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絹の国  作者: 喜多里夫
第二章 新聞記者時代と社会認識の形成

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第7話 女たちの声、舞台の声

 1918(大正7)年秋、帝都東京。

 空は高く晴れ渡り、夏の米騒動の痕跡を包み隠すように、街は平静を装っていた。だが、絹にはその静けさがかえって不穏に思えた。路地の商店で、電車の中で、誰もが新聞を覗き込み、そしてため息をついている。


「政党内閣ができたってさ」


「どうせ、男の話でしょ」


「こちとら、選挙も何も、蚊帳の外だよ」


 原敬内閣の発足に湧く紙面とは裏腹に、女たちの声は冷ややかだった。

 女たちは欧州大戦のただ中で、工場に立ち、街を守り、家計を支えてきた。それでも、政治における「声」を持つことは出来なかった。


「なんで男だけが選べるの? うちじゃ、あたしが家計も子どもも背負ってるのにさ」


 絹は、取材先の女工の宿舎で、そんな呟きを耳にした。

 その声は怒りでも叫びでもなく、ただ、乾いた諦念だった。




 ある日、絹は神田の貸しホールで開かれた講演会に立ち寄った。

 講師は、平塚らいてう。


「私は以前、『元始、女性は太陽であった』と書きました――でも現代、誰がそう言えるのでしょうか?」


 明瞭で、しかし抑制の効いた声だった。絹は静かに、引き込まれていった。

 平塚(ひらつか)らいてう(らいちょう)――1911年に日本初の女性文芸誌『青鞜(せいとう)』を創刊。「女が自らの言葉を持つ」ことの先駆者である。

 壇上にはもう一人、眼鏡をかけた若い女性が並んでいた。市川(いちかわ)房枝(ふさえ)。20代後半、その眼差しは鋭く、言葉には理性と切実さがあった。


「いま必要なのは、道徳ではなく制度です。お願いではなく、権利です。女性が政治に参加しなければ、また戦争の下支えにされるだけです」


 市川房枝は愛知県出身。欧米の女性運動に学び、女子高等師範学校卒業後、社会改良運動に身を投じる若き理論家である。

 市川は当時、婦選獲得期成同盟会の幹部として、署名活動や集会、議員への陳情を精力的に行っていた。

 彼女は講演会終了後に思い切って声をかけた絹に対しても気さくに語りかけ、「運動の記録をきちんと残す」ことの重要性を説いたという。

 絹は、単なる記事ではなく、取材対象との対話から学び、「女性が政治に関わることは、特別なことではなく、『当然のこと』にしなくてはならない」という認識を得ていく。

 この時期、絹は「東京タイムス」連載「女たちの現場」を担当し、工場で働く女工、病院の看護婦、カフェの女給、遊郭の娼妓、そして活動家の女性たちの声を拾い続けた。ほどなくして、絹は婦人参政権運動の取材も任されるようになる。

 当時の絹を知る同僚記者は、後にこう語っている。


「彼女はいつも『誰かの言葉』を本気で受け止めていた。時に原稿にしきれずに、デスクや主筆と議論になるほどだった。だが、そういう人間がいなければ、この国の新聞はただの速報紙になってしまうだろう、と思ったよ」


 若い絹の目の前には、まだ議会も、政界も見えてはいなかった。

 だが確かに、彼女の中には「国政を他人任せにしてはいけない」という思いが芽生え始めていた。

 彼女は記者として、社会の暗部と対峙するなかで、じわじわと「この仕組みを変えたい」という思いに突き動かされていく。


「私は『社会の一員』として生きたい」


 そう記された日記の一文が、今も「川戸文庫」に残されている。




 この秋、欧州大戦はようやく休戦協定が結ばれ、日本からもパリで開催される講和会議に向け代表団――首席全権・西園寺公望――が派遣されることになった。

 「東京タイムス」本社で、荒井が絹に向かって言った。


「平和会議の取材に女の記者が行けたら、面白いんだがな」


「本当に……でも、まだ、私には遠すぎます」


 絹は笑って言いながら、いつもの鞄を肩に掛けて社屋を出た。

 世界は変わろうとしていた。


 ――けれど、日本の女たちは、まだ入口にも立てていない。


 この頃、絹は何度も平塚らいてうや市川房枝を取材で訪ねて話を聞いていた。


「私は記者として、先生方の言葉を記録したいのです。でも、それだけでは足りないかもしれません」


 平塚は、目を細めて答えた。


「記すことは、戦うことよ。自分の言葉で誰かを揺らせたら、それが『運動』なの」


 市川は言った。


「『女の選挙権』といっても、実現は遠い。でも、歴史は遠くから始まる。書くなら、事実だけじゃない。未来への希望も、書いて」




 その日の夜。明正女子専門学校の教室では、「法学概論」の講師・田中耕太郎が黒板に「憲法の拡張的解釈」と記していた。


「……帝国憲法第五条には『天皇は法律を制定し、公布し、及び執行す』とあります。しかし、この条文を、いかなる統治行為にも天皇の直接意思が必要だと解するのは、あまりに硬直しています。事実、議会や内閣の意志に基づく立法と解釈する運用がすでに進んでいます」


 教室がざわめく。絹もまた、ノートに急いで書き留めていた。


「この柔軟性こそが、わが国の近代化を支える鍵になります。硬直した『欽定』の解釈では、政党内閣も、立法の進展も成立し得ません。今後、憲法の実質的な運用がいかに『現実の社会』に即するか……それが問われるのです」


 ——ならば、憲法もまた「書き換えられずとも」、読み換えることで社会を動かし得るのか。


 絹の胸にはこうした確信が育ちつつあった。


——まだ私たちは「法」の内にはいない。でも、「解釈」は私たちの側に近づきつつある。


 今はまだ、入口かもしれない。

 だが、声はすでに、そこにある。


 絹は原稿用紙に書き始めた。


「この国の半分の声は、まだ沈黙している。でも、その声は、確かに生きている――」




 ただ、当時の絹は、堅い記者活動や夜学の勉強だけをしていたわけではない。


 秋の、とある日曜日。この日は、絹と女専の夜間部で学ぶ友人たちとの「約束」がようやく果たされる日だった。


「川戸さん、たまには息抜きしなきゃ。ずっと職場と学校だけじゃ、体壊すよ」


 そう言ったのは、同じクラスでは年長者である大石(おおいし)たま子。彼女は明治女学校出身で、昼間は大手町の商社で電話交換手をしている快活な女性だった。彼女が発案し、浦辺(うらべ)|さき、根津(ねづ)|梅代といった、夜学の仲間たちと絹は、この日、浅草六区に繰り出すことになったのである。


 ——私って、そんなに面白味のない人間だと思われてるのかな?


 たま子の言葉を聞いて、絹はそんなことを思っている。

 実を言えば、絹はこれまでに何度か一人で浅草オペラを覗いたことがあった。休日にふらりと足を運んでは、安い二階席に腰を下ろし、舞台の歌に身をゆだねた。 

 だから、友人たちに誘われたとき、心のどこかで密かに嬉しさを感じていた。彼女は、けっして「新聞記事を書くだけの人」ではなく、「歌や舞台に心を揺さぶられる一人の若い女性」なのだった。


 この日のお目当ては、「カチューシャ再演」である。


「あたし、大正3年に芸術座で松井(まつい)須磨子(すまこ)のカチューシャを観たんだ」


 たま子が自慢げにそう言うと、(絹も含めた)他の三人が、


「ええっ、いいなぁ!」


と、声を上げた。


 松井須磨子は翌大正4年に自死してしまっていたので、この時はもう彼女の舞台を見ることは出来ない。しかし、須磨子の「カチューシャの唄」はその後も絶大な人気があり、浅草オペラなどの大衆演劇・音楽劇で繰り返し上演されていた。

 今から四人が観ようとしている「カチューシャ再演」も、松井須磨子本人ではなく、別の女優が演じていたものである。


 この日の浅草は、いつものように熱気に溢れていた。

 通りには焼き栗とたこ焼きの香りが漂い、活動写真の呼び込みの声が飛び交う。 

 男たちも女たちも和服洋装入り乱れ、しかも誰もが少し背伸びして歩いているような街だった。


「まるで別の国みたい……」


と、さきが言うと、下町出身のたま子が笑う。


「ここが、もう一つの『東京』なんだよ。銀座でもなく、神田でもない、声と汗の街」


 場内に入ると、天井近くの木の梁がほの暗く、どこか芝居小屋の風情が残っていた。絹たちは二階の安い席に並んで腰を下ろした。真下には、すでに観客でぎゅうぎゅうの一階席と、活気に満ちた舞台が広がっている。


 オーケストラが序曲を奏で、やがて、舞台に灯がともる。赤い幕が上がると、カチューシャが歌いながら登場した。


「♪ カチューシャ可愛や 別れのぉ辛さぁ」


 女専の仲間たちが、息を飲む。絹もまた、音楽の波に身体を揺らされながら、次第に舞台へと引き込まれていった。

何度目かのカチューシャだった。けれど、仲間と並んで観る舞台は、また違って胸に迫ってきた。

 カチューシャが舞台の片隅で、ふと客席を見渡すように振り返った瞬間、絹は自分が見られているような錯覚を覚えた。


 ——この時代のどこかで、誰かが、誰かの目を見て、沈黙のまま何かを訴えている。


 貧しい家に生まれた少女が、恋をして、裏切られ、耐え、やがて声を取り戻すまでの物語。芝居に合わせて繰り広げられる歌と踊りの数々。明るい笑顔の中に、時折ひらめく涙のような表情。それは、どこか自分たちの姿とも重なって見えた。


 ——生きていく。働きながら、学びながら。それでも、誰にも声を奪われないように。


 幕間、たま子がささやいた。


 「絹さん……カチューシャって、あなたに似てるって思わない?」


 「えっ、どこが?」


 「頑固なとこ。だけど、ほんとはすごく涙もろいとこ」 


 みんなで笑った。絹も、笑った。

 だが心のどこかで、その言葉がじんわりと沁みていた。自分が「似ている」と言われたことに、何か確かさを与えられたような気がしたのだ。


 第二幕が始まる。カチューシャが恋人を糾弾する場面。彼女は歌わない。ただ沈黙の中に立ち尽くし、観客はその沈黙にじっと耳を澄ませる。


 ——これが、「声」だ。


 叫ばずとも、泣かずとも、存在が訴えてくる声。

 絹は、そのことに初めて気づいたような気がした。


 終演後、外へ出ると六区は人の波でごった返していた。絹たちはオペラの余韻を残しながら、浅草寺前の屋台を巡る。

 焼き芋を一つずつ手に持ち、ホクホクと湯気を立てながら、さっき観たオペラの話に花を咲かせる。

 隣で売られていた揚げたてのコロッケに惹かれ、一つ買って皆で少しずつ分け合う。浅草寺門前でふるまわれていた甘酒を啜る。


「舞台の上じゃなくても……人の声って、響くんだね」


と絹が言うと、さきが答える。


「でも、書かないと残らないよ。だから、あんたの仕事は大事なんだってば」


 たま子が冗談めかして囁いた。


「次は絹さんの芝居を書いてよ。新聞記者カチューシャ!」


「浅草の夜を駆ける、不良婦人記者の恋物語……?」


 一同、お腹を抱えて笑った。


 でも、四人一緒にいる楽しい時間はあっという間に終わる。


 その夜、下宿に帰って一人になった絹は、机の引き出しから原稿用紙を取り出し、一言だけ記した。


「芝居の声も、生きている声も、書き留めなければ消えてしまう」


 窓の外で秋の虫が鳴いていた。

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