるほど、懐かしい感じもする。しかし、なんだろう。この、知らなかったものを自身で確認したときの達成感のようなものは。


 男は一日中海の前から動かなかった。


 海は時間帯によってその表情を変える。その表情一つ一つに男は驚嘆し、一つ一つに涙していた。


 それから一カ月。男は海のそばで暮らし始めていた。男はやはりその間の変化一つ一つに涙した。


 数年がたち、男はとうとう自分の集落に帰ることを決めた。


 街の人々は数年ぶりに見た男の雰囲気に何も感じない。誰一人としてその男を見ない。男の方はというと、今度は逆にきょろきょろと落ち着きがなく街を見渡す。男は来た時よりもかなりの時間をかけて街を通り抜けた。


 山を越え、集落に入る。数年ぶりの集落はいかにも寂しそうだ。何人かの知り合いに会った男にある疑問が生じた。


 なぜ、この集落の人々はこうも感情を表に出さないのか。いかにもつまらない、退屈だと言った表情しか出さない。数年ぶりにあった友人にもつい先ほど会ったかのように接する。これは、どうしたことか。


 男はそわそわとした気分で集落を歩き回った。何かしらこの不安な気持ちにけりをつけるようなハプニングが転がっていないか。男は自分の故郷を捨てたいとはじめて思った。


 こんなにもつまらない、閉ざされた世界だったなんて。


 男は海の魅力を思い出していた。自分のいるべき場所はあそこだ。そうだ、今すぐにでも戻ろう。あそこは僕に感情を与えてくれた……。


 感情を与えてくれた?

 僕にはもともと感情が無かったのか。そうか、この集落はあまりにも閉ざされている。それゆえに感情が、元来育つはずの感情が育たないんだ。それで開けた場所に行くと、特に海のような場所がいいと思うが、感情が我先にと咲き誇るんだ。


 男は寂しくなった。この集落で唯一感情を保有した者として。それは都会の喧騒の中でふと感じる寂しさに似ている。男はどうにもここでは暮らしていけないと思った。


 男は心底がっかりとため息をつき街を目指して集落を出た。二度と戻らないだろうと決意を固めて。


 その後、この集落はどうなったのか。一度外部との交流を持てば、あとは交流が盛んになる一方だった。風船に針で穴をあけるように爆発的に人が流入して、そして流出した。集落の人々はその激流の中で徐々に感情というものを手に入れていった。


 それが彼らにとって幸せだったのか、あるいは不幸だったのかは誰にも分からない。


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