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名もない店

作者: 猫治
掲載日:2025/12/14

扉を押すと、鈴の音もなく、空気だけがわずかに動いた。

店の中は思ったより狭く、棚には商品らしきものが何も並んでいない。代わりに、壁一面に小さな引き出しが無数にあった。


「いらっしゃいませ」


声に振り向くと、いつからそこにいたのか分からない店主が立っていた。年齢も性別も、はっきりしない。顔を見ているはずなのに、特徴だけが記憶に残らない。


「ここは……何のお店ですか」


私の問いに、店主は首をかしげた。


「お店というより、受け渡し所ですね。あなたが置いていったものを、返す場所です」


胸の奥が、きしりと音を立てた。

置いてきた覚えなんて、ない。

そう思おうとした瞬間、引き出しの一つが、ひとりでに開いた。


中にあったのは、

――私が忘れたふりをしてきた、あの日の決断だった。

私は、引き出しの中のそれに手を伸ばした。

触れた瞬間、重さも形もないはずのものが、確かに指先に伝わる。


「ああ……」


声にならない声が漏れた。

逃げたこと。選ばなかったこと。

正しかったかどうかを考えるのをやめて、時間の底に沈めた決断。


店主は何も言わず、ただ見守っている。


「返したら、どうなるんですか」


「元に戻るわけではありません」

静かな答えだった。

「ただ、続きを歩けるようになります」


私はうなずいた。

それで十分だった。


引き出しは、音もなく閉じた。

同時に、胸の奥で止まっていた何かが、ゆっくりと動き出す。


店を出ると、町の外れの道は、来たときよりも少し明るかった。

振り返ると、そこに店はもうない。

けれど、消えたのは場所だけで、重さは私の中に残っている。


それを抱えたまま、私は歩き出した。

今度は、忘れないために。

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