35 近づくものと離れ行くもの
ディストと名付けられた愛らしい子供は、すくすくと健康に育った。
ディスカはディストをそれはもう周りが軽く引くほどに可愛がり、ジェストもまたそうだった。
その様子と言ったら正しく“目に入れても痛くないほど”である。
エディもまた、ディスカに付かず離れずの位置を保ちつつディストを守る忠犬の如く側にいた。
「奥様。ぼっちゃまが立てるようになりましたらまずは護身術から教えましょう」
“正しい教育本入門~可愛い我が子を魔の手から守るために~”というちょっと間違っている気がしなくもない本を片手に、エディが真面目な顔で言う。
母乳をやりながら聞いていたディスカは、その後、そっとその本を窓の外へ投げ捨てた。
「良い?エディ。この子はね、3歳になるまで一切の教育をしないわ。もちろん、マナーやダンス諸々の必要最低限は行うけど。あくまで必要最小限」
「ですが奥さまっ!こんなに可愛らしいぼっちゃまなんですから、早く護衛術その他もろもろ教えなければ魔の手が……!魔の手がぁ……!」
ジェストいわく、エディは夜な夜な“我が子に降りかかる脅威”という名の本を読んでは震えているらしい。
「エディ、あなたちょっと……いやかなりキャラが変わったわよ?」
「……元々こんな感じでしたよ。えぇ」
自分でも過保護さに自覚はあるらしく、軽く目線を外される。
「まあ良いわ。あのね、良い?エディ。あなたは何のためにいるの?可愛い私の我が子を守るためではなくて?ええもちろん、あなたが嫌なら構わないのよ。あなたは私のためだけにそんざいするわけではないのだから」
エディは絶句した。
主に、その考えに至らなかった己の浅はかさに気付いて。
「そうですね‼︎なら、ぼっちゃまに護衛術は要りません。……いえ、ぼっちゃまが望んだ時に教えられるようにしておきます」
エディの最大限の譲歩である。
ディスカは頷いておいた。
エディならば、さぞや優秀な教師となるだろうと踏んで。
*・゜゜・*:.。..。.:*・'*'・*:.。. .。.:*・゜゜・*
薄くピンクがかった白餅のような丸いほっぺ。
小さな薄い桜のような色付きのもちもちとした手。
ふりふりと落ち着きなく動く、ぷくぷくとした足。
きゃはは、と耳に煩わしくない程度に笑う高めの声。
庇護欲を誘う愛らしい笑み。
ディスカによく似たその青い瞳で捉えられれば、虜になってしまうだろう。
ディストを目の前にしたシェゼンスタ公爵は、ぐふぐふと気色の悪い笑みを浮かべてベビーベッドへと近づいた。
そっと抱き上げようと差し伸べた手を、ベシン!とエディに叩き落とされてなお緩む顔は、脂肪ゆえのたるみか。
「公爵様。その気色悪い……ごほん。緩みっぱなしのお顔をどうにかなさってください。ディスト様が怖がります」
しっかりと気色悪い、と言葉を紡いだ上で咳払いをする辺り、エディは容赦がない。
ディスカは番犬が我が子の近くにいてくれることに安心し、遠目にそのやり取りを見ていた。
「仕方ないだろう、こんなにも孫娘が可愛いのだから!」
父の叫んだ言葉に、エディとディスカは言葉を失った。
「お父様。……そんなに可愛いらしい子を産んでしまった私にも非はありますが。あと、こんなに経つまでお呼びしなかったのも申し訳ないのですが」
生後5ヶ月は経っている。
本当は生まれてすぐに呼ぶ予定だったのだが、まだ良いだろうまだ良いだろうと引き延ばすうちにこんなにも遅くなってしまった。
「……その子、男の子ですわ」
正しく、後継息子だ。
エディとの交渉の末、ほんの少しだけならと抱かせてもらった子供の股あたりにシェゼンスタ公爵は手を伸ばし、エディに叩き落とされていた。
「……可愛い孫息子だ」
先程よりも幾分引き締まった顔を見て、脂肪のたるみではなかったのかとすこしほっとしてしまうのは、小さく存在する娘心である。
「そうでしょう。お父様」
父の手から我が子を救出……じゃなかった。受け取り、柔らかなほっぺをつつく。
汚れていないかを確かめるためだったりしなかったり。
「良いですか、お父様。今後、お父様の権力・財産・人望……はありました?まあとにかく、持ち得るもの全てを費やしてこの子を護ってくださいね」
人望はあるのかないのか微妙なところなので、思わず首を捻ってしまった。
シェゼンスタ公爵は本人からすれば至極真面目な顔、ディスカとエディからすれば酷く滑稽な顔で重々しく頷いてみせた。
前科があって信用ならないので、誓約書も書かせた。
ディスカの腕の中で、ディストだけが何もわかっていないような無垢な笑顔を振りまいて、あう?と言っていた。
*・゜゜・*:.。..。.:*・'*'・*:.。. .。.:*・゜゜・*
「子供の成長は早いものだね」
「そうですわね」
自分で歩けるようになってからは、ディストの行動範囲も多いに増えた。
最近はエディを付けて、屋敷内を駆け回っている。
エディはディスカのことも心配しているようだけれど、それよりも今を走り回る幼子に夢中なようで今日も今日とて好奇心の塊たるディストの後ろをくっついていた。
我が子の成長を感じるとともに、近づく期限に悲しみを覚える。
もうすぐだ。
これまでの人生は長いようでいて短かった。ならば、その今までの時よりも短いこれからの時間は、より一層に短いものだ。
ジェストに見えない方向を向いて、滲んでしまった雫を拭う。
「ジェスト様。愛していますよ」
「急にどうしたんだい?」
微苦笑しながら、ジェストはディスカを抱きしめた。




