三原と不思議な沼
「しげ坊、よし坊、釣りに行かんか?」
連休中に珍しく暇をしていた三原重治と檜貝孝高に対して、弟切荘を訪ねてきた大男は早々に切り出した。禿げ上がった頭に飛び出た目、どことなく魚類を思わせる印象の筋骨隆々なこの老人。名は衿本研三と言う。
この祖父の友人は、堅洲町釣り愛好会なる集まりの会長をしていた。魚を釣るのも食べるのも飼うのも大好きという、魚の魅力に取りつかれた男である。この堅洲町のみならず、様々な場所に出向いては釣り糸を垂らす生活を送っているのだ。
とは言え、彼は他人に自身の趣味を押し付けるような図々しい年長者ではない。祖父の重氏と違って、三原が釣りその物にそれ程興味を持っていないことを十分に承知していた。
そんな彼が釣りを誘う理由を、三原は目ざとく察する。
「けん爺、どんな釣り場なんだ?」
眼鏡の奥の好奇心を隠そうともせず、三原は研三に尋ねる。
神童とまで讃えられた頭の良さが祟り、まだ若いながらも既存の数字で割り切れる世の中に退屈していた三原を、この堅洲に導いたのは今わの際の祖父の言葉であった。この世にはまだまだ人間の知識では割り切れない存在がいるものだという言葉を、三原はこの地に赴いて初めて真実だと認識できたのだ。
怪奇、怪異、オカルト……非科学的とされるそれらが力強く息づくこの地に、三原はたちまち魅了された。この地で生活するようになってまだ一年もたっていないというのに、かつては齢に見合わない醒めた表情を常に浮かべていた少年の顔は、見る見るうちに生気を取り戻していったのである。
そんな様子の親友の孫を見て、何かと面倒を見てくれる研三。彼が自身の趣味に三原を誘うというのは、決まって釣り場で奇怪な現象が起こった場合に他ならない。
「うむ。これを見てくれ」
催促するような三原の視線に微笑しつつ、研三は自身の携帯電話……そこに写った画像を見せる。その写真には、研三と同じく魚に似た顔の男が困惑した様子で釣りあげた魚を掲げていた。
「お~、夏も終わったってのに丸々太って立派なスズキじゃないか。外道だったのかい? 全然嬉しそうな顔じゃないけど」
三原の部屋でだべっていた悪友の檜貝が、覗き込んだ画像についての感想を述べる。
「まあ、外道だな。ただ、問題はこれが釣れた場所なんだ」
「どこで釣ったんだ?」
「境の森だ」
境の森。三原にとっては聞き馴染みのある場所であった。町の裏……怪異の世界を実質的に治めている武藤家の魔王達が、戦国時代に周辺国からの侵略を防ぐ目的で一から作り上げたのがそれだった。堅洲町をぐるりと取り巻くように囲む緑の防波堤は、人里に馴染めない怪異達の住処として機能している。一応道路が幾つか通ってはいるものの、基本的に一般人が踏み込んでいい場所ではないと、三原は人外の友人達から教えられていたのだ。
「……まあ、けん爺達が普通の人間とは違うのはわかるけどさ。わざわざ境の森から海釣りなんてマネして何か意味でもあるのか?」
「森の栄養が濃いから立派な魚が取れるとかじゃないかい?」
三原達の言葉に、研三は首を振った。
「海じゃないんだよ」
「は?」
「聞いて驚け。このスズキ、境の森の沼で釣れたんだ」
「ちょいちょい。けん爺、ボケちゃった? スズキだよスズキ。英語で言うとシーバス。ブラックバスじゃないんだ。なんで海水魚が淡水で釣れるのさ?」
「不思議だろ、よし坊? こいつらからの写真をもらった時は、俺もそうつっこんだもんさ」
何でも、堅洲町釣り愛好会のメンバーが鯰を釣りに境の森に出かけた際、見知らぬ沼を見つけたのだそうだ。これまでも許可を貰った上で何度も足を踏み入れていたはずの境の森。今まで良い釣り場を探してきたために広大な緑の地形をおおよそ把握していた彼らにとって、この沼は突如として現れたとしか言いようのないものだったらしい。
とは言え、彼らは釣り愛好家。目の前に立派な沼があるのなら、釣り糸を垂らしてみたくなるのが性であった。不安と期待を込めて竿を振り、かかった釣果。それが写真のスズキらしかった。
「俺も結構境の森で釣りをしてきたが、こんな沼の事なんて知らなんだ。今まではぐれ魔術師の家が生えたりすることは何度かあったが、沼が生えたってのは初耳でな。どうだ二人とも。奇妙な沼、見に行ってみないか?」
その言葉に、三原と檜貝はニッカリ笑う。
「行かないと思うか、けん爺?」
「そうそう、面白そうじゃない。地下探索もしばらく行けそうにないし、不思議な沼での釣りとでも洒落込みましょうかね」
目と目が合う。じりじりと後退り。そのままそれは、茂みをかき分けて森の奥へと去っていく。
ここは境の森。唐突な猪との遭遇に心臓が跳ね上がった三原と檜貝であったが、件の獣は恐ろしいまでの静けさを保ったまま一同の前から消えていった。
さすがの猪も、多勢に無勢を見て取ったのだろうか。あるいは、三原達が行動を共にしている面々が発する異様さを、野生の感が感じ取ったのかもしれない。
誰もかれもが魚面。この森に釣りをしに訪れているというのは本当なのだろう。彼らの飛び出し気味の目は、唐突の野生との遭遇にもまるで動じた様子がない。とは言え、困惑はあったようで。
「なんか人間臭い動きの猪だな? 抜き足差し足忍び足って感じで後退していきおった……」
「……怪異の類じゃないのか? この森には沢山住み着いてるんだろ?」
「そんな感じには見えなかったのう……」
三原の言葉に首を傾げる研三。チラ、と同行者の一人に目を向ける。
視線を受け止めたのは赤毛の少女だった。むさ苦しい男達が大多数を占める堅洲町釣り愛好会の面々の中にあって、唯一の女性。顔も魚面ではなく、むしろそれを狙う猫のような印象を覚える美少女だ。
ゼルと名乗る彼女の本名は誰も知らない。どこから来たのかも、これまでどんな生活をしていたのかも謎。唯一分かっている事は、彼女が武藤の「箱庭」に居候をしているという事実だけ。
そんな彼女は研三にたいして首を横に振った。
「普通の猪っぽいよ、親方。魔力はさして感じないし」
「魔女のお嬢が言うからには怪異じゃないって事か」
「でも確かに気になるよね。『人間』の集団に遭遇した獣にしては、やたらと冷静な動きだったし……」
やはり、あの猪の動きにどこか違和感を感じる様だ。とは言え、特に被害を受けた訳でもなし。微かな違和感をぬぐい捨て、一同は目的の沼に歩を進めようとすると、再び茂みがざわめいた。
また猪か? そう考えて身構える一同の前に現れたのは、異形だった。一言で表すのならば、直立歩行する大型犬……顔が犬に挿げ替えられた人間にも思える。二人の和装の犬人間は、一同を確認して目を丸くする。
「三原に檜貝? こんな所で何してるんだ?」
「夜叉丸? それと孫六か」
流暢な人語で語りかけてくる犬人間。彼らは堅洲の地下に住まう食屍鬼であった。
「釣りだよ、釣り。地下探索、しばらくできないんだろ?」
「博士はもう少し待てと言っていたな」
この夏休みの最中、三原と檜貝は知り合った食屍鬼達と共に堅洲の地下に張り巡らされた地下回廊を探索して回っていた。ところが、ここ最近になって、食屍鬼の住処に居候している冥王星からの来訪者達が、鉱石発掘中に奇妙な石室を発見したのである。明らかに人工的な品々が見つかった事もあり、科学的、魔術的に危険性がないのかを調べる為、しばしの間地下探索を控えるように来訪者の博士に言われていたのだった。
「それにしても釣りか……できれば竿を納めて帰ってもらえると助かるんだが……」
「何かあったのかい?」
「まあね。武藤の末姫様の手伝いで魔術師狩りの後始末中なんだよね、僕ら」
小柄な食屍鬼、孫六が頭をかいてそう言った。
戦国時代も彼方に過ぎた現代、他国からの防護壁としての役割を終えた境の森は人の世で生きる事を拒む怪異達のために解放されていた。本来ならば獣としての性に従い、文明から離れて生きていたい怪異達のための場所であるのだが、中には堅洲の規則に従いたくないが堅洲の膨大な魔力だけは利用したいと考えてここに住み着くはぐれ魔術師達が少なからずいた。
問題さえ起こさなければ放置しても良いのだが、生憎とこの手の連中にそれは望めない。何せ、規則を守れば魔力が使い放題の堅洲にあって、どうにか規則の裏をかけないかと考えるような輩である。規則よりも自分の感情を優先するような奴らに、鯖江道で暮らしている穏健派のオカルティスト達のような協調性など求められるわけもなく、何らかの独りよがりの実験や儀式によって問題を引き起こすのは常であった。
「問題を起こした魔術師は鎮圧できたんだけどね。奴が飼育していた魔獣が一匹、森に逃げ込んだらしくってさ。今森をうろつくのは危ないよってこと」
「魔獣? どんなだい?」
「毒竜だ」
「分かりやすく言えば、ドラゴンだね。ほら、ゲームとか漫画とかに出てくる、翼の生えたデカいトカゲ。あれを想像してくれればあってる」
「ドラッヘ?」
食屍鬼達の言葉に反応したのはゼルだった。
「ねえ、その毒竜ってさ。もしかして人を食べた個体?」
夜叉丸が溜息をついて肯定する。
「あっちゃ~……そりゃまた面倒なことになったね……」
「どういう事だい、ゼルちゃん? 人の味を覚えると人里を襲うようになるとか、そんな理由かい?」
「ちょっと違うかな、よっしー。魔獣の中にはさ。捕食した生き物の姿や記憶を乗っ取る事ができる奴がいるんだよ。竜もその一種って訳。人間を食べていない個体だったならただの獣害で済むんだろうけどさ、人の知性を得た竜だと災厄を招きかねないんだ。竜の力に人間の知性。怖いよ~、人間の悪辣さが加わった竜ってのは」
「随分詳しいな」
「……まあね。これでも長い事魔女として生きてるから」
「そこのお嬢さんの言う通りでな。魔獣とは言え動物。習性をある程度知っていれば、どこに逃げ込んだのかがある程度割り出せるんだが、そこに人の知性が加わるとなるとな」
「隠れられそうな場所は大体調べたんだけど、どこも見事に空振りでさ。困ってるって訳だよ」
夜叉丸達の言葉に、研三は肩を落とす。
「そんじゃあ仕方ないなあ……武藤の仕事を邪魔するわけにもいかんし、あの変な沼での釣りはまた今度にするか……」
「変な沼? ここいらにそんなものがあったか?」
夜叉丸からの質問に、研三は自分達が境の森にやってきた理由を話した。海水魚であるスズキが取れる、見知らぬ沼。その事を知らされた夜叉丸と孫六が顔を合わせる。
「この森にそんな場所はなかったはずだ……なあ、夜叉丸。もしかして……」
「かもしれませんね、先輩。研三殿。良かったらその沼に案内してくれないか? もしかしたら俺達の追っている奴がそこにいるかもしれない」
「危険かもしれないけどさ、できる限り皆を守る努力はするよ。お願い、このとーり!」
手を合わせて懇願する食屍鬼の青年達。その頼みを断る理由など研三達にはなかった。多少の危険に怖気付くようならば、そもそも怪異の住処たる境の森になどに足を踏み入れたりはしない。釣りが中止にならなくてよかったと魚面に笑みを浮かべる愛好会の面々を見て、堅洲民のタフさを再認識する三原と檜貝であった。
木陰が落ちて、薄暗い獣道を抜けると、急に開けた場所に出た。目の前には日の光を反射して輝く水面。ここが件の沼らしい。
「いつの間にこんなものが……」
夜叉丸の呟きに、研三も同意とばかりに頷いた。伊達に何度も釣りをしに訪れている訳ではないらしく、この場所にこのような沼があった記憶は全くないと断言する。
ぱちゃん。
沼の表面を何らかの魚がはねた。静かな空間だ。小さな魚影が沼に戻っていく音も、耳にはっきりと届く程に静寂で満たされている。
愛好会の護衛を孫六に任せ、夜叉丸が沼の周辺を調べに立ち去った。その後ろ姿を見送ってから、研三達は早速沼へと釣り糸を投入し始めた。
早速研三の竿に当たりがあった。老人にあるまじき筋骨隆々な腕によって引き上げられたのは、二メートル越えの巨大な魚。釣り針から逃れようともがくその口には、鋭い歯がびっしりと。
「……アリゲーターガーだな」
淡水魚ではあるが日本には本来いるはずのない魚である。珍しいといえば珍しいが、観賞魚として飼育していたものの持て余すようになった不届きな連中が放流した個体が存在する事を考えると、沼の不思議を解き明かす存在にはなりえなかった。
「お、お? あたしの竿にもビーンときたよ!」
目を輝かせたゼルが釣り竿と格闘し始めた。
「お嬢の一投目か……また変なのが釣れるんじゃないか?」
「一つ、面白いものを頼むぞ、お嬢!」
「切幡、上絃、うっさいぞ! 見てなよ~!」
ゼルには何かと変なものを釣り上げるというジンクスがあった。毎回と言う訳ではないのだが、一月に二、三度、けったいな獲物を釣り上げてしまうのだ。
とは言え、今回はそのけったいな獲物が目的だ。この沼の異常性を調べるのに、彼女の奇才はうってつけと言えた。
さて、上がってきた釣果はと言うと。
「……なんでさ」
ワキワキと多脚を蠢かす巨大甲殻類。ダイオウグソクムシであった。
「お嬢の一投ではっきりしたな。この沼、真っ当な沼じゃない」
ダイオウグソクムシはれっきとした海洋生物だ。それも、深海に生息している生き物である。沼の定義は大体水深五メートル以内とされている。とてもこの甲殻類が生息しているような深さではない。
ゼルの釣果を合図にするように、愛好会の面々の竿にも魚達がかかり出した。釣果はまったくの出鱈目だ。河川、沼、湖に海……生息域がてんでバラバラの魚達がこの沼で一堂に会していた。
「本当にどうなってんだ、この沼」
「ガチャみたいで楽しくはあるけどねえ……と、ヒット!」
檜貝が引き上げた竿の先にはブルーギル。特定外来生物として有名なこの魚も、この沼の生態系の混沌具合からしてみれば、随分健全な魚に思える。
ぱちゃん。
水面から飛び出る魚影が一つ。ところがなかなか落下音が聞こえてこない。その魚影はまるで宙を滑るように移動している。よくよく目を凝らしてみれば、なんとトビウオ。それを追うように飛び上がる巨大岩魚。海水魚を捕食しようと追いかけまわす淡水魚……もう滅茶苦茶だ。季節感もなにもあったものじゃない。
檜貝は釣り上げたブルーギルを生きたまま魚籠に収める。本来、これらの外来魚は生きたままの輸送が禁じられているのだが、この沼の異常性を調べる為には必要な事だと研三に言われたのである。これらの釣果をダゴン秘密教団に調べてもらうつもりなのだ。少なくとも、この沼は自然に在っていいものではない。水辺に関わる怪奇現象を突き止めるには、餅は餅屋と言う訳である。
三原が何度目かの釣果である雷魚を魚籠に移そうとしたその時だった。
「しげちゃん危ない! 伏せて!」
ゼルの声に反射的に従うと、三原の頭の上を何かが掠めていった。
ぷぎぃ!
奇怪な鳴き声が茂みの中から聞こえてくる。
一体何が? そう思って三原が伏せたまま視線を巡らせると、茂みの中からよろよろと何かが這い出してきてそのまま倒れ伏す。
猪だ。そしてその頭には煌めく白銀の矢。
「……ダツ?」
英名ニードルフィッシュ。人体に突き刺さって死亡事故を起こす事もある海水魚である。それにしても何という大きさか。ゼルの警告がなければ、倒れ伏していたのは猪ではなく三原であったはずだ。
「だいじょうぶか三原!」
「ああ。しかし、まさか陸地でダツに襲われるなんてな……」
脳天からだくだくと血を流している猪に合掌していると、茂みのあちこちが騒めきだした。
落ち葉を踏みしめながら続々と姿を現すのは無数の猪達。野生の獣のものとは思えない、明確な悪意で血走った目が三原達に注がれている。
「許さん……許さんぞ人間ども……よくも我が同胞を……!」
怨嗟の籠った声が轟いた。
「何奴!」
孫六の言葉に、嘲笑した様子の声が返される。
「我を知らぬとは……武藤の飼い犬は躾がなっていないと見える……我が名は魔嶽……全ての猪の乳母にして守護者……そしてこの森の正当なる支配者である……!」
「あ~……」
先程まで緊張していた孫六の顔が途端に白けた。
「孫六、知り合いか?」
「初めて会ったけど、末姫様から報告だけは受けてたよ。獣の肉体を乗っ取って行動しているデカい猪の亡霊さ。何でも武藤が戦国の世に荒れ地から築き上げたはずのこの森に、千年以上も前に棲んでいたらしくてな。この森の所有権を主張して武藤を一方的に敵視しているらしい」
「……時系列おかしくないか?」
「おかしいとは思ってないんだろうねえ……」
なんとなく面倒な輩を相手にするかのような表情だ。言葉は交わせるのに意思疎通ができない可哀そうな相手を見るような瞳が茂みに投げかけられる。
「貴様らを人質に武藤に降伏を迫るつもりで付け回していたが気が変わった……偉大なる我が同胞を傷つけたその罪、如何にして償ってもらおうか……この魔嶽様の裁きを神妙に受けるがいい!」
ゆっくりと、茂みをかき分け現したその姿。それは隻眼の……瓜坊だった。
「なんか……ちっさくない? 末姫様の報告ではありえない程巨体の猪だって聞いていたんだけど……」
「なめるなよ犬面! 急ぎ復活しようとしたせいで波長の合う依り代がこやつしかなかっただけの話! 例え体躯は小さくとも、我が威光は減じておらぬわ! 我が魂の一撃を食らえええ!」
迫力もへったくれもない幼獣の全力突撃を孫六はひょいとかわす。
「ちょまっ! 躱すな貴様! ブレーキブレーキブレーキ」
魔嶽は急に止まれない。孫六に倣って道を譲った釣り愛好会の面々の間を駆け抜けていくと、その先には陽光を反射して煌めく水面。
飛沫は赤かった。
魔嶽が転落するその刹那、沼から飛び出してきた巨大な顎がその身を嚙み砕いたのだ。
口から滴り落ちるどす黒い血とは対照的な、鮮烈なまでに赤い鱗。紅玉の如く輝く悪意に満ちた赤い瞳。濡れた翼から雫が滴り落ちるそれは、まさに幻想世界から抜け出してきたかのようなドラゴンであった。
「うむうむ。美味也。獣もうまい。魚もうまい。まことに良い棲家を見つけたものよ。のう、そこの」
「どこで隠れて震えているかと思ったら、こんなとこにいたんだな。ご主人様はお縄に付いたんだ。面会に行ってやれよ、可愛いトカゲちゃん?」
嘲笑い、睥睨する。そんな調子のドラゴンの言葉に、孫六は釣り愛好会の面々を下がらせながら軽口を返す。異変を嗅ぎ付けたのだろう、夜叉丸も遠方から駆けつけてきた。
「おやおや、震えていたのはそちらではなかったかの、可愛い子犬殿? 妾はもう主らと一戦交えようと待っておったのだがの。中々こないかと思いきや、女子を相手にそんな大勢を揃えてくるとはな……ああ、ああ、魔術師殿は好きにして構わぬぞ? あのような狭量の輩に捕らわれていいようにこき使われていたのは妾としては屈辱もいいところじゃからの」
「そうかいそうかい。じゃあ、屈辱ついでにもう一度、この子犬ちゃんのお縄についてもらおうかな?」
挑発に挑発で返しつつ、孫六は夜叉丸と視線で意思を交わす。
(居候殿、防御結界は張れるか? 三原達を守ってやって欲しいんだが……)
(それはいいけど……あたしも手を貸した方がよくない?)
(いや、それには及ばない。見ての通り、それ程大きな個体じゃないからな。齢を重ねた奴ならともかく、こいつ程度ならば俺と先輩だけでも十分だ)
(オッケー、思い切りやっちゃって!)
小声でゼルとやり取りをした後、夜叉丸と孫六は白刃を抜く。旧日本軍の軍刀らしい。良く磨き抜かれたそれを目に、ドラゴンはニタリと口角を上げた。僅かにのぞく口内からチロチロと灯りが漏れる炎の揺らめき。
向かい合う食屍鬼と毒竜。結界内から固唾を飲んで見守る三原達と釣り愛好会の面々。魔嶽をやられて慌てて森の中へと逃げ出す猪達。戦いの火ぶたが切って落とされようとしたその時だった。
ドラゴンの背後で巨大な水柱が立ち上がった。すわ何事か。沼に集った一同がそれを見て呆気にとられる。それは巨大な蛇体だった。大蛇か、否。その頭部には牡鹿の如き立派な角が備わっている。
その水霊は蒼い蛇体を素早く毒竜に巻き付け、そのまま締め上げた。
「人の棲家で火遊びするな」
「ぐえ」
あっさりと締め落とされ、大地に伏せる真紅の躰。それを忌々しそうに眺めながら、突如現れた乱入者は大きな溜息をつく。
沼地にそそり立つ巨体が、胡散臭げに三原達をねめつけた。こちらにも襲い掛かってくるのか、と構える食屍鬼達だが、龍は別段こちらに危害を加えてこようとはしない。敵意はないらしいと判断した夜叉丸と孫六は刀を納め、龍に声をかけた。
「あんたがこの沼の主か?」
「……そうだけど……あんた達は何?」
「この森の所有者に雇われていてな。見知らぬ沼がいきなり出現したってんで調べに来たんだ」
その言葉を聞くや否や、龍の顔色が変わった。見事な蒼い鱗に覆われたその顔が、別の意味で青ざめているのが三原達にも見て取れた。
「えっえっ? この森、所有者がいるの?」
「そりゃいるだろうさ」
「だって、こんなに沢山の魑魅魍魎が跋扈してるんだよ? 人間達が放棄した森じゃないの?」
慌てふためく龍。どうやら堅洲の外からやってきたらしい。夜叉丸達がこの森の成り立ちを教えると、龍は縋る様な調子で食屍鬼達に懇願した。
「じゃあ、この森って私みたいなはぐれモノが棲んでも問題ないんだよねっねっ?」
「いや、棲むのは構わないけどさあ……流石にこんなでかい沼で占領されたら武藤としても困ると思うよ?」
「そんなあ……ようやく彼方此方の水辺に偶然繋がっちゃった小さな門を閉じ終えたばっかりなのに……ねえ、見逃してくれない?」
夜叉丸と孫六も困った顔。人を近づけない森だとはいえ、人間の出入りが全くのゼロという訳ではない。釣り愛好会のような地元民は勿論のこと、外部から生息している野生動物の研究目的で来る学者達も少なからずいた。研三達のように怪異に慣れ切った者達ばかりならば問題なかろうが、何も知らぬ研究者達がこの沼を見つけたならば大騒ぎになるのは目に見えている。
「別の沼に映る事は出来ないのか?」
三原の言葉に龍は首を横に振った。何でも、この森に存在する沼の下調べ自体はしたらしいが、龍の巨体では窮屈すぎるらしい。
「町で暮らすって事は出来ないのか? あんた、人語を話せるって事は人を食った事があるんだろう? なら、人の姿にも化けられるはずだが…」
「人に紛れて暮らすのはどうにもストレスが溜まって……それに、人間達のせいで前の棲家から立ち去らなければならなくなった以上、人の世でぬくぬく暮らしていく気にはなれないっていうか……」
「何があったんだ?」
「沼の水がね……全部抜かれたんだ……てれびのさつえいとかいう人間達にさ。バレる訳にもいかないから人間の姿になって逃げだしたんだよ。日照り続きの村に雨を降らしてほしいって身投げした娘の亡骸を口にした時は、まさかこんなに彼女に感謝する日が来るなんて思ってもいなかった……」
遠い目をする龍に、同乗の視線を向ける一同。だが、この沼を人目に晒すわけにもいかないのもまた事実。
頭を悩ませている一同に光明を投げかけたのはゼルであった。
「だったらさ。この沼、コヨミに引き取ってもらわない?」
「武藤の末姫様に?」
「コヨミの箱庭にもすごい広い森があるんだよね。そこなら一般人にも見つからない。何せあの子の作った異世界だからね」
「との事だが、どうする?」
森の中で静かに暮らしていたい。そう考えていた龍に断るという選択肢はなかった。
かくして、生態系の崩れはてた奇妙な沼は境の森から姿を消した。
それ以降、弟切荘の外に放置されたバケツやたらいに、定期的に海川の鮮魚が湧くようになった。
研三達釣り愛好会の面々や、夜叉丸達食屍鬼の居住区でも同じような現象が起こっているらしい。
龍の恩返しなのだろう。ちょっと得した気分になった三原と檜貝であった。




