蝋燭と少女
少女は静かに本をめくっていた。
薄暗い図書館には背の高い本棚がずらりと並んでいる。にもかかわらずたった一つしかない机で、少女は蝋燭の明かりを頼りに文字を読みとっている。少女はどこか古ぼけたローブを纏っており、不気味なほど白い指先で本のページをめくる。ふと辺りを見回すが一切の人影はなく、動くものは揺れる蝋燭の炎だけという、いつもと変わらない様子に少女は小さく安堵していた。手にした本は既に読んだことのあるものだが、少女は二度三度読むことを好むため一切苦に感じない。目の前に広がっている大量の本を読み終えるのに必要な時間を考えていた少女は、行き着いた思考に自然と笑みがこぼす。
読み終えた本を片手に少女は蝋燭を持って歩いていた。薄暗く景色の変わらないこの場所は目印になるようなものがないため、気を抜くとすぐに迷子になりそうになる。しかし少女はまるでどこにあったか分かっているかのようにスタスタと進み、ぽっかりと空いていた隙間に持っていた本を差し込んだ。そして次に読む本を適当に見繕い、慣れた足取りで机の元にまで戻り、燭台を定位置に置いてから本を開く。そして図書館には少女のページのめくる音だけが響き渡った。
あるとき、机近くの本棚で目星をつけていたものをほとんど読み切った少女は、より奥の方に本を求めて歩いていた。普段行かない場所というのは少しだけわくわくしてしまうもので、少女は蝋燭を片手にまるで遠足に行くかのような気分で暗闇の中へ靴音を鳴らしていた。ふと本棚を眺めていた視界の端に、ぼんやりと小さく光るものが入り込む。少女は光源に視線を定めるが、それが何なのか遠すぎて分からなかった。しかし時間が経つにつれてその光源が徐々に大きくなり、それが何なのかようやく分かってきた。
近付く光源は揺れている炎のそれで、その光に照らされて真っ白なものが宙に浮いている。遠くからでは分からなかったがその白いものは蝋のようで、サイズは少女が持っているものに比べて明らかに大きく、どうやら頭二つ分もあるようだった。蝋の下には印象に残る赤色のネクタイと白シャツが照らされている。次第にそれらは黒スーツの下に着込まれているものだと分かる。頭が蝋燭で体がスーツを着た人間という奇妙な出で立ちに魅入られていると、その蝋燭頭は私の元に辿り着き、手に持っていた本を差し出した。
「初めましてお嬢さん。こちらの本はいかがでしょう」
まさかその風貌で話せるとは思っていなかった少女は、渋い声を発するそれにすこし畏怖の念を持ちつつも、見慣れた背表紙の本を受け取った。
「あなたはだあれ?」
久々に声を出したためか少女の声音はどこか舌っ足らずになっていた。そんな自分の声に驚いている少女をよそに、蝋燭頭はゆっくりと頭を下げる。
「これはこれは失礼しました。私はこの図書館の管理人を勤めております。私のことは管理人とお呼びください」
頭を傾けても蝋が落ちなかったのが少女の目に残っていた。何を話せばいいか分からずに口を開いたまま少女は固まっている。
「それでは良い読書を」
さらりと言い残すと蝋燭頭はその場を後にした。闇にコートが溶け込み、徐々に小さくなる灯火を少女は消えるまで見つめていた。
やはりどこか見慣れた文章をぼんやりと眺めていると、光源にしている蝋燭の炎がふわりと揺れた。密室故に少女が動かない限り風は起きないことから不思議に思った少女は、視線をページから引きはがし辺りを見渡す。手元の蝋燭では到底光が届かないところまで明るくなっていたので首を傾げていると、背後から声がかかった。
「お久しぶりです、お嬢さん。あの時の本は如何でしたか?」
全く気配を感じ取れなかった蝋燭頭の管理人がそこに立っていた。黒スーツに赤ネクタイという変わらない格好を視界に入れつつ少女はこくりと頷いた。確かにあの本はどこか読んだことあるものだったが、この図書館で読んだ今までの中で一位二位を争う面白いものだった。
「それは良かった。何かありましたらどうぞ私にお尋ねください」
どこから声を出しているのか分からない蝋燭頭を、少女はぼんやりと見つめ続ける。何かあるのだろうかと、首を傾げる管理人に向けて少女は呟いた。
「読んだことのない本、読みたい」
少女がこの図書館で読んだものは全てが必ずどこかで読んだことのある本だった。本棚に並べられているものの大部分は背表紙に文字がなく、中身も白紙が連なっているだけである。たまに背表紙に文字があるのを見つけるが、それらのどれもがどこかで読んだことのある本だった。
何度も同じ本を読んだ少女からすれば、管理人に頼むことで読んだことのない本にありつけると思ったのだ。図書館の管理人を自称し、少女の好みの本を当てた彼ならば彼女の欲求を満たすことができると考えていたのだが、管理人はしばらく沈黙した後こう答えた。
「それはできません、お嬢さん」
なんで、と尋ねるかのように少女は蝋燭頭を覗き込む。しかし、管理人はただ頭を振るばかりで何も答えようとしなかった。
管理人からは何も教えてくれないと悟った少女は諦めるように手元の本に視線を戻した。見慣れた文章だが、何もしないよりマシと判断したようである。数ページ読んだところでふと顔を上げると、管理人はいなくなっていた。少女は集中していたから気付かなかっただけだ、と自分に言い聞かせながら再び視線を手元に戻す。何かを思い出さないようにただただ読みふける。
「飽きた」
少女のか細い声が辺りに響いた。相も変わらず少女は本を読んでいたのだが、流石に五度目ともなると苦痛になり始めてしまう。溜め息をついて視線を辺りに向けるが、どれも見慣れた物ばかりで特別変化は見受けられない。
少女は新しい本を見つけるために蝋燭をもって歩き出した。机から近いほど本棚には文字の書かれた本がある傾向があり、遠くになるにつれてほとんどみかけなくなる。そのことを少女は分かっていたので、これまで遠くに行こうともしなかったのだが、あまりにも飽きてしまった少女はどこかの本棚にまだ見ぬ本があることを願って暗闇を分け入っていった。
だいぶ遠くの本棚を覗き込んでみるものの、背表紙に文字がある物は一切見あたらず、ずらりと並ぶのは本の形をしたただの白紙の束だった。
何処を探せばいいのか途方に暮れる少女は、そういえば自分が居るこの場所がどんなところなのかをはっきりと知らないことに気がついた。記憶を掘り返すものの、まるで何かに封じられているかのように、ここで読書していた頃より以前の記憶がない。思い出そうと努力してみるが、記憶を探るに伴って頭痛や耳鳴り、冷や汗が噴き出してきたので少女は止むを得ず床に座り込んだ。本棚に体重を預けて大きく深呼吸し、なんとか落ち着かせる。床に置いた蝋燭はぼんやりと辺りを照らしていたが、炎の位置が初めよりも低くなっていることに少女は気がついていないようだった。
気持ちが幾らか和らいだところで、ふと視線を前に向けるとそこには鉄格子が屹立していた。ふらつく足を叱咤し、蝋燭を持って鉄格子沿いに歩くと壁にぶつかったので、図書館の端に設けられた区画であることが推察された。唯一の出入り口である鉄格子扉には『立入禁止』の看板と大きな南京錠がついている。鉄格子の先には同じような本棚がずらりと並んでいるが、少女の位置からでは暗くて背表紙を読み取ることはできない。もしかしたら読んだことのない本があるかもしれないという淡い願いを持って、少女はその南京錠へ手を伸ばした。
「それはなりません、お嬢さん」
ぎくりと少女は動きを止め、声がした方へゆっくりと振り向く。そこには赤いネクタイが妖しく主張する蝋燭頭の管理人が、まるでずっとそこに居たかのように立っていた。炎の高さから以前会った時よりも蝋燭が短くなっていることに少女はふと気付く。悪戯が事前にばれてしまった子供のように、不愉快そうに少女は眉をひそめ腕を下ろした。すると蝋燭頭は安心したかのようにほっと胸をなでおろす。
「こちらは禁書区画となっております。どうかご了承ください」
少女は文句を言うこともなく、じっと蝋燭頭を見つめた。揺れる炎と不気味なほど白いろうからは管理人の考えを読むことができない。諦めた少女は挨拶することもなく蝋燭を持って、来た道を戻り始めた。数歩歩いて少女は振り返ったが、そこには既に管理人の姿はなくなっていた。
その後図書館の隅から隅まで捜索したものの、少女は読んだことない本を一冊も見つけられなかった。探索途中、外へ繋がるであろう木製の大きな扉を見つけたが、少女は一切の関心を見せなかった。
あるとき、少女は辺りに蝋燭頭がいないことを確認してから、蝋燭を机に置いたまま暗闇の中を歩きだした。蝋燭がないと図書館内を照らすのは窓から入ってくる心許ないぼんやりとした光だけなので、蝋燭のある机から離れれば足元すら見えなくなる。少女は本棚とおぼしき影を一つ一つ数えながら記憶を頼りに、物音をたてないよう気をつけながら歩みを進める。
記憶の限り鉄格子から最も近い本棚に着き、少女はそのか細い腕を恐る恐る暗闇の中へ伸ばした。氷のような冷たさが鉄格子を通して指先に広がったので、少女は驚きつつもなんとか暗闇の中辿り着けたという安堵が全身を駆け巡る。鉄格子を伝って扉のあるところまで来ると、少女は力任せに扉をガシャガシャと揺らした。当たり前だが、少女は弱い力ではびくともしない。しばらく揺らしていた少女は疲れたのか、諦めて目標を南京錠へと変えた。
解錠する手段を持たない少女は直感的に南京錠へと手を伸ばした。少女の指先が触れた途端、カチャンという小気味良い音とともに南京錠が床に落ち、鉄格子扉がキィと開く。そのとき、少女の脳内にある光景がよぎった。それは、教室の端っこでうずくまっている女の子がクラスメイトに囲まれて何か言われているものだった。少女はその光景が何なのか一切詮索せず、まるで怖いものから逃れるように頭を振り、強引にその光景を脳内から引きはがす。そして覚悟を決めた少女は、身構えつつも禁書区画へと足を踏み入れた。
禁書区画の本棚は他のそれと変わらないようだった。ただ鉄格子で仕切られているだけで、特別変化は見受けられない。光量がほんの少ししかない中、本棚を目をこらして探ってみるものの、少女の瞳に映るのは背表紙に文字のない本ばかりで少女は酷く落胆した。しかし諦めずに探していると、最後の本棚で背表紙に何か書かれた本を見つけた。光量が足りないためその文字が何なのか読み取ることは出来ないが、ピンときた少女はそれらの本のうち一つを引き抜いた。そしてその本を大事そうに抱えて禁書区画を後にする。一応扉には南京錠をかけておき、足下に気をつけつつ蝋燭にある机へ向かった。
ようやく机に着くと少女は心から安堵した。暗闇から逃れられたのも理由の一つだが、何よりも机の周りに管理人がいないことが大きかった。とりあえず本を机に置いて、蝋燭の明かりの元でまじまじと少女は観察した。本はまるで一度も読まれていないかのように新しく、茶色の表紙と白色の本文で構成されている。表紙は最初の数文字だけ黒く塗りつぶされているため正確に読み取ることができないが、『――――の日記』とだけ書かれていた。著者や出版社等の記載はない。少女は大きく深呼吸してからその本に手をかけた。どんな本なのかわくわくする心を何とか静めつつ、ゆっくりとページをめくった。
その本は題の通り日記だった。本文の最初の方は単調で単純な文面が箇条書きに書かれていることから、幼い頃に書いたように表現しているのだろう。時間が経過していくと接続詞や副詞が増えてきて、なんとか読めるレベルになっている。ある女の子が書いた日記という体裁にしているらしく、この一冊で九、十歳の頃の思い出が綴られており、終わり方からして続きもあるようだった。内容は当たり障りのない年相応の女の子の日常を記しているもので、特にストーリー性や面白さは見受けられない。あえて述べるとするならば、所々女の子の両親が喧嘩している描写があり、その度に女の子は両親が仲良くなってほしいという願いを連ねている程度である。
読み終わった少女は本を閉じて大きくため息をついた。禁書区画にあるものだからどんな本だろうと興味津々だったのだが、内容は何の変哲もない日記であり、やはりどこかで読んだことあるものだったからだ。しかもあの棚にある本全てはこの日記の続刊であろうことが容易に想像できる。
しかし、この図書館で今まで読んできた中では比較的覚えのないものだったので、本棚にある続刊も含めて暇つぶしにはちょうどいいだろうと、少女は適当に検討をつけていた。そんな時、短くなった蝋燭の炎がゆらりと揺れた。びくりと体を強ばらせた少女は祈るように頭を上げる。
そこには蝋燭頭の管理人が何も言わずに立っていた。初めて会った時に比べて短くなってしまった蝋燭からでは怒っているのか、悲しんでいるのか分からず、余計少女を不安にさせる。管理人の視線は少女にではなく、机の上の本に向けられているようだ。
「……読んでしまったのですね」
ぽつりと呟いた言葉には一切の抑揚がなく、少女はまるで蛇に睨まれた蛙のごとく動きが止まる。少女の瞳は動揺で震えており、冷や汗が顔を伝った。
「お嬢さんがこの場所でただ本を読んでいたいのであれば、あの区画はお勧めできません。そうでなければ別ですが」
蝋燭頭の意味深な台詞に少女は疑問符を浮かべる。しかし管理人はそれ以上語ることはなく、最後に一言だけ呟いた。
「お嬢さんの好きなようにしてください。私は貴方の味方ですから」
管理人はそれだけ伝えると少女の言葉を待たずに、少女の目の前で虚空へ消えた。
置いていかれた少女は管理人の言葉をただ反芻していた。
あれから少女は暗闇が支配する図書館で、蝋燭の明かりを頼りに一人考えた。この図書館が何なのか、何故読んだことのある本しかないのか、私は何故ここにいるのか。そして、一つの結論に帰結した少女は蝋燭を持って禁書区画へ向かった。持ち出していた例の日記を元の位置に戻し、蝋燭をかざしてその本棚の全体を眺める。本棚には日記のシリーズが一段に納められており、おもむろに少女は次巻に手を伸ばした。蝋燭を床に置いて座り込んだ少女はその本を震える指先で開く。先程読んだものよりも文章がしっかりしており、場面を克明に想像させた。
本の主人公である女の子は相変わらず幼さを感じさせる文章で日常を綴っていた。特別興味を引くものがなかったので適当に流し読みしてみると、最後の方に両親が別れたこと、女の子は母親に着いていくことになったことが書かれていた。少女は頭痛や動悸を押さえつけ、本棚から引き抜いておいた次の巻を開く。
女の子は少ない語彙からなんとか心情を記しており、その必死さから女の子の心情を汲み取るのは容易だった。行き場のない悲しみを日記にぶつけていたのだろう。それから悲しみを引きずる文章が続いていたが、一年程経過すると女の子は多少落ち着いたようだった。
少女は今にも吐きそうになるのを踏みとどまり、脂汗を流しながら苦悶の表情で次々と日記を読み進めていく。両親の離婚を乗り越えた女の子は中学校までは平和に過ごしていたようだった。母親の都合で中学校から遠い進学校に進学することになった女の子は、その高校で片親を理由にいじめられるようになる。最初はいちゃもんや意地悪程度だったのだが次第にエスカレートし、無視は当たり前で持ち物を破く捨てる、口汚い暴言に果ては暴力まで振るわれていた。もちろん先生に相談することも考えたが、仕事で忙しい母親を困らせるわけにはいかないという意志で女の子はいじめに耐え続けていた。この頃の日記は、ただ淡々と何をされたかが記されており、女の子の心情は一切書かれていなかった。しかし、少女は女の子の気持ちが痛いほど理解できていた。なぜなら、女の子はまぎれもなく少女自身だからである。
日記の最終刊では、いじめに耐えきれなくなった女の子が屋上から飛び降りていじめから解放されたいという旨の記載で終わっていた。ENDという文字が無いのが唯一の救いだろうか。最後まで読み終わった少女は、自らが封印していた記憶と再び向き合うことになってしまった現状に苦笑していた。自らが願ってこの場所に引きこもって自由に過ごしていたのに、結局いじめからは逃げられないのだ。少女は心の奥底から絶望した。結局この図書館は私の心のシェルターであり、そうなると読んだことのある本しかないのは、至極当然のことであった。
読み終えた最終刊を適当に放り投げた少女は、蝋燭を持って立ちあがろうとした。しかし頭痛や耳鳴りにより足元が覚束ず、ふらついた少女はそのまま蝋燭と共に倒れそうになった。少女は受け身をとることも手を前に出すこともせず、ただ重力に身を任せてぎゅっと瞳を閉じた。
しばらく待っても全身に衝撃が伝わることもなく、蝋燭が落ちる音も響かないため不審に思った少女は薄く目を開く。そこには蝋燭が相当短くなった管理人が少女の体を片手で支えつつ、もう片方の手で蝋燭を持つ姿があった。
「大丈夫ですか?」
管理人の声が一切の雑音がない図書館に響き渡る。雑然とした思考に苦悶していた少女は、その声ではっきりと意識を復活させ、慌てて自分の足で立った。
「ありがとう」
「お怪我がないようでなによりです。体調が優れないようですし、とりあえず机まで戻りましょうか」
少女は促されるままに歩き出そうとするが、体は再びふらつきそうになる。管理人はその様子を逃すことなく、即座に少女の手を掴んだ。反射的に振りほどこうとするが、がっしりと掴む管理人の手はびくともしなかった。白い手袋越しに温かさが伝わる管理人の手に、蝋燭頭のくせに人のような温かさがあるのは卑怯だと少女は心の中で毒づいた。
机に辿りつくと管理人は少女の手を解放し、持っていた蝋燭を机に置いた。蝋燭と管理人を見比べた少女は管理人の蝋燭頭の長さは少女の手元にある蝋燭に比例しているということに気付く。机に置かれた蝋燭はすっかり短くなっており、近いうちに消えてしまうことが容易に想像できるが、探索した際に替えの蝋燭を見つけることはできていなかった。
「どうでしたか、貴方の現実は」
椅子に座って呆然としていた少女は突きつけられた言葉に顔を歪めた。
「最悪」
「私は止めたのですが」
「もっとちゃんと止めてほしかった」
「貴方のことですから、止めれば止める程意地になって読むと思いまして」
指摘された言葉を否定できず、少女は決まりの悪そうな顔をした。
「あの日記からすると私は死んだはずなのに、なんでここにいるの?」
「それは貴方がよく分かっていることだと思います」
問いに疑問形で返す管理人に少しだけ怒りを覚えつつも、少女は言い返すことができずに目を伏せた。少女と管理人の間に気まずい空気が流れる。
「戻りたいですか」
口火を切ったのは管理人だった。敢えて主語を入れずに動詞だけで少女に問いかける。少女はその問いに即答した。
「嫌」
「ではここに居続けるのですか」
間髪入れずに尋ねてくる。少女は机の上の蝋燭をちらりと見た。
「いずれこの場所はなくなるって言いたいんでしょ?分かってる」
今度は管理人が黙る番だった。少女は気付いていないと思っていたのか、管理人は驚き口を閉ざした。きっと今面白い顔をしているのだろうな、なんてことを少女は考えていた。
「でもあの場所に戻るくらいならこの場所で管理人と消えたい」
「私は戻ってほしいです」
説得を諦めたのか管理人は望みを単刀直入に口にした。
「私は貴方が色んな本に出会って、日々のことを日記に記して、少しでも幸せに感じてくれればそれで――。」
「そんな簡単なことじゃない」
管理人の言葉を遮るように少女は立ちあがって冷徹に呟いた。そのまま気持ちに任せて、心に溜まっていた鬱屈とした感情を静かに吐露する。
「幸せなんて言葉を軽々しく使わないで。私は良い子でいようとしただけなのに、あの子達はそんな私を邪魔者扱いして、そして、そして」
脳裏に浮かぶあの時の情景に少女は体を震わせた。
「クラスメイトは私がいじめられている間は自分に矛先が向かないからって無視するし、先生は事なかれ主義でそういう場面では必ず姿を消すし、私はどうやったら幸せになれるの?」
少女はその震える体を押さえつけるが如く自らを抱きしめた。そのまま涙を溜めた瞳を隠すように項垂れる。管理人はそんな少女の姿を見つめていた。感情の歯止めが利かなくなってきた少女は、思い思いのことを管理人にぶつけてやろうと睨みながら口を開いた。
しかし、そこから言葉が紡がれることはなかった。なぜなら、少女の体を管理人が抱きしめたからだ。母親のようなぎゅっと体を密着させるものではなく、どこか遠慮がちに優しく包み込む管理人に少女は全ての言葉を失った。
「よく頑張りましたね」
少女の瞳から一粒、二粒と滴が流れていく。半開きの口からは嗚咽が発せられ、いつの間にか震えは止まっていた。管理人の胸を借りて涙を流す少女の頭を管理人は優しく控え目に撫で続けた。
一通り泣いて落ち着いた少女は気恥ずかしそうに椅子に座り視線を蝋燭へ向けた。蝋燭はほとんど残っておらず、受け皿に残った蝋でなんとか燃えているようだ。
「貴方は一人ではないのです。貴方には母親がいらっしゃいますし、私だっています」
それに、と管理人は言葉を続ける。
「一度それほどの覚悟が出来たのですから、大抵のことができると思いませんか?」
管理人は悪戯を提案する子供のように楽しそうに話した。少女はその言葉を心地よさそうに耳を傾ける。
「私、この場所で過ごして分かったことがあるの」
管理人は少女の言葉を待つかのように静かになった。
「色々な本をたくさん読みたい。そしていつか私も本を書きたい。だから、また頑張ってみる」
「頑張らなくていいのです。困ったことがあれば誰かに頼りましょう」
「うん、分かった」
少女は蝋燭の残り火がある受け皿を持って、探索した時に見つけた大きな扉へと歩き出した。もちろん管理人とは手を繋いでいる。
「そういえば」
「どうかされましたか?」
「貴方みたいな風貌のキャラクターが出てくる本を読んだことないのだけれども、貴方は何者?」
「秘密です」
管理人は楽しそうに答えた。蝋燭頭はほとんど溶けて炎しか残っていないため、一段と表情が読みにくくなってしまっているが、不思議と笑っているのだと感じた。何とか問い詰めようとしたが、すぐに扉に着いたのでうやむやになってしまった。
炎がちろちろと燃えているだけの受け皿を管理人に渡し、少女は扉に手をかけた。
「ねぇ、管理人さん。また会えるかしら」
「貴方が望むのであれば、きっと」
そっか、と小さく少女は呟いた。そして心をこめて言葉を紡ぐ。
「どうもありがとう管理人さん。またね」
「ええ、また」
少女は管理人の言葉を聞き届けてから、覚悟を決めて扉を開け放った。外の眩しさに少女は思わず瞳を閉じる。外からの光が体を包み込んでいく中、少女の耳には蝋燭が消える儚い音が届いた。
瞳を開くとそこは図書館だった。見慣れた場所のはずなのに、窓から入ってくる暖かい光や天井の照明のせいでまるで別の場所に来てしまったのではないかと錯覚させる。皺だらけで痩せぎすだった掌が綺麗でふくよかなものになっていた。年老いて低くなっていた視点が少し高くなっている。視界に入る髪の毛先は細くて白いものから艶やかで黒く変化している。ぺたぺたと体中を調べてみると、私自身が若返っていることに気付いた。服装も患者服から白いローブになっており、まるであの時のようだった。
歩きながら本棚を眺めると、あの時はほとんどが背表紙に文字のない本ばかりだったのに、今では様々な種類の本がずらりと並んでいた。その中には私の手記や日記もあった。
視線の先には机と椅子、そして蝋燭があることに気付いて、私は駆け出した。机や椅子はあの時と全く変わっておらず懐かしさがこみ上げる。蝋燭の長さもあの時に戻っており、炎がゆらゆらと揺れていた。
「ただいま」
私は言葉を宙に投げかけた。すると、蝋燭の炎が一段と大きく揺れ、一瞬のうちに蝋燭頭の管理人が姿を現す。
「おかえりなさい」
赤いネクタイや白いろう、闇に溶け込みそうなスーツという管理人の姿は昔と一切変わっていなかった。
「ありがとう」
精一杯の心を込めて私は言葉を紡いだ。驚いたのか動きを止める管理人に私は思いっきり抱きついた。
「お疲れ様でした」
管理人の声が頭上から届く。
「私頑張ったよ」
「ええ、ちゃんと見守っていました」
管理人はまるで子供をあやすかのように私の頭を優しく撫でていた。私はもう子供ではないというのに、じんわりと心が温かくなる。
「幸せでしたか?」
管理人の問いに私は満面の笑みを浮かべながら答えた。
「ええ、もちろん」
ひとしきり堪能した私は、管理人を解放し面白い本は何処か尋ねた。では案内します、と管理人は私の手を握り歩き出す。
これまでのたくさんのことを管理人に話してあげようと心に決めながら、私も握り返し歩き出した。
暖かい光が満ちる図書館で、少女はたくさんの本に囲まれながら、今日も楽しそうに歩いていた。
人外×少女にはハッピーエンド以外ありえない。