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絹の国  作者: 喜多里夫
第二章 新聞記者時代と社会認識の形成

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第8話 戦後の声と影

 1919(大正8)年2月、帝都東京。


 空気は張りつめて冷たく、街にはどこか重たい余韻が漂っていた。戦争は終わった。だが、「それで終わり」ではなかった。市民の関心はなおも国際ニュースに向けられ、新聞社にはベルサイユ講和会議の速報が次々と舞い込んでくる。編集部には印刷の熱気とインクの匂いが充満し、活字が時代の速度を追いかけていた。


「ようやく西園寺公がパリに着いたらしいな」


 村岡デスクが校正紙を手にしながらぼやく。


「愛妾の奥村花子さんを同伴していると英字新聞に書かれてたな」


 絹は眉をしかめた。


「……本当なら、恥ずかしい話じゃないですか。公式の場にお妾が付いていくなんて……これが日本代表?」


「ま、ああいう人からすりゃ、若い女性をエスコートしなけりゃ恰好がつかんのだろ」


 村岡の皮肉に、絹は無言で頷いた。




 その頃、東京駅などには、ヨーロッパ戦線からの帰還兵が続々と戻ってきつつあった。絹は取材のため、東京市内の駅前を歩いた。


 だが、帰還兵の姿は彼女の想像よりもずっと酷いものだった。


 片足を失い、松葉杖で歩く男。夜の橋の下で毛布にくるまり、目を閉じる若者。家族に迎えられず、一人で駅前に座り込んでいる兵士。


「おい、なあ、もう一度、戦争やれって言われたらどうする?」


「俺はごめんだ。砲弾の音が、いまも耳に残ってる」


 そう呟く兵士たちの目は、光を失っている。


 戦場では脱走兵も相次いでいた。フランスやベルギーで行方不明になった者、軍籍を捨てて現地に残った者……彼らの存在は、軍紀が守られていなかったことを暗に物語っていた。


 こうした兵士たちを見て、街中では軍部に対する風当たりがますます強まっていた。それは主に陸軍に向けられている。

 無計画な派兵、過剰な軍費、甚大な人的・物的損害、現地での規律の乱れ……市民の怒りは膨れ上がっていた。


「兵隊は使い捨てかよ」


「陸軍は国民の犠牲の上で、偉そうにしてるだけじゃねえか」


 居酒屋や露店、市場の隅で、そんな声が飛び交う。


 これに対して、海軍への評価は対照的だった。遠く地中海方面まで出動して連合国の船団護衛任務に従事した第二特務艦隊や、さらには北海ジェットランド沖の大海戦にも参加した巡洋戦艦「金剛」と「榛名」の活躍は、報道を通じて国際的にも大きな賞賛を受けていた。


「海軍はようやったよ。命懸けで船団護衛をしたんだ」


「やっぱり海軍は違うな。手柄立てても、でかい顔しねえ。陸軍は手柄も立てねえのに威張りくさりやがって」


 そんな空気に乗じて、海軍の軍人が存在感を高めていた。




 東京のカフェでは、復員兵たちがフランス語混じりの会話をする光景も見られた。彼らが持ち帰ったのは、怪我や病気だけではなかった。

 洋装の帽子、シャンソンのレコード、フランス料理風のカフェメニュー。


「最近の若い兵隊さんは、パンにチーズが合うなんて言ってるよ」


 女給が笑うその横で、復員兵が静かに頷いた。

 街角では、フランス語の看板が目立ち始め、「パリ仕込み」の化粧品や服飾が売り出されていた。絹自身も、その変化を鋭敏に感じ取っていた。


「戦争が、世界をつなげてしまったのね……皮肉だけど」


 だが、その華やぎの一方で、この冬、帝都を「流行性感冒」が襲った。

 新聞の死亡欄は日に日に膨れ上がり、路面電車では咳一つで乗客が顔を背けた。  

 通りを行く人々の口と鼻は白布で覆われ、昨日までカフェで笑っていた若者が、今日は担架で運ばれていく光景さえ珍しくなかった。


 当時、人々はこの流行を「スペイン風邪」と呼んだ。だが病の正体は、のちにインフルエンザと知られることになるウイルスによるものである。欧州大戦の兵士たちの移動とともに全世界へ広がり、各国で数千万の命を奪った。若者や壮年すらも容赦なく倒れるため、「死の風邪」と恐れられた。帝都東京も例外ではなく、街は不安と沈鬱に覆われた。


 絹もある日、その病に倒れた。ある晩、急な悪寒に襲われ、下宿の布団に身を投げると、三日三晩、高熱にうなされ続けた。意識は朦朧とし、佐倉夫人が看病してくれる声だけが遠くから響く。


 ――私は、このまま死ぬのかもしれない。


 大げさでもなんでもなく、絹は何度もそう思った。


 やがて峠を越え、熱が下がった時、窓の外には薄曇りの空が広がっていた。生き延びたことへの安堵とともに、胸の奥に静かな誓いが芽生える。


 ――死ななかったのなら、まだ書かねばならぬことがある。




 絹は、この時、初めて「化け込み」取材をすることにした。「化け込み」とは、記者が変装や偽名を用い、報道対象の生活や職場に潜入して、内部から情報を得る手法である。潜入取材によって得られる情報は、外部からは知り得ない生の声と証言で満ち、新聞に掲載されれば読者により鮮明な社会像を届けることができる。この手法は絹のみならず、当時の新聞記者が――男女を問わず――しばしば使ったものだった。


 今回の取材対象は、東京下町の製糸工場で働く女工たち。戦争が終わったとはいえ、女性の労働条件は過酷で、声を上げることも容易ではなかった。


 川戸絹は、偽名「澤村はる」として女工に応募した。スペイン風邪の流行で人手不足もあってか、即、採用された。


 表には大きな煉瓦の建屋、油と石炭の匂い、朝靄の中を並んで入っていく少女たちの姿。ここは職工の大半が十四、五から二十歳そこそこの娘たちであった。髪を束ね、古びた着物を着崩し、田舎訛りを交えて自己紹介する。


「信州から出てきました、澤村はるといいます」


 監督係は彼女を一瞥し、名簿に書き込み、すぐに糸取りの持ち場に案内した。


 糸繰り場の女工たちは、ほぼ全員が休む間もなく働いていた。汗に濡れた額に蒸気が立ち、手は糸で切れそうになっている。絹は黙々と手を動かしながら、彼女たちの様子を観察した。

 糸繰り場は蒸気と熱気でむせ返るようだった。肩を寄せ合うようにして働く娘たちが声を掛ける。


「へぇ、背の高い子だねぇ。新入りかい?」


「よろしくね、はる姉」


 周りの子たちが口々に声を掛けてくれる。茶目っ気を込めた声もあれば、心配そうに様子をうかがうような声もある。

 絹は胸を詰まらせながら笑ってうなずいた。


 寄宿舎は粗末な木造で、変にじめじめとした湿気もあって寒かった。しかし娘たちは疲れ切って大広間のような部屋にぎっしり敷かれたせんべい布団に倒れ込むと、すぐに眠りについた。


「はる姉、字っこ読めるんだど?」


 布団を並べた少女の一人がおずおずと東北弁で訊く。


「うん、少しだけね」


「い゛いなぁ……おらなんか名前っこだべ、書げるかどうかも怪しいべ。学校さも弟妹の子守せいって言われで、ろぐに行がせでもらえねがったんだ」


 絹は思わず言葉を失った。新聞記者にとって活字は当たり前のものだが、ここにいる仲間にとって新聞は別世界の紙切れに過ぎなかった。


 夜中、急に隣でうめき声がした。おふみが高熱に苦しんでいた。寄宿舎の管理者に訴えても、「替わりはいくらでもいる」と言うだけ。絹は水を汲みに走り、冷たい布でおふみの額を拭いてやった。


「あっ、ありがとう……」


 顔を真っ赤にしたおふみが苦しそうに礼を言う。


「いいの、いいの、お互い様だから……」


 絹がそう言って励ますと、おふみは安心したかのように目を閉じた。


 ところが。


「きゃぁぁぁぁっ!」


 翌朝、絹は少女の悲鳴で目が覚めた。


「おっ、おふみちゃんがっ!」


 おふみは息を引き取っていた。絹は涙ぐみながら、冷えきった遺体の傍らに立った。


 ――死ぬのは、いつも一番弱い者からだ。


 その現実が、絹の胸に深く刻み込まれた。




 さらにその三日後、糸取り場で事故が発生した。

 仲間の美代が機械に袖を巻き込まれ、大怪我を負った。監督は冷淡に「注意が足りん!」と吐き捨て、労災補償もないまま解雇して追い出した。


「もう我慢できないぃぃっ!」


 憤った娘たちは年かさの数名を中心に作業を放棄して工場門前に集まった。


 ストライキである。

 この時代、製糸や紡績の工場で働く女工たちの間では、過酷な労働条件に抗議する小さな争議やストライキは珍しいことではなかった。長時間労働や低賃金に加え、病や事故に対する保障も乏しく、彼女たちの不満は常に燻っていたのである。


「私らだって人間だ、機械じゃないっ!」


「給金を上げろぉ!」


「怪我の補償をしろぉ!」


 声を上げるのは、恐怖よりも仲間の痛みに突き動かされたものであった。女工たちは、誰に言われるでもなく口を揃えはじめた。

 誰かが「女工小唄」を歌い出す。


「♪ うちが貧乏で十二の時に 売られてきましたこの会社……」


 細い声。泣き笑いのような声。

 最初は二、三人だったが、すぐに十人、二十人と重なり合う。


「♪ 寄宿流れて工場が焼けて 門番コレラで死ねばよい……」


 節はデカンショ節。どこか陽気で、おどけた調子。けれども歌詞は、胸を抉るように重たく、残酷だ。

 笑って歌わなければやっていられない、そんなやけっぱちの笑みがそこかしこに浮かぶ。


 絹は輪の外で、それをじっと聞いていた。


 ――これは、泣きごとじゃない。


 彼女たちの生きた日々、そのままの告白だ。


「♪ 工場は地獄よ主任が鬼で 回る運転火の車……」


 あどけない顔の少女が、鼻をすすりながら声を合わせる。まだ十四か十五か。その隣では、頬に煤がついた娘が、


「♪ 機屋女工が人間ならば 蝶々とんぼも鳥のうち」


と、半ば叫ぶように歌い上げる。

 笑い混じりの歌は、次第にすすり泣きへと変わっていった。

 誰かがうつむき、誰かが膝に顔を埋める。


 そのとき――。


 一人の年長の女工が立ち上がった。

 頑丈そうな肩を張り、少しかすれた声を張り上げる。


「みんなぁ! こんな嘆きだけで終わらせちゃいけないよ!」


 振り向いた娘たちの前で、彼女は胸を張り直し、声を高らかに響かせた。


「♪ 嗚呼革命は近づけり……」 


 息を呑む沈黙。

 この歌は嘆きの歌ではない。「革命」の歌だ。

 すぐに何人かが目を見合わせ、小さく口を動かす。


「♪ 見よわが自由の楽園を 蹂躙したるは何者ぞ……」


 最初はおずおずと。

 声は震えて、歌詞に呑まれてしまいそうだった。

 けれどもやがて、一人、また一人と立ち上がり、声を重ねる。


「♪ 見よわが正義の公道を 壊廃したるは何奴ぞ」


 空気が変わった。


 弱々しいすすり泣きの声が、力強い叫びへと姿を変えていく。

 まだ半人前の娘たちの声。けれども、その幼さゆえに響くものがある。


 絹の胸に、熱いものが込み上げた。


 震えながら、それでも必死に歌い切ろうとする少女たち。

 涙の跡を拭わずに、必死に声を張る。

 その光景は、幼さと決意の入り混じった、痛ましくも美しいものだった。


「……この子たちが……」


 絹は呟いた。

 そうだ、彼女たちはまだ子どもだ。

 けれど、その子どもたちが、歌詞の意味もまだよくわからないであろう革命歌を必死に歌わねばならぬのが、この国の現実なのだ。

 力強く響く歌声は、空気の重みを押し上げるようだった。

 誰かがみんなの赤い長襦袢をかき集め、いつの間にやら一枚の大きな赤旗を仕立て上げていた。


「さあ、掲げるわよ!」


 リーダー格の女工が力強く旗竿を握り、赤い旗を高く掲げる。

 その瞬間、女工たちは自然に息を飲み、目を見開いた。布の赤さが、労働の苦しみと希望、そして連帯の力を映し出しているかのようだった。


 小さな手が、旗の裾をぎゅっと握る。


「私たちの声、これで見えるね……」


 涙をこぼしながら、みんながその旗を見上げる。

 赤い布はまだうそ寒い春風に揺れ、工場の灰色の空間に一筋の光のように映えた。


 絹はその光景をじっと見つめ、胸に熱いものが込み上げた。


 ――この子たちの必死さ、幼さ、そして決意……この旗が、世界に伝わる声となるのだ。


 絹はその晩、暗さに紛れてそっと工場を抜け出すと、急いで本郷の下宿へ帰り、記事を書こうとした。しかし、胸が震えて気持ちが収まらず、夜遅くなってからようやく書き始めることができた。




 その翌日――。


 「東京タイムス」社会部の編集室には、活字の匂いと熱気が満ちていた。机の上には原稿が山積みになり、校正紙を手にした記者たちが細かい文字を睨んでいる。

 絹は、工場での出来事を原稿にまとめ、記事として仕上げる作業に取りかかっていた。


 彼女の後ろから、村岡デスクがその原稿を覗き込む。


「おい、これはなかなかの迫力だな。女工たちの怒りが手に取るように伝わる。読者の目を引くぞ」


 絹は静かにうなずく。


 編集長の机の上には、次号の紙面構成表が置かれている。絹の原稿は社会面のトップに配置される予定だった。


 記事は、化けこみ取材で得た生の声と目撃証言に基づいていた。工場の門前でストを起こした女工たちの描写、女工の事故や病気に対する会社側の無理解、寄宿舎での生活の厳しさ――すべてが詳細に書かれている。


 絹は原稿を読み返しながら、編集部の他の記者たちと議論した。


「署名は入れた方がいい。読者に責任感と信

頼感を示すには、それが必要だ」


「でも、化けこみ取材だと身元がばれたら危険だろう?」


 絹は静かに答えた。


「それでも、私が書いたことを明確にしたいです。それが、女工たちに代わってここに書く意味なのですから」


 記事は最終的に署名入りで掲載されることとなった。


 そして、「東京タイムス」に署名入りの記事が載った。




   女工等の敢然たる闘爭


   東京下町某製糸工場に於て、酷烈なる労働環境に堪へかね、若き女工等つひ

  に敢然として起ちたり。

   一日の労働は十二時を超過し、事故または疾病に罹るも補償は与へられず。

  然れども彼女等は弱しと称すべき存在にあらず。互ひに助け合ひ、己が命を護

  らんがため、団結して声を挙ぐるに至れり。

   世人しばしば彼女等を「無知なる女工」と呼称す。然れども実際は社会の矛

  盾を最も鋭く身に受くる労働者なり。

   今や婦人参政権を求むる声漸く高まりゆくに際し、工場の娘等が発する叫

  喚、決して閑却すべからず。

   彼女等こそ、来るべき時代に於ける真の市民なるを忘るる勿れ。

              (「東京タイムス」大正8年2月25日号 川戸絹)




 その翌日。

 ストを続ける女工たちは工場の門前で肩を寄せ合っていた。春先の強い風が、道端に積まれた古新聞をさらっていく。


 その中に、一枚の新しい新聞が舞い込んだ。大見出しには――。


   女工等の敢然たる闘爭


 だが娘たちは誰もそれを手に取らなかった。活字の意味を知らぬ者もいれば、読む気力すら残っていない者もいる。ただ疲れた顔で空を見上げていた。


 絹は物陰からそっとその光景を見守った。


 ――彼女たちには、私の声は届いていない。


 しかし胸の奥では別の声が響いた。


 ――いつか彼女たち自身が新聞を手に取り、自分の言葉で社会を語る日が来る。その日まで、私は書き続けるのだ――。


 風に飛ばされた新聞は、道端の泥に落ち、やがて夕立に濡れてにじんでいった。


 その日以降、絹の書いた記事に対する読者の熱い感想が続々と編集部に寄せられてきた。




   女性の筆鋒に驚く


   女性が社会部に在りて斯くも筆鋒鋭く世相を抉るとは、誠に驚きに堪へず。

  旧来、婦女子は家庭に留まるべしとの説少なからざれども、川戸氏の論説を読

  みては、女性の社会進出もまた時代の趨勢なるを覚ゆ。

                       (本郷区在住・主婦 32歳)




   己が責を思ふ


   川戸女史の記事を拝読し、我もまた己が周囲を省みざるを得ず。工場に働く

  女工の窮状を語り伝ふる筆は、単に同情を呼ぶのみならず、読む者をして自ら

  の責任を問はしむ。記者の使命、ここに在りと存ず。」

                       (神田区在住・学生 24歳)




   女工の声、我が身にも響く


   拝啓 貴紙川戸氏の記事、拝読仕候。製糸工場の女工たる者、かくも過酷

  なる労働に従事し、しかも声を挙ぐる覚悟に至れること、心痛むと共に敬服仕

  り候。商人の身にして日々売買に明け暮るるのみなれども、記事を通じて世の

  理不尽、弱き者の苦しみを知り、胸深く考え入る次第に候。今後も民心を醒ま

  し、社会の改善に資する記事を待望致す所存に候。

   敬具

                       (京橋区在住・衣料品商 40歳)




 しかし、工場主はとうとう警察を呼び、現場は騒然となった。

 首謀者とされた数人の女工が解雇されたと聞き、絹は怒りを抑えられなかった。


「彼女たちは、おかしなことなんて何一つ言っていなかったのに……」


 沈黙を強いられた彼女たちの姿が、絹の胸に焼き付いた。

 だが同時に、どこかで確信も芽生えていた。

 この声は、いつか必ず別の場所で、もっと大きく響き渡るだろう――。


 絹は心の中でそう誓った。次に彼女たちが声を上げる時、自分は必ずその場に立ち会い、記事にして伝えようと。


 一方、荒井は、


「川戸君、この記事を読んでごらん」


と、編集部で絹に「中央日報」のこの日の朝刊を渡した。「中央日報」は「東京タイムス」のライバル紙だ。

 見ると、例の製糸工場のストの記事である。


 絹は机上に渡された「中央日報」を広げると、見出しが眼に飛び込んだ。


   生糸価格の暴落と女工の運命――山科冴子


 絹は思わず声をあげて読み始めた。


「……大戦中、生糸の価昂騰せるに乗じ、各地農村は競ひて桑を植ゑ、製糸業者は工場を拡張せり。然るに戦終りて国際市況は一転し、紐育相場は今や大戦期の半額以下に下落せり。その結果、工場は過剰生産に苦しみ、女工の賃銀を削るに至れり」


 絹はさらに読み進める。


「……女工の窮状を工場主の私慾に帰すのみにては足らず。根本は国際価格の変動と供給過剰の構造に在り。只涙をもつて世人の同情を乞ふは一時の効あらん。然れども構造を改めざる限り、其の苦難は繰返さるべし。女工の涙、かくの如く世界市況の波に翻弄せらる」


 声を止めた瞬間、部屋に静けさが戻った。

 絹は唇を噛みしめる。


「……すごい。確かに、ただ『哀れ』と書くだけでは、問題の原因はわからないし、世の中は変わらない……」


 荒井は煙草に火を点け、灰皿に軽く灰を落とした。


「川戸君、君の記事も悪うない。人を動かす力がある。だが、世の中を本当に動かすには――涙の裏にある仕組みを掴まにゃならん。冴子嬢はそれをやってのけたわけだ」


絹は悔しさに胸を熱くしながら、ページの活字をもう一度見つめた。


「……仕組みを、掴む……」


 荒井は静かに笑った。


「君はまだ始めたばかりだ。学び、書き、考え続ければ、いずれ人の心と世の仕組み、両方を射抜ける記事が書ける。そうなれば、誰にも負けん記者になれるぞ」


 絹は深く息を吸い込み、荒井の言葉を胸に刻んだ。


 ――もっと学ばなければ。もっと世界を知らなければ。


 彼女の瞳に、次なる挑戦への光が宿っていた。

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