陸之語部
悲しみ以外は何も無い使命と、誰にも分かってもらえない孤独……自らの感情を押さえ込み、心を閉ざさなければ耐えられない程つらかったんだろうな。
初めて優しさに触れた事が嬉しい、そう言って涙を流す彼女を今はただ見守る事しか出来なかった。
しばらくして少し落ち着きを取り戻したように思えたので俺は声を掛けてみた。
「ちょっと待ってて、何か拭く物を持ってくるから」
まずは雨でずぶ濡れになってるこの状態を何とかしないとな、春とは言え夜はまだまだ冷える。
代わりの服が無いから着替えるのは無理だとしても、せめてタオルで髪を拭いて乾かさないと、このままでは彼女が風邪をひいてしまう。
『私は大丈夫ですから……』
見るとそこには天を仰ぎ、淡い光に包まれる彼女の姿があった。
今まで濡れていた髪や着物が乾いて元に戻っていく、その光景は彼女が人間では無い存在なんだと再認識させられるほど神秘的で美しいものだった。
その姿に見惚れている時、ふと先程まで大声で力説していた記憶が甦ってきた。
ちょっと待てよ? もしかして最後の方は彼女の事を呼び捨てにしてなかったか?
よく思い出せ……
……………………
呼び捨てに……してたな……
もちろん普段の俺は女性を呼び捨てになどしない。
まぁ、呼び捨てにするどころか"さん付け"でも名前の方で呼ぶような女友達が一人も居ない、と言うのが現実なんだが。
ふぅ、自分で言ってて虚しいな。
それはさておき、いくら感情が昂ぶってきて抑えられなかったとは言え、あれってどうなんだ?
女性の心理はよく分からないが、調子に乗ってる軽い男だと思われて嫌な気持ちになったんじゃないのか?
……………………
考えてても仕方ない、ここは素直に謝ろう。
「その、さっきはごめん」
彼女は不思議そうな表情をした。
「興奮してたとは言え大声で呼び捨てにしてたから、神様なんだから"様"か、最低でも"さん"を付けて呼ぶべきだったよね……って、そうか、そもそもあれは本当の名前じゃ……」
そうだよ、確か本当の名前は天之月読神だったよな? いったい何て呼べばいいんだ?
『ミコトで構いませんよ……』
少し微笑むその顔は今まで見た事の無い表情だった。
『ミコトって呼ばれた時、嫌な気持ちは全くありませんでした……むしろ優しさとぬくもり伝わってきてとても心地良かったです……』
そ、そうなのか?
『だから、その……出来ればこれからも"ミコト"と呼んでもらいたいです……』
うつむきながら照れる姿が可愛い。
慣れない事で少し恥ずかしい気もするがそれが彼女の希望なんだし、何でもするって決めたばかりだし、よし!
「じゃあ、その……えっと……ミ、ミコト」
『はい、一郎さん』
は、恥ずかしい! 口元が緩んでにやけてしまう、耐えろ! 耐えるんだ俺!
冷静を装うのがこんなに難しい事だとは知らなかった。
「ちょっとだけいいかな?」
濡れた服を着替えないと俺も風邪をひきそうだったし、何よりこのままだと「ずぶ濡れのまま玄関前で独り言をぶつぶつ言う変な男がいます!」って近隣の住人が警察に通報するかもしれないからな。
俺は扉の鍵を開け、彼女を部屋の中へと招き入れた。
言っておくが決して下心がある訳じゃないからな、そこの所は勘違いしないように、って誰に言い訳してるんだ俺は。
着替えを済ませた後、まずは少し疑問に思った事を彼女に聞いてみた。
「ミコトに聞きたい事があるんだけど……もちろん嫌な事は話さなくてもいいから」
日本神話の本には八百万の神と言って多くの神様の名前が書いてあった。
そんなにいっぱい神様が居るのにどうして彼女だけがつらい使命を与えられてるんだ?
息を引き取ると言うのは他の神様には出来ない事なのか?
誰かがやらないと駄目なのは分かる、死と言うのは人間にはとても大事な事だからな。
それに嫌な事は他の誰かに押し付けたりって、そんな卑怯な事は出来ないのも分かる、でも、何人かの神様に命じて一週間交代でやるとか、せめて一年交代とか、他にも色々と考えられそうだけどそれは駄目なのか?
とにかく彼女だけが苦しんでる現状が納得できない。
出来る事なら彼女に命じた別天神とやらに文句を言ってやりたい。
『どうしてこの国には数多くの神が居るのか一郎さんは分かりますか?』
言われてみれば確かに不思議だよな?
調べる時に日本神話以外の本も何冊か読んでみたけど、八百万人って数はどの神話と比べても桁違いに多いしな。
『この地に在る物……空気や水や火……草木や土……その全ての物に神は宿っています、そしてそれぞれの神が雨や風と言った自然現象を司り、見守っているんです』
全ての物とそれに関する自然現象って、神様の仕事ってそんなに細かく役割分担されてるのか? それじゃ何人居ても足りないと思うし大勢居て当たり前だよな。
『神と言っても決して万能な訳ではなく、私自身も司っている事は一つしかありません』
まぁ自然現象って言う凄い事を管理するんだからたった一つでも大変だと思うけど。
『夜の闇に在る月のように黄泉之国の闇を照らし、道を見失い迷ってしまった者の魂を正しい方向へと導く……それが私に出来る唯一の事であり、私の存在の全てなんです……だからそれを拒否してしまう事は、神としての私の存在そのものを意味の無いものにしてしまうんです……』
なるほどな、息を引き取ると言う使命は彼女にしか出来ない事なのか。
この使命はこの先もずっと続くのなら、ずっと悲しみを背負い続けるのなら……せめてこの二週間だけでも彼女の心の負担を無くしてあげないとな。
それと、あともう一つ疑問があるんだがこっちの方は聞いていいのかどうか考えてしまう。
「ちょっと変な質問なんだけど、ミコトは普段どこに住んでるのかな?」
質問しておいてなんだが、住んでるって表現は少し違和感があるな。
人間の世界に戸籍がある筈ないし、家があってそこに住んでる訳でもないだろうし。
『私達は自然と共に存在し人を見守っていますから"住む"と言う概念はありません』
特定の場所に留まるのではなく、いつも人間を見守っていると言う事か。
それなら、よし! 思い切って言ってみよう!
「もし、もし良かったらでいいんだけど、行く所が決まって無いんだったら、その……息を引き取ってもらうまでの二週間、ずっと俺の傍に居てくれないか?」
言っちゃったよ! もう引き返せないぞ!
少しの時間しか経ってないのに沈黙が重苦しい。
『一郎さんがご迷惑でないのでしたら……私は……』
恥ずかしがるこの表情、この仕草、女性と付き合った事の無い俺でも分かるぞ、 これはOKって事だよな?
「迷惑だなんてとんでもない! 息を引き取ってもらうその時まで、俺は1つでも多くの感謝と幸せな想いをミコトに伝えるから!」
『……はい』
笑顔で答える彼女の目にはもう悲しみの影はなかった。
こうして俺以外には見えない彼女との、奇妙で不思議な同棲生活が始まった。