17話 焦りと怒り
ライカとダレスが正気を失った獣に剣を振り下ろしたころ、ナナリノはただひたすら走っていた。
慣れ親しんだ町の中を、何度も転びそうになりながら。記憶の奥底にしまい込んだはずの凄まじい恐怖と戦いながら。
見慣れた町の見慣れない風景。当たり前だった町の住人の笑顔はどこにもなく、ずっと変わらず存在し続けると思っていた家々は見る影もない。
聞こえてくるのは、怒号や悲鳴、呻き声にすすり泣く声。視界に映るのは、逃げる者、動かない者、叫ぶ者に戦う者。『緑の夢』の老主人の人の良さそうな笑顔を見たのが遠い昔のことのように思えてくる。実際にはまだ二刻も経っていないというのに。
本当なら今すぐどこかで指揮をとっているはずの隊長の許に行き、指示を仰がねばならない。しかし、ナナリノの足は迷うことなく、母ヨクルチァが営む宿『風の名残』に向いていた。まず何よりも母の無事を確かめたかった。
「お母さん……」
狂暴化した獣の襲撃で父が死に、今また同じ状況で今度は母を失うことになったら。考えただけで涙が込み上げてくる。
「大丈夫、絶対に大丈夫。お母さんは私より強いもの」
眼尻に浮かんだ涙を手の甲で乱暴に拭うと、ナナリノはそう自分に言い聞かせ、走る速度を上げた。
「お母さんっ!」
『風の名残』の前で複数の人間に交じって弓を構えているヨクルチァの姿を見たナナリノは、安堵のあまり地面に座り込みそうになった。そんな緊張の糸が切れた彼女に、一匹の獣が背後から迫る。
「ナナ!」
「えっ?」
一瞬の出来事だった。
ヨクルチァの切羽詰まった声を聞いたナナリノが、首を動かすその真横を風が通り過ぎていき、彼女が後ろを振り返ったときには、跳躍していた獣が地面に落ちるとろこだった。獣の眉間には真っ直ぐ矢が突き刺さっている。
こんな芸当が出来るのはヨクルチァしかいない。彼女の通り名“疾風のクル”は風よりも速く、そして精確に矢を射ることからきている。足の怪我で賞金稼ぎを引退しても、その弓の腕は衰えてはいなかった。
「あ、ありがとう、お母さん」
礼を言いながらナナリノはヨクルチァに近づく。母は無事で、自分を助けてくれた。ナナリノの頭は喜びでいっぱいだった。
だから、ヨクルチァに張り倒されても一瞬何が起きたのか分からなかった。
「こんなところで何やってんだい! あんたのやるべきことは呑気に母親の顔を見に来ることじゃないだろ!」
「で、でも、砂漠から戻ったら、町がおかしくて、お母さんが心配で」
本気で怒っている母親に、身を縮ませながら口を開く。容赦なく叩かれた左頬がひりひり痛い。
「あんたは兵士になったんだ。兵士の役目は町と民を護ることだろう。もっと自覚を持ちな」
ぎろりと娘を睨むヨクルチァに、一緒に戦っていた賞金稼ぎ風の男が、後ろから「まあまあ、クルさん、もうそのくらいで」と話しかけるが、彼女は「うるさいよ。あんたは黙って剣を振ってな」と一蹴し、見向きもしなかった。
「……ごめんなさい」
ナナリノはしゅんと項垂れる。ヨクルチァの言っていることは正しい。倒れて呻いている人を無視して母親の許に向かうなど兵士失格だ。
「隊長は中央広場で指揮をとってる。すぐに行きな」
「はい」
とぼとぼ歩きだすナナリノ。そんな彼女の背にヨクルチァが「ナナリノ」と声をかける。
「顔が見れて良かった。死ぬんじゃないよ」
その一言が、沈んでいたナナリノの顔を一気に明るくさせた。
「……うん!」
ナナリノは顔を上げ走り出した。自分の横を矢が通り過ぎ、前にいた獣が倒れても、振り返ることはしなかった。
「くっそ、一体何が起こってんだ。おい、状況を報告しろ!」
騒然とした中央広場に、苛立ちを募らせたユイレマ警備隊長の怒鳴り声が響く。
もう十匹以上は倒しており、剣は獣の血に染まっているというのに、一向に数が減っていない。それどころか増えているようにすら感じられる。
上空に轟屠虫の群れが見えると報告を受け、詰め所の外に出た隊長が見たものは、子供の大きさほどもある虫が次々と建物にぶつかるという異様な光景だった。たちまち建物は轟音を立てて崩れ、いくつかからは赤黒い炎が上がった。状況についていけない隊長の許に、今度は砂狼が襲来したとの報告が届く。
轟屠虫も砂狼も、砂漠にいる人間を襲うことはあっても町まで来ることなど滅多にない。しかも同時に集団でなど、聞いたことがなかった。
しかし、聞いたことがないとはいえ現実に起きているのだ。ユイレマの警備を預かる者として、何としても獣から町を護らなければならなかった。
王都に救援要請を出した隊長は、すぐさまユイレマにいる全兵士に獣の殲滅と民の避難を指示し、自身も被害が集中している町の中央へと出た。
そして今に至る。
「南から砂狼の群れが再び襲来! 入口に配置した兵士だけでは防ぎきれません!」
「住人の避難はほぼ完了しました! しかし、負傷者の救助には未だ至っておりません!」
「兵士も次々と負傷しています! 隊長、このままでは!」
「分かってる! ヨクルチァさんたちも頑張ってくれちゃいるが、このまま延々と襲ってこられたら援軍が来る前に俺たちは全滅だ」
だんっ、と地面に足を叩きつける隊長。
武器も無尽蔵にあるわけではない。獣を射続ければやがて矢は尽きるし、獣を斬り続ければ剣は鋭さを失う。
何より、突然のことすぎて態勢を整えることすらままならなかった。万全の状態で迎え撃つことが出来ていれば、ここまで混乱することはなかったはずだ。
「くそっ、何か、何か策はねえのか!」
「ありますよ」
「ああっ!?」
この緊迫した場に相応しくない落ち着いた声が後ろから聞こえ、勢いよく隊長が振り返ると、そこには優雅に剣を振るう、信じられないほど綺麗な顔をした男がいた。




