名もない店
扉を押すと、鈴の音もなく、空気だけがわずかに動いた。
店の中は思ったより狭く、棚には商品らしきものが何も並んでいない。代わりに、壁一面に小さな引き出しが無数にあった。
「いらっしゃいませ」
声に振り向くと、いつからそこにいたのか分からない店主が立っていた。年齢も性別も、はっきりしない。顔を見ているはずなのに、特徴だけが記憶に残らない。
「ここは……何のお店ですか」
私の問いに、店主は首をかしげた。
「お店というより、受け渡し所ですね。あなたが置いていったものを、返す場所です」
胸の奥が、きしりと音を立てた。
置いてきた覚えなんて、ない。
そう思おうとした瞬間、引き出しの一つが、ひとりでに開いた。
中にあったのは、
――私が忘れたふりをしてきた、あの日の決断だった。
私は、引き出しの中のそれに手を伸ばした。
触れた瞬間、重さも形もないはずのものが、確かに指先に伝わる。
「ああ……」
声にならない声が漏れた。
逃げたこと。選ばなかったこと。
正しかったかどうかを考えるのをやめて、時間の底に沈めた決断。
店主は何も言わず、ただ見守っている。
「返したら、どうなるんですか」
「元に戻るわけではありません」
静かな答えだった。
「ただ、続きを歩けるようになります」
私はうなずいた。
それで十分だった。
引き出しは、音もなく閉じた。
同時に、胸の奥で止まっていた何かが、ゆっくりと動き出す。
店を出ると、町の外れの道は、来たときよりも少し明るかった。
振り返ると、そこに店はもうない。
けれど、消えたのは場所だけで、重さは私の中に残っている。
それを抱えたまま、私は歩き出した。
今度は、忘れないために。




