肆之語部
昨日の事が心に深く突き刺さり何も手につかない。
どうして俺はあんな事を聞いてしまったんだと言う後悔の念と、自分の無知さ加減への怒りが交錯して心が押し潰されそうだ。
彼女の言った事を少しでも理解したい、彼女が何に苦しんでいるのかを知りたい。
二度と会えないかもしれないし、仮に会えたとしても声を掛ける事はおろか目を合わせる事さえ拒否されるかもしれないけど、彼女の悲しみを少しでも軽くする方法があるなら……そんな気持ちで俺は朝から大学の図書室に来ていた。
まずは意味が分からなかった言葉から調べよう、そうしないと話の流れが掴めないからな。
たしか「ヨモツヒラサカ」だったと思うが……なるほど、漢字だと「黄泉比良坂」と書くのか。
これは日本神話で使われる言葉で黄泉之国、つまり死者の国の入り口へと続く坂道の事らしい。
どうやら彼女の心を縛り付けてる物は日本神話の中にあるようだ、ならばその呪縛を説く方法も日本神話の中にあるかもしれない。
僅かだが糸口を見つけたように思えた俺は図書室にある神話関係の本を夢中で読み漁った。
大昔の人は生きていると言うのは"息をしている事"そして死ぬと言うのは"息をしなくなる事"……そう考えていたらしい。
確かにレントゲンや医学的な知識が無い時代に見ただけで判断できる明確な"生と死の違い"なんてそれくらいだと思うしな。
それと初めて知ったが人は死ぬ直前には必ず息を吸ってから死ぬらしい。
これに関しては実際に見た訳じゃないから何とも言えないが、いくつかの本に書いてあるのでどうやら本当の事のようだ。
だからそれを見た大昔の人は死んだ人の魂が黄泉之国へ行くには"直前に息を吸う事"が絶対に必要な事だと考えた訳だ。
うんうん、ここまでは理解できる。
と言う事は、事故や何かで突発的に死んでしまった人の場合は"直前に息を吸う"事が出来ないから黄泉之国への入場チケットが無い状態になってしまい、せっかく黄泉比良坂を通って入り口まで行ってもそこで追い返されちゃう訳だ。
そうなると死者の魂はどうなるんだ? 死者の国には入れないし、かと言って生き返って現世に戻ってくる事も出来ないし、行く場所が分からず永遠に黄泉比良坂を迷い続ける……と言う事か。
そこで出てくるのが死んでしまった人の代わりに黄泉之国への入場チケットを手に入れて、死者の魂が中に入れるようにしてあげる行為……つまり"息を引き取る"と言う行為な訳だ。
なるほどな、死に対してはこんな考え方もあるんだな。
でもこれでようやく一連の言葉の意味と繋がりが分かってきたぞ。
彼女はきっと自分の不思議な力に悩み、苦しみ、色々と調べてるうちに日本神話の考え方に辿り着いたに違いない。
その後も俺は日本神話について詳しく調べ続け、気が付いた時にはすっかり陽は落ちていた。
帰る身支度をして図書室を出ようとした時、友人の一人が声を掛けてきた。
こいつの名前は山本太郎、悪友と言うか何と言うか、まぁお互い平凡な名前同士で妙に気が合う親友の一人だ。
「おい田中、昨日の喫茶店のあれは何なんだよ」
どうやら彼女と一緒に居る所を見られたらしい。
批難されるのは当然だ、女の子を泣かせるなんてどんな理由があるにせよ許される事じゃないからな。
「一人で焦ったり騒いだり、あれ芝居の練習か何かか? 店の従業員も引いてたけど周りから見たらかなり気持ち悪いからやめた方がいいぞ」
こいつの性格は分かってる、落ち込んでる俺を見かねて冗談でも言って慰めようと考えてるんだろうが今は逆効果だ、必死に我慢するが気持ちがイライラして尖った態度をとってしまいそうだ。
きっと口を開くと怒鳴り声しか出てこない、そう思い俺は無視してその場を後にした。
重い足を引き摺るようににアパートへ向かう俺に雨の洗礼まで襲ってきた。
気持ちがますます暗くなる……今日のバイトは休む事にしよう。
アパートの扉を開けようとした途端、近くで車のブレーキ音が鳴り響き、続いて衝突音と破壊音が聞こえてきた。
雨でスリップ事故でも起きたのか? 大きな事故じゃないといいが。
その時、ふと嫌な考えが頭をよぎった。
そんな事は無いと思うが、もし酷い事故だったとしても彼女はこの雨の中を来たりしないよな?
いくら自分に特別な使命が与えられてると思い込んでいても……
でも……まさか……
俺は強い不安に襲われ、気が付くと傘も持たずに走り出していた。
事故現場は想像以上に酷い有様で車は原型を留めておらず中で男性がぐったりとしている。
そんな中、雨で全身ずぶ濡れになりながら車の傍にたたずむ彼女の姿があった。
それを見た俺は無意識のうちに彼女に駆け寄り大声で怒鳴っていた。
「こんな雨の中で何やってるんだよ!」
『息を……引き取ってるんです……』
「それは分かってる! 俺が言いたいのはそんな事じゃなくて!」
『でも……これは私の使命だから……』
憔悴しきっている彼女を見ていると何も出来ない自分への悔しさと共に、こんな考えを書き記した日本神話に対してさえ八つ当たりとも言える怒りが込み上げて来て感情が抑えられない。
特別な力があるのは分かる、それによって心を痛めているのも分かる、だけど死期の分かった相手が命を落とすのはの彼女のせいじゃない。
たとえ死の原因が分かっていたとしても、実際にそれが起きてしまったとしても、それは彼女のせいじゃない。
彼女が自分を責めたり追い込んだりする必要がどこにあると言うんだ。
俺は考えのまとまらないまま大声で叫び続けた。
気が付くとパトカーと救急車のサイレンに囲まれ、周りには野次馬の人だかりが出来ていた。
「そこで何をしている!」
警官の一人が声を掛けてきた。
事故現場で雨に濡れながら男性が怒鳴り散らし、その傍で女性が泣いている現状はどう見ても怪しすぎる、職務質問されて当然だ。
別に悪い事をしてる訳ではないが今は警官に関わりたくない。
「すみません、ちょっと彼女と喧嘩しちゃって、ほらキミも謝って」
俺は警官に頭を下げつつ、彼女の頭に手を置き下げさせる振りをした。
「それは何の真似なんだ?」
「え? 何のって?」
「さっきから一人で叫んで一人で謝って」
ちょっと待て、この警官は何を言ってるんだ?
「酒でも飲んで酔ってるのか? それとも我々をからかってるのか? どちらにせよここは立ち入り禁止だ、早く離れなさい!」
訳が分からなくなった俺は彼女の腕を掴み、無我夢中でその場を走り出した。
なんなんだよこれ、一体どう言う事なんだよ。
頭の中を考えてはいけない事が駆け巡る、この考えの答えを見つけてはいけない様な気がする。
俺は彼女の腕を引っ張ったままアパートの前まで戻っていた。
「ははっ、あの警官も冗談きついよな、キミの事が見えない振りするなんて」
明るく笑い飛ばし悪い考えに陥らないように努力するが、過去の記憶が、みんなのセリフが頭の中に甦り何度も繰り返し鳴り響く。
"いらっしゃいませ、お一人様ですか?"
"一人で焦ったり騒いだり、あれ芝居の練習か何かか? 店の従業員も引いてたけど周りから見たらかなり気持ち悪いからやめた方がいいぞ"
"さっきから一人で叫んで一人で謝って、酒でも飲んで酔ってるのか? それとも我々をからかってるのか? どちらにせよここは立ち入り禁止だ、早く離れなさい!"
…………
まさか……
いや、そんな事ある筈が……
でも……
………………………
「キミの姿は……俺以外には見えていないのか?……」
静かに問いかける言葉に対し、彼女は無言のまま小さくうなずいた。