10話 キールの災難
碧南海に臨む宿『夢見草』。その一室。
広々とした空間は、高級宿らしく細部に至るまでこだわって造られている。宿泊客には最高のもてなしを。そんな宿の思いが伝わってくるようだ。
しかし、今現在、部屋には快適とは程遠い空気が漂っていた。重苦しいなんて生易しいものではない。錯覚ではなく、本当に息が出来なくなってくるのだ。その証拠に、部屋にいるキールの顔色がどんどん青くなっていっていた。
「…………」
部屋の空気が凶器に変わっている原因。それは、ローディス国第三騎士団団長ダレスの視線だ。凄まじいまでの殺気が篭められた視線がキールに向けられている。
殺される。キールは本気でそう思った。
「遅くなりまして申し訳ございません、ダレス様」
意識が遠のいてくキールの窮地を救ったのはライカだった。ダレスの殺気にはもちろん気付いていたが、原因には気付いていない。自分と同じく、ローディスの平安を奪おうとするセアルグに対して怒りを覚えているのだろうと思っていた。
「…………」
ライカを見たダレスの殺気が和らぐ。視線から解放されたキールは、空気を求めて深呼吸を繰り返した。
「こちらはマールの双子の弟のキールです。情報収集能力に長けているため、同道してもらうことにしました」
「…………そうか」
ライカの言葉を受けて再びダレスはキールに視線を向ける。
先ほどまでの殺気は消えていたが、それでも恐ろしいことに変わりはない。キールは身を竦ませて頭を下げた。
「えっ、と、キールっす。よろしくお願いしますっす、ダレス団長様」
「…………」
「どうかなさいましたか、ダレス様」
無言のままキールを見るダレスに、ライカが訊ねる。
「…………ルークだ」
眉間に皺を寄せたダレスは、しばらくの沈黙のあと、小さな声で呟いた。
「え?」
「ルークと呼べ。様付けもするな」
今度ははっきりとした声で言う。
なるほど。リムストリアには第三騎士団団長として行くわけではない。身分を伏せて行動することになる。当然のことながら、ダレスが着ている服も騎士服ではなく私服。胸の開いた濃紺のシャツに黒のズボン、それに黒の上着は、賞金稼ぎに扮しているのだろう。リムストリアの民が、他国の騎士団長の名を知っているとも思えないが、誰がどこで聞いているか分からないのだ。用心するに越したことはない。
「分かりました。では、ルークさんとお呼びします。キールもいいですね?」
「は、はいっす!」
キールは背筋をぴんと伸ばして返事する。間違えれば海に落とされるどころではすまないだろう。ルークさんルークさんルークさんと、キールは繰り返し口の中で呟いて脳に記憶させた。
「死獄石の注意を促す文書を渡す名目でヴォードが『朱の霞』に会いに行く。俺たちはそれに同乗する。出発は二刻後の夜三の刻」
「『朱の霞』……バルドゥク王の戴冠式にも何名か来ていましたね」
言いながらライカは、リムストリア女王シャラトゥーラの傍に付き従っていた者たちの姿を思い出す。
「相変わらず素顔は見せなかったがな」
『朱の霞』はリムストリア女王直属の親衛部隊。常に朱色の外套で全身を覆っていることから朱衣とも呼ばれる。国の紋章が彫られた仮面を付け、決して素顔を見せることはない。隊員全員が女性の精鋭部隊ということ以外公にされていない、謎に包まれた部隊だった。
「私からもお伝えすることがあります。滅びの息吹と関係があるかは分かりませんが、リムストリアでは瀕死の者が奇跡的に回復するという現象が起こっているようです」
ライカは船商人から聞いた噂を話した。
「滅びとは逆か」
「はい。ですが、気になりましたので関係があるかどうかも含めてもう少し調べてみたいと思います」
「分かった」
ダレスが頷くのを見て、後ろでダレスの名を呟き続けているキールに視線を送る。恐怖と緊張で思考が正常でなかった彼は、ライカに三回名を呼ばれてようやく我に返った。
「情報収集、お願いしますね」
「任せて下さいっす!」
頼りにされ嬉しそうに張り切るキール。しかし、ダレスに睨まれ、元に戻っていた顔色が再び急速に青に変わっていった。
「それともう一つ。リムストリアには幸福になれる薬というものがあるらしいのですが、先ほどこの町の酒場の店主に薬について訊ねたところ、リムストリアの兵士には言うなと忠告を受けました」
顔を前に戻したライカは、キールの変化に気付かず淡々と話を続ける。
「……何かありそうだな」
「私も同意見です」
頷くライカの後ろで、顔を真っ青にしたキールも何度も首を縦に振っていた。
「あの国では何が起こっているのか」
ダレスは窓の外に広がる海に眼を向けた。月明かりに照らされた海は黒く、綺麗だが昼とは違う不気味さがあった。




