【リカオンの話】
これは、まだ現人神――ハブが狂う前。そもそもまだ、ハブが生まれもしていなかったころの話だ。
森どころか、世界ごと混乱と血の渦に呑まれる前の話。
そのころ、動物たちがする話といったら、ある口上を言ってから始めるのが洒落たふうだと思われていたから、どんな動物だって――それこそ、もし語る機会なんかがあれば、あの悪名高いジャガーだって! ――物語というものは、こう言ってから始めるものだとうそぶいたものだった。
今ではすっかり忘れられてしまったけれど、今夜は、そのころの話をするんだから、その習わしに従って話してみよう。
そうだよ、グル・ランプをつけて。つけたかは知っているね? そう、お願いって言うだけだ。
さあ、お聞き、可愛いリリ。
夜に半分、月が食べられてしまった日。その日は、オルティバルクの森では、狩りの一切が禁止される日で、肉を食べる動物もそうでない動物も、誰もがゆっくりと出来る日だった。
そんな日には――よく考えれば恐ろしいことに気が付くだろう? ――あのよそ者のジャガーの目の前を、どうどうと横切るシカまでいたんだ。
みんなその日はゆっくりと過ごす。普段は向かい合わない者同士が、ヒグマのハルバリーが転がしてきた大岩に集まることも、珍しくなかった。
色々な動物たちが集まれば、そこは自然とお喋りの場になる。お喋りの内容は、人間と大して変わらない。大抵は、そこにいない、他所に遠出している動物が知られたくないような話になる。
だって、本人が聞いていたら、怒ったり、呻いたりするような話が一番面白い話に決まっているから。狩りをする者も、しない者も、大勢が集まれば、それ相応の話をする。
その日はちょうど、とつぜん他所からやって来て、最近になってようやく森に馴染んできたリカオンの話になった。面白いことに、そのころの動物たちが洒落ていると思っていた口上も、そのリカオンの話がきっかけだった。
大岩の上に座り、誰か、せがまれた者が話をする。ちょうど、イノシシの子らから頼まれて、狼犬のエヴァンスが話し手に選ばれた。彼は森の長だったから、話し手に選ばれることは多かったんだ。
イノシシの子が狼犬に? そうだよ、今でもそうだけど、あの森に――オルティバルクの森にすむ動物は、ちゃんと決められたルールを守っているんだ。子供はいつも守られる。それが、言葉を話す動物なら、その動物の子は絶対に殺してはいけないんだ。乳が必要な歳なら、もちろんその母親も。たとえ、どんなに腹がすいていてもね。
いいや、このルールはエヴァンスが決めたものだ。他所の森でも、彼が長になる前のオルティバルクの森でも、子供は殺されないなんてルールはなかった。同種なら、あったけれど。言葉を話す動物ぜんぶ、だなんてことはなかった。
本当なら、子供は真っ先に狙われる。そうだよ、大抵の場所じゃそうだ。けれど、エヴァンスは狼犬で、小さなころは――これは、彼のコンプレックスでもあるけれど――人間に飼われていたから、人間たちのやり方を知っていたんだ。
人間たちは家畜をうまくやりくりしていて、子供は殺して食べなかった。効率が悪いからね。必要な時に、必要なだけ、老いたものから食べたんだ。
かしこいエヴァンスは、長になったとたんに、すまし顔でそのルールを決めた。勿論、狩りをする者からは異論が多く出たけれど、長は彼だ。彼がそれを勝ち取った後で、文句を言っても仕方がない。
最終的には、そのやり方は良かったんだ。狩られる動物たちは、安全に子育てが出来るからと森にすむし、数がへりすぎて、狩りをする者たちが飢えに苦しむことも減った。
それだから、森にいる、言葉を持つ動物の子は誰も彼を恐れない。イノシシの子からお話をせがまれる理由としては、十分だろう?
そんなこんなで、狼犬の彼が森の長になることには、それはそれでずいぶんと苦労があって、そのお話も魅力的だったけれど、狩りがお休みの日に彼が他所に出かけることは多くなかったから、エヴァンスの話はまた今度になったのさ。
彼は長として、もうしぶんない立派な灰色の毛皮を持っていた。それを震わせながら、彼は歌うように、こう言うんだ。
「聞きたいなら、言って聞かせてやろう。はぐれのリカオンが持ってきた、小さな火が燃え尽きるまでは!」
ねえ、ずいぶんと洒落た口上だろう?
【リカオンの話】
その日は、ずいぶんと冷える日だった。狼犬のエヴァンスは狩りが成功して満腹だったが、森一番の悪ガキ――子供という歳ではなかったけれど――のヒョウのアルトは、狙ったシカに見事逃げられ、不機嫌そうに唸っていた。
自慢のひげを揺らしながら、アルトは次の獲物もあきらめて、地面にごろごろと寝ころびながら、エヴァンスへの悪戯を考えていたんだ。
アルトは自分が狩りに成功しても、失敗しても、腹が満ちていれば腹ごなしに。飢えていれば腹いせに、見知った誰かにもっともらしい嘘のような――もちろん、はっきりした嘘はつかない――話を語り、自分勝手な遊びに巻き込むようなやつだった。
もちろん、かしこい者はアルトの話をいつも半分だけ聞き流すことを忘れない。けれど、かしこい者の中でもエヴァンスは、アルトが狩りに失敗した時は、そのほら話に付き合って遊んでやることも多かった。
その日も、ちょうどエヴァンスは腹が膨れていたし、アルトは狩りに失敗したから、エヴァンスが寛大な心を持つのは、別にむずかしいことじゃなかった。
まるで人間に飼われている猫のように! ごろごろと地面に転がり、見事な斑紋を土で汚すアルトを、綺麗な灰色の尾で掃いてやりながら、馬鹿みたいな話を辛抱強く聞いてやったんだ。うんうん、と。優しくね。
「それで、アルト。お前はいろんな話を知っているからな。俺にも、お前が次に何を話すのかは測りがたいよ」
「ああ、兄弟! そうだよ、俺はようく知ってるんだ。この森を南に行って、もっともっと南に行って、海を――越えたか、越えないかの遠いところでは、振るだけで燃える小枝があるって話なんだ! それで、その燃える枝はあるけだものがくわえて歩いていて、そいつは森のもうすぐそこまで来ているらしい!」
得意げにアルトが語ることを聞けば、ああ、誰だってわかるだろう。それがどんなに滑稽な話か。けれど、エヴァンスは優しくそれを聞いてやっただけじゃなく、くすっと笑って、では、見に行ってみようかと提案したんだ。
「森に近いなら、ぜひ見てみたい。いつでも燃える小枝なんて、素敵なものだ」
「ああ、ああ、そりゃエヴァンス、アンタならそうだろうさ。火のそばで寝られるのは、この森じゃアンタと、あの――いまいましい! ギリードールくらいのものさ! 奴はやせ我慢だろうけどな!」
がばりと起き上がり、アルトは斑紋が膨れ上がるほど息を吸って身震いした。長い尾を神経質に揺らしながら、金色の目を心底嫌そうに細める。
ジャガーのギリードールは、少し前にエヴァンスと互いを殺す寸前まで争って敗北し、それからこの森にすみついたよそ者だった。
どこからともなく現れたこの獣は、本当ならもっとずっと遠くに。それこそ、アルトのほら話のように、海を越えた向こうにすんでいるはずの獣だったが、何故か今はこの土地にいて、そしてこの森でエヴァンスに負けるまでは、あちらこちらの森で意味のない殺戮を繰り返していた、とんでもないジャガーだった。
大きさも、これはエヴァンスたちは知らないが、ふつうのジャガーよりも二回りは大きくて、腕っぷしも強ければ頭も良かった。それに、とても残忍で、狡猾で、そう、アルトに語らせたらあと十は思いつく限りの、良くない表現を並べただろう。
「あしはまだ痛む?」
「そりゃあね。すぐによくなることはないさ。アンタたちとは違うんだよ、俺はただのヒョウだ、悲しいことにね、ただのヒョウなんだよ。アンタや――くそっ、いまいましい! ギリードールみたいに〝魔力〟なんてもんはもっちゃいないから!」
駄々っ子のようにわめくアルトに、エヴァンスはもうしわけなさそうに耳を伏せる。そう、エヴァンスは特別だった。動物にだって、人間と同じように、たまにはすごいのが生まれるんだ。それは大抵、永遠の若さと不思議な力を持っている。
「死なないから、あんなことができるんだ。何日も戦い続けるなんて、どうかしてる。信じてはいたけど、俺たちがどれだけ不安に思ったかなんて、わからないだろう?」
「ごめんよ。ねぇ、でも、アルト」
「……」
「兄弟、頼むよ。お願いだ。彼はこの森では殺さなかった。だから、この森しかもう居場所が無いんだ。困ったことがあったら助けてやって。必ずだ。もし、あと一押しで殺せるような時があったら、必ずお前が助けるんだ」
「奴は、殺さなかったんじゃない。エヴァンス、アンタがいたから、殺せなかったんだ」
喘ぐように、アルトは言った。ギリードールが来た時のことを、アルトはようく覚えている。あの巨大な前足が、さっと自分の足を撫でて、枯れ木をへし折るみたいに骨を折っていった時のことを。
けれどエヴァンスは、何もかもを知ったような顔で、もう一度同じことを繰り返した。
「兄弟、お前が助けるんだ。あの性格だ、人間にも敵がいる。じきに何か起きるだろう。その時、情けをかけるんだ。お前の情けを」
アルトは返事をしなかったが、エヴァンスはそれ以上は言わなかった。ただ、そっと美しい斑紋の浮かぶアルトの横腹をつつき、立ち上がるようにうながした。
「さて、行こうよ。君が言う火の小枝が見たいんだ」
「――ああ、兄弟! そうだろ、きっと見たいと思ったんだ。よし、出発しよう」
アルトはけろりとそう言って、エヴァンスと一緒に南へ向かった。
森の南はやっぱり森が続いているんだ。エヴァンスは、ちょっとだけびっこを引くアルトに合わせて、アルトは、怪我の名残を隠そうと必死になって、森を南へ歩いていった。
冷たい風が吹く中を、二人はずうっと進んでいった。エヴァンスは、ほら話だとわかっていて歩いてきたのだから平気そうな顔をしていたが、お喋りなはずのアルトはだんだんと口数が少なくなっていた。
罪悪感が、遅れてアルトを叱っていたのだ。けれど、もう引っ込みはつかない。それでは、何とかして他の面白いものを見つけ、話を誤魔化すしかないと思った彼は、せめてものなぐさめに歌を歌いながら歩いた。
ずきずきとする足の痛みを誤魔化すためにも、罪悪感を消すためにも、アルトはこんなふうに歌ったんだ。
火をくわえた獣よ
火をくわえた獣よ
振るだけで火がつくなんて本当か?
火をくわえた獣よ
近くにいるならやって来い!
俺は火なんて怖くないぞ、へっちゃらさ
火をくわえた獣よ
ほら話なんかじゃないよな?
そうら、くしゃみ一つで火がついた!
俺は火が見たいんだ! さあやって来いよ火をくわえた獣よ!
ちょうどそんな歌が終わり、ひときわ冷たい風が吹いた時だった。あまりの冷たさに傷は毒にやられたようにずきりとし、アルトは突然、べしゃりとぶさまに地面に伏せた。
傷痕の残る後ろ足はこわばり、震えているのに驚いて、アルトは得意の軽口も忘れて震えあがった。もしかしたら、二度と立てないかもしれないと怖くなったのだ。
立てなければ、狩りはできない。それは、遠くない死を意味する。エヴァンスも驚いて立ち止り、それが罪悪感からの演技でないことを、アルトのうろたえようから察したんだ。
「どうしよう! 立てないんだ、立てないんだ!」
「落ち着いて、アルト、落ち着くんだ。足を悪くした人間も、こんな風の日は辛そうだった。いつもイスに――ああ、あれだよ、立っていなくていいやつに腰かけて、暖炉のそばで足をさすっていたんだ。きっと、この風が良くないんだ。ああ、まいったな。本当に火が必要になったぞ!」
エヴァンスは人間たちがいうことを、ようく覚えていたんだ。人間たちも、似たように考えていた。
足が悪いのは、悪い風が入ってしまったからで、それは冷たい風が大好きなんだって。それで、冷たい風は火が嫌いで、火の近くにいると震えあがって小さくなるんだと考えていた。
暖炉で火に近付けながら足をさすって、悪い風に寄ってきた冷たい風を追い出すことで、痛みがよくなると信じていたんだ。
「どうしよう、エヴァンス! あれ、ほら話だ。火のつく枝なんて聞いたこともない! それをくわえた獣だって! ごめんよエヴァンス、俺はまた想像を語ったんだ!」
「知っているよ! お前のことはよく知ってるんだ。困ったな、火が必要だ。人間のところまで行って、取って来ようか?」
「人間のところだって? 正気じゃないなエヴァンス! 反対だ、それに、人間の言っていることを信じるのか?」
「たいていは、あっていたじゃないか。俺たちの、森の動物のことを語る時いがいはね」
エヴァンスがそう言えば、アルトは泣きそうな声で吼えた。意味のない声は風に吹き散らされ、エヴァンスはじっと片目を閉じて考える。
今から火を取って来ても、この風じゃすぐに消えてしまうことを知っていたからだ。こんな日は、人間だって外に出ない。ましてや、火を持ってなんて。
「困った、困ったな。もう歩けない?」
「立てないんだ! ちくしょう、ギリードールめ! アイツのせいだ!」
ちょうどその時だったんだ。強い風の中に混じる、陽気な歌が聞こえたのは。森の動物はよく歌うんだ。自分の存在を知ってもらう時に。突然、闇の中から飛びかかられたりしないように。
その歌を聞き取ったエヴァンスは、しっ、とアルトを大人しくさせて、ゆっくりと風に耳を向けた。
「聞こえるぞ、ああ、アルト! 君はほら吹きじゃないかもしれない!」
「なんだって?」
驚いたアルトが耳をすませば、木々の向こうから、強い風に乗って、こんな歌が聞こえて来た。
俺は枝をくわえた獣
俺は枝をくわえた獣
振るだけで火がつく枝さ!
俺は枝をくわえた獣
近くにいるよ? 俺が必要?
本当に火が怖くないなら、俺を追い立てたりしないと誓える?
ほら話なんかじゃないよ!
そうさ、くしゃみ一つで火がつくんだ!
本当に呼んでいるなら、もう一度呼んで!
すぐに行くから!
「嘘だろ! ほらだ! そんなことあるわけない!」
「君は初めて俺が死んで生き返った時もそう言ったぞ! ――ここだ! 火が必要だ! お前が必要なんだ!」
エヴァンスはすぐに風にまぎれないように、力強く遠吠えをした。何度も何度も繰り返して、そしてそれはすぐに現れた。
がさがさと茂みが揺れたと思った途端に、強い風に耳を伏せるエヴァンスと、痛みに牙を剥きながらうずくまるアルトの前に、みすぼらしい塊が転がり出た。
黒と、白と、オレンジ色と。ほこりにまみれた身体だったから、綺麗なはずの三つの色も、全部すすけてしまっていたんだ。
「君が俺を呼んだの?」
丸い耳を持ったそのいきものは、その口に小さな枝をくわえたまま、器用に吼えた。エヴァンスはすぐさま吠えて、その自分達より小さな獣が怖がらないように、伏せてやった。
「そうだ! 本当に火があるのか? もしあるなら、行く当てがないなら、俺の森に迎え入れよう。兄弟、それで、お前はなんていうんだい?」
「リカオンのリディオンだ! 兄弟、それが本当なら、今日はなんて良い日なんだ! ようやく落ち着けるところを見つけたみたいだ!」
「それよりも火だ! 本当に振るだけで火が出る枝なんてあるのか?」
アルトの叫びに、リディオンと名乗ったリカオンは、きょとりと首を傾げてから、彼の目の前で、勢いよくぶん、と小枝を振ってみせた。
すると、どうだろう。なんと不思議なことだろうか! ただの枯れた小枝に見えたそれからは、小さな火がパッと燃え上がった。
強く冷たい風に吹かれても消えない、魔法のような火がついたんだ。これには、エヴァンスもびっくりした。
話をでっちあげたアルトは、もっと驚いた。だって、あれは本当に彼が思いつきで、適当に話したことだったからだ。
「それで、兄弟。いったい、火を何に使うの? 俺は眺めるだけだけど、何か必要らしいじゃないか」
少し誇らしげに言うリディオンに、驚いて目を丸くしていたエヴァンスはすぐに我に返って言ったんだ。
「足が痛くなって、立てなくなったんだ。火がきくから、火を近づけてやってほしい。ああ、くっつけたりしないようにだ!」
「もちろん、いいとも。それぐらい、なんてことないさ。本当に、森に迎え入れてくれるなら!」
「もちろんだ、兄弟。約束しよう、俺が長の森だ。誰にも文句は言われない」
とんとん拍子に話は決まって、リディオンはアルトの震える足に、不思議な火を近づけてやったんだ。
ああ、もうわかるね? 古傷を冷やしちゃいけないなんてこと、誰だって知ってるだろう。もちろん、お調子者のヒョウの足はすぐによくなったさ。
アルトの足を温めながら、彼等は森の中心地に帰った。それから、エヴァンスは特別にその日も、狩りをしてはいけない日に決めた。
それから狩りをする者も、しない者も全部集めて、リディオンのおひろめをして、色々なことを聞きたがる動物たちにこう言ったんだ。
「聞きたいなら、言って聞かせてやろう。はぐれのリカオンが持ってきた、小さな火が燃え尽きるまでは!」
その日からだよ、動物たちがしばらくの間、物語というのはこう始めるのさ! と知った顔で言い出したのは。
けれど、いつもその言葉を聞くと、アルトだけは顔をしかめるけどね。
この話は、これでおしまいさ。
新しく来たリカオンがどうしたとか、ギリードールが来た時の話とかは、また違う夜にしよう。
古い話というものは、一息に喋っちゃいけないのだから。
なつかしい話だ。むかしのお話。
さあ、おやすみ、リリ。よい夢を。