37 私がいなくてもあなたは生きるのよ
その日は静かな朝だった。
世界が終わることも、変化が訪れることもなさそうな何の変哲も無い朝。
ディスカはジェストに何も伝えてやしなかったから、ジェストはディスカを一度抱きしめ、頬にキスを落とした。
それから、まだまだ起きそうに無いねぼすけの額にもキスをして、いつも通りに仕事へ行くために玄関ホールへと出た。
ディスカが死ぬ日のことを、ジェストは知らなかった。
目に見えて寿命が近づくこともなかったし、結婚生活の3年間体調を崩すようなこともなかった。
けれども呪いは消えず、ディスカはその日その時間に死ぬことが決まっていた。
「今日は早く帰って来れそうだよ」
もう一度、離れ難いとでも言うようにディスカを抱きしめてから、ジェストは屋敷を出て行った。
幸せな3年間だった。
背を見送りながら、ディスカは不意に思った。
急に感傷的になる己を笑いながら、まだ読み終わっていない本を読んだ。
紅茶を飲んで、それから魔女を招いた。
「そうかい、今日で終わりかい」
「あら魔女さん。あなた、よく知っているのではなくて?」
魔女は紅茶を啜りながら目を細めた。
「そうだね」
「ええ。あなたがかけた魔法ですもの」
「……ディスカ。お前さん、旦那にアレを飲ませるつもりかい?本当に?」
「今更、貴重なお薬が惜しくなりましたか?」
「いいや。そういうわけじゃあ無い。ただ、そう。ただ単に、あれを本当に使うつもりなのかと気になってね」
「使いますよ。想い忘れ薬」
ドレスのポケットから、小さな小瓶を取り出した。
子供を残そう、そう決めた日に魔女にもらった薬。
記憶を消さずして、それに伴う感情及び想いを消す薬。
「それを飲ませたら、お前さんの旦那はお前さんの死を悲しまなくなるよ」
「ええ」
「悼まなくもなる」
「知っていますわ」
ディスカはよく知っていた。
使ったことは無いけれど、知っていた。
「でも。それを悲しむ人はいませんもの。私は、大事な人に残される傷みを知りません。ならば、少しでもその悲しみを無くしたいと思うのは当然でしょう?」
「あんたのそれは傲慢だよ」
「そうでしょうね。勝手に人の傷みを取るのですから」
「そうだよ。人間は学ぶものさ。痛みさえね」
「取り上げる、と言ったほうが正しいですか」
「それでもやるのかい?」
ディスカはくぃー、と紅茶を飲み干した。
「ええ。やります。私のことを覚えていたら、あの人、いつまでも落ち込んでいそうなものですから」
「そうかい」
魔女が帰って、ディスカはディストの元を訪れた。
「ウェニー。ディストはどう?」
「奥様!ぼっちゃまは今、絵本を読んでおられますよ」
優秀な侍女頭は、ディストの状況を逐一確認してくれる。
もちろん、ディスカも細かくディストの様子を見るのだが、ウェニーは行動の合間合間に覗くらしく、ディスカ以上にディストの様子を知っていた。
「そう。ありがとう」
部屋へ入ると、確かにディストは絵本を読んでいる。子供向けのそれは文字が少なく、絵が美しい。
高名な画家が手掛けた作品だそうで、大人が見ても楽しめる絵本だ。
「ディスト」
「かーたま!」
1歳にしては聡明なディストは、ディスカの顔を見るなりパッと顔を輝かせて駆け寄ってくる。
足に抱きつき、喜びを体で表現する。
「絵本を読んでいたの?」
「うん!」
「お母様も一緒に読んでいいかしら?」
ディストは大きく頷いて、2人掛けの椅子にディスカを案内した。
「ディストはエスコートが上手ね」
「とーさまがね、こーしなさい、って」
舌ったらずに報告するディストは可愛いらしい。
抱きしめ、抱き上げると、ディスカは椅子に座って膝の上にディストを乗せた。
「そう」
大好きなディスト。私の可愛い息子。
もっと長く、あなたといたかったのに。
「かーたま、泣いているの?」
小さな手が、ディスカの目元をゴシゴシと擦る。
「……いいえ。泣いてないわ。大丈夫。ディスト、愛しているわ。ずっと、変わらずに」
小さな体は、ディスカが腕を回すとすっぽりと入りきってしまう。
ディスカの背を越すところを見ることはもうできない。舌ったらずさがなくなるのを待つことも。
「ディスト。大好きよ」
「ぼくも、かーたま、だいしゅき!」
願わくば、無邪気な笑顔が消えることがありませんように。
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ジェストが帰ってくると、ディスカはディストと2人で出迎えた。
「おかえりなさいませ、ジェスト様」
「とーさま、おかーり!」
「ああ、ただいま。ディスカ、ディスト」
いつも以上に距離の近い2人を不思議そうに見やりつつも、ジェストは2人をまとめて抱きしめた。
それから、3人で食事をとった。
「ジェスト様、今日は3人で寝ませんか?」
「良いよ」
ディストはもうすでに1人で眠るようになっていたが、今日ばかりは良いだろうと提案してみると、案外あっさりと許可される。
ディストは3人で寝られることを、飛び跳ねて喜んだ。
眠る場所は夫婦のベッド。
大きなベッドら、3人が並んでも余裕があった。
「お休みなさいませ、ジェスト様。ディスト」
「ああ、おやすみ」
「おやしゅみしゃい……」
ベッドに入ると間もなく、ディストは寝息を立て始める。
ディスカはディストの頭を撫でながら、眠る前にヘッドボードの上に乗ったグラスから水を飲むジェストを確認した。
水の中には、あの薬が入っていた。
効き目は一度眠った後に出てくる。だから前日の今日、飲ませたのだ。
「私はとっても、幸せでした」
にっこりと笑って言った言葉は、誰にも聞こえなくて構わない。
ただ、少し前にエディに言った言葉を現実のものとするために囁いただけだから。
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ゆっくりと息を吸って、吐く。
カチコチと鳴り響く時計の針が、今日はやけに響いて聞こえた。
恐怖はなかった。
ベッドを静かに抜け出して、私室に戻る。
隣で人が亡くなっていたら、それは恐ろしいことに思えた。だから、ディスカは三人で眠ることを提案したにもかかわらず1人で眠ることに決めた。
共に眠る人のいないベッドは冷たく、寂しい気がしたけれど思い出は温く、哀しくはなかった。
そうしてゆっくり、ディスカはひっそりと、息を引き取った。




