2話 海の異常
「はあっ!」
ヴォードの声と共に空中を飛ぶ魚が一刀両断された。
夏の季節。ローディスと南方の国リムストリアの間にある海、碧南海。荒れることの多い北方の国ヴィアン=オルガとの間にある翠北海とは違い、比較的穏やかなこの海の上で、ローディス国第一騎士団長クレイ・ヴォードは、十数名の第一騎士と共に、四半刻ほど剣を振り続けていた。
ことの始まりは、四半刻と少し前。ここ数日、ヴォードは新しく入った騎士の訓練も兼ねて、碧南海を二隻の船で巡回していた。
第一騎士団の持ち場は海。必然的に船上での戦いが主になる。ゆらゆらと安定しない足場で、剣を振るったり弓矢を番えたりしなくてはならない。
だが、いくら厳しい試験を合格した者たちとはいえ、そうそう簡単に出来るものではない。地上での戦いとは勝手が違うのだ。
ゆえに、毎年新人には訓練という名の厳しい試練が課せられていた。この訓練を乗り越えて、初めて一人前の騎士となるのだ。
当然のことながら、新人が乗り越えなければならない訓練があるのは第一だけではない。どの騎士団でも同じような訓練はある。第二は空、第三は馬上での、それはそれは厳しい訓練が。
訓練は、団長と副団長の監督下で行われるのが通常。普段は別々に行動することの多い団長と副団長も、この時期だけは共に行動する。
見張り台に立っていた騎士から、救援の狼煙が見えると報告を受けたのは、ヴォードが新人を容赦なくしごいていたときだった。
隣を走る船に乗る副団長に合図を送り、すぐに煙が立つ場所へと向かう。狼煙をあげていたのはローディスの商船だった。
異常な事態であることは遠目にも分かった。ヴォードは船を寄せると、新人騎士に無茶はするなと言い、両腰に下げた剣を抜いて商船に飛び移った。
「団長、また来ます! 気を付けてください!」
第一騎士団副団長ティアナン・ザァレムの鋭い声を受けて、クレイは眼下に広がる海に視線を向ける。蒼一色であるはずの海には、黒い斑点が出来ていた。斑点の数は次々と増え、大きさも増していく。点の大きさが両手で作る円の二倍ほどになると、海面を突き破るようにして魚が飛び出してきた。
「ったく、何だってんだ一体」
噛まれれば骨まで砕かれそうな鋭い歯。鳥のように大きなひれ。鞭のように細くて長い尾びれ。そして何よりも印象的なのが、血のように紅い四つの眼。一般的に食されている魚とは似ても似つかぬこの生物は、紅鎌魚と呼ばれている。
紅鎌魚は海の浅いところに群れで生息している。捕ろうとすれば攻撃されたとみなされ、海面から飛び出して襲い掛かってくるが、普段は大人しい魚だ。
「まるでこの船に引き寄せられてるみたいだぜ。おい、お前ら! 何でこんなことになったんだ!」
右手の剣で紅鎌魚を斬り、左手の剣で別の紅鎌魚を貫いたヴォードは、商品が入っていると思われる木箱の陰に隠れてがたがた震えている商船の乗組員の一人を睨んだ。
紅鎌魚の習性については、船に乗るものならば誰もが知っている。格別に美味だとか、何かしらの効能があるとかであれば、危険を冒してでも捕ろうとする輩がいるかもしれないが、この魚は食材には適していない。美味い不味い以前に、毒があって食べられないのだ。
商船に乗る者がそれを知らないとは思えない。しかし、紅鎌魚は明らかに商船を狙っている。
「お、俺たちは何もし、知らない……」
「嘘くせえなあ。ティナ!」
「はい」
離れた場所で戦っていたティアナンが、剣を振るいながらさっと近づいてくる。騎士の中ではかなり小柄で細身の彼だが、その戦いぶりは副団長の名に相応しい見事なものだ。効率よく最小限の動きで紅鎌魚を仕留めている。
「原因を調べてこい。二、三人連れてっていいぞ」
「分かりました。ケイフォン、ローダ、行くぞ」
「はっ!」
ティアナンと二人の騎士は、踵を返し船内に入っていった。
もう甲板の床は紅鎌魚の死骸で埋め尽くされている。戦いながら海に蹴り落としてはいるが、追いつかず増える一方だ。さらに、数少ない死骸のない場所も、血で濡れており、足場は最悪の状態だった。船上での闘いに慣れたヴォードでさえ、何度か足を滑らせそうになった。新人騎士たちの間からは、ひっきりなしに気合い以外の声が上がっている。それでも致命傷を負っていないのは、流石というべきだろう。
「お前ら、大丈夫か」
「だ、大丈夫です! 問題ありません!」
ちょうど紅鎌魚の死骸につまづいていた新人騎士の一人が、慌てて体勢を立て直しながら答える。
「いい返事だ。最後まで気い抜くんじゃねえぞ」
にやりと笑うと、ヴォードは向かってくる紅鎌魚に剣を振り下ろす。剣の勢いを殺すことなく、後ろを振り向き、今度は下から振り上げる。上に高く跳び、身体を回転させながら、三匹の紅鎌魚をほぼ同時に斬った。
「ローディスで一番恰好いい、このクレイ・ヴォード様に斬られるんだ。ありがたく思えよ!」