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緋の扉2 ~いつかの断片~  作者: 緋龍
想いの果て
33/47

33話 キールの覚悟

「キール!」


「う、うわあぁぁっ!」


 キールはナナリノを抱きかかえながら地面に倒れこんだ。暗闇から現れた腕はキールの背中すれすれを通り過ぎていく。

 ナナリノの手から離れたカンテラは、地面を転がり輝きを失ってしまった。

 脚をもつれさせながら慌てて立ち上がったキールとナナリノが目にしたものは、自分たちの身の丈の二倍はある巨大な獣だった。全身が長い毛で覆われた二足歩行の獣。鼻息を荒くし、鋭い牙が覗く口からはどす黒いよだれが垂れている。


「な、なんだよこいつら……どっから現れたんだ? 気配なんか感じなかった……」


 腰の後ろから剣を抜いて構えたキールの手は小刻みに震えている。敵わない敵だと本能が訴えてくるのだ。赤翁せきおう蛮虫ばんちゅうなどとは比べ物にならない威圧感をひしひしと感じる。


「なんで……。こいつらの住み処は峡谷のもっと奥深くって教わったのに……。なんでこんなところに腐猿ふえんがいるのよ!」


 泣きそうな声でナナリノが叫ぶ。弓を持つ彼女の手は、キール以上に震えていた。


「これが……腐猿」


 囲まれれば熟練の兵士でも命を落とす凶悪な獣。ナヨークト峡谷が狂い猿の谷と呼ばれる所以ゆえん

 キールの心が絶望に染まっていく。

 一体だけならまだよかった。勝てる希望が持てた。

 だが、眼をぎらつかせて太い腕を回している腐猿は――五体。とても二人で相手できる数ではない。

 今すぐ逃げ出したい。しかし、背を向けたら最後、一斉に襲いかかってくるだろう。

 どうする? どうすればいい?

 額に汗がじわりと滲む。

 キールは心の奥底から這い上がってくる恐怖に耐えながら必死に考え、そして一つの結論に達した。

 ごくりと喉を鳴らし、剣をしっかりと握りなおす。 


「ナナリノ、お前は逃げろ」 


「なっ! 私も戦うに決まってるじゃない!」


「馬鹿言え。そんな震えた手でどう戦うってんだよ。いいから行けって。そんでライルさんとルークさんを呼んでくるんだ。いいな?」


 勝てる見込みのない戦いからナナリノを護るには彼女をここから遠ざけるしかない。自分が外に出ると言ったせいでこうなったのだ。何としてもナナリノだけは護りたかった。

 たとえ自分がどうなろうとも。


「無茶よ、一人で敵うわけない! 殺されちゃうわ!」


「そんなの、やってみなきゃわかんねえだろ。ほら、さっさと行け、早く! 行くんだ、ナナリノ!」


 キールに怒鳴られたナナリノの眼に涙が浮かぶ。


「う、うう…………分かった。すぐに戻ってくるから。だから、だから絶対に死なないで! 約束よ!」


 歯を食いしばってナナリノは走り出した。腐猿の一体が彼女に狙いを定めて動き出す。


「てめえの相手はこっちだ、ぜっ!」


 キールは動き出していた腐猿めがけてカンテラを蹴り飛ばした。顔面にカンテラを受けた腐猿は、ナナリノを追うのを止め、獰猛な眼でキールを睨む。

 次の瞬間、ごがぁぁぁあぁっ! と、空気を震わせる叫び声を上げ、腕を振り上げて突進してきた。それに呼応して残りの四体も一斉に襲いかかってくる。

 最初の腐猿の腕をぎりぎりでかわし、二体目三体目の攻撃も何とか後ろに跳躍して避けるキール。四体目の腐猿には自分から向かっていき、股の間を滑り抜けながら脚を斬りつけた。

 ずさりと地面に膝をつく腐猿。 

 いけるかもしれないとキールは思った。

 が―― 


「うああぁぁあっ!」


 腹に衝撃を受け、遥か後ろに吹っ飛ばされた。地面に落ちた後も勢いが止まらず転がり続ける。


「ぐっ、ごはぁっ」


 岩にぶつかってようやくキールの身体は止まった。たまらず、激しく咳き込む。

 痛い。身体中が痛い。

 もう逃げ出したい。――死にたくない。

 

「……なんてことを考えてちゃ、いつまでたっても半人前のままだよな」


 口の端から零れる血をぐいと拭い、キールはよろよろと立ち上がった。

 ライカなら、彼女ならどんな絶望的な状況であっても、そこから逃げ出すようなことなど絶対にしないはずだ。だから逃げたりなどしない。いや、できない。

  

「それにここで逃げたりしたら、マールに一生馬鹿にされるだろうしな。それだけは御免だぜ」


 口の中に残る血をぺっ、と吐き出し腰を落として剣を構える。


「いっくぜえぇぇぇっ!」


 叫びながらキールは近づいてくる腐猿に向かって走り出した。縦横無尽に剣を振り回し、腐猿を斬りつけていく。

 顔に、腕に、脚に、いくつもの裂傷がはしる。だが、それでもキールは動きを止めなかった。戦いの神に憑りつかれたかのように剣を振り続けた。


「このおおぉぉおっ!」


 額から流れ落ちる血で片眼が見えなくなり、左腕は上がらなくなった。多少腐猿の動きは鈍ってきているが、まだ一体も仕留められていない。

 しかし、キールの口元には笑みが浮かんでいた。

 もうすぐ自分は死ぬ。それを分かっているのに、少しも怖いと感じないのだ。


「誰かを護って死ぬなんて、そうそうできることじゃない、っすよね、ライカさん」


 迫る腐猿めがけて剣を振り下ろす。が、その動きはあまりにも遅く、相手は難なく避ける。勢いのついた身体を制御する力も残っていないキールは、そのまま地面に倒れこんだ。

 

「まだだ……まだやれる……」


 もう動く力など残っていないにも拘わらず、キールは立ち上がろうともがく。

 そんな彼に、腐猿は容赦なく腕を振り下ろした――


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