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絹の国  作者: 喜多里夫
第六章 戦時下の活動

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第49話 新しい光の時代

 1945(昭和20)年の夏、日本は欧州戦争の終結とともに、長い「非常時」の時代に終止符を打とうとしていた。

 焦土ではなく、沈黙の祈りに包まれた国。その中心にあった首相官邸で、戦時内閣を率いてきた岡田啓介首相は静かに記者団の前に座った。


「……戦争は、終わりました。我々は、憲政の常道に戻らねばなりません」


 その言葉は、戦勝宣言ではなく、文明国家としての復帰の宣言だった。

 岡田の声にはいささかの疲労が滲んでいたが、同時に深い安堵と決意も感じられた。


 国民は拍手することもなく、ただ胸に手を当てて聞いていた。

 この沈黙こそ、我が国の再出発の音だった。


 記者会見の後、絹は岡田に静かに声をかけた。


「総理、長い間、本当にお疲れさまでした。戦争という激流の中で、国民を守り通されたお姿に、私も深く学ばせていただきました。どうかご自身のお体とお心も、これからは労ってくださいませ」


 岡田は微かに目を細め、絹の手を握って言った。


「ありがとう、川戸君……戦争を終えられたことだけが、私の唯一の慰めだよ」


 絹は頷くと、静かに礼をした。




 その年の秋、戦後初の総選挙が行われた。

 人々は復興と平和を訴えた立憲民政党に期待を寄せ、結果、民政党が第一党となった。

 党首の幣原喜重郎が組閣の大命を受ける。温厚で国際感覚に優れた幣原のもと、政府は「平和構築」と「開かれた日本」を掲げた。


 新内閣の顔ぶれには、前厚生大臣・川戸絹の名前もあった。


 外務大臣——。


 もちろん史上初の女性外相であり、かつての新聞記者としての洞察力と、今までの政治的実績を買われての抜擢であった。


 絹は外相就任の記者会見でこう語った。


「戦争の廃墟から立ち上がるのは、まず第一に兵器ではなく、外交です。それこそが、国を守る最も確かな力になると信じます」


 新内閣発足の日、絹は幣原首相と執務室で向かい合った。


「幣原総理、このたびは大命を受けられ、本当におめでとうございます。戦後の再出発は、これまでの常識を超えた難題ばかりかと存じます。私も外務大臣の立場から、全力でお支えいたします」


 幣原は柔らかく微笑んだ。しかし、目には決意の光が宿っている。


「川戸君、君の洞察力と行動力は、戦時中から存じている。外交は単に条約や約束を扱うだけではない。人々の命と未来を守ることこそが、その本質だ。共に新しい日本を立ち上げ直そう」


 絹は深く一礼してから言った。


「はい。戦争の痛みを、外交の力に変えてみせます。国の再生は、兵器ではなく、人と文化の力で——そう信じて進みます」




 幣原内閣のもと、日本は様々な改革に乗り出した。すでに戦前に敷かれていたレールが、社会の変化とともに古くなり始めていたからである。

 まず、根本的な教育制度の改革が着手された。

 中等教育6年間の完全義務化である。

 中学校・高等学校を小学区制とし、地域格差を無くす。

 そして何より、男女共学の原則。

 絹も自宅の周辺で、少女たちが真新しい制服姿で中学校や高校へ登校する姿が見られるようになった。


 1946(昭和21)年、春の陽射しが柔らかく降り注ぐ4月上旬。

 小田急沿線に引っ越した志村家の新居では、朝から忙しい空気が漂っていた。

 清と絹の息子・誠は、この春の入試で玉川学園中等部に合格し、今日は待ちに待った入学式の日なのである。


「誠、制服の襟はきちんと整えて。髪もちゃんと梳いてね」


 絹は母親として、久しぶりに少し緊張した声を出した。


「はい、母さん」


 誠は少しはにかみながらも、母に笑顔を見せる。制服の袖がまだ大きく、靴紐を結ぶ手もぎこちない。だが、その背筋には小学生から中学生へと成長する姿が感じられた。


 二人は小田急線に揺られ、誠は新しい通学路を進む。学校に向かう子どもたちの足音と笑い声が、町に新しい希望をもたらしていた。


 玉川学園の正門前に到着すると、校舎の前には保護者たちが集まり、春風に揺れる桜の花の下、子どもたちの入学を見守っていた。絹も誠に、


「いってらっしゃい」


と、声をかける。

 誠は小さく手を振り、昇降口の方へ駆けていった。


 その時、絹はふと懐かしい顔を目にした。

 小原國芳である。


「川戸さん……お久しぶりです。お元気そうで何よりです」


 小原はにこやかに、しかしどこか戦後の重みを帯びた表情で言った。


「小原先生……本当にお久しぶりですね。こうして子どもたちの未来を見られる日が来ましたが、今日はこうして息子の入学式に参りました」


 絹の声には、母として、そして政治家としての責任感と安堵が混ざっていた。


 二人は、桜の花びらが舞う校門前で立ち話をし、戦後の教育改革や、子どもたちに伝えたいことについて語り合う。傍目から見ても、まさか学園の創設者と一国の外相がここで立ち話をしているとは誰も思わないだろう。


「あなたの外相としての活躍も拝見しています。戦後日本の教育を、未来ある子どもたちに還元できる人物は、川戸さんしかいませんね」


 小原は続けて言う。


「平和な時代になってこそ、子供たちに光を届けたい……希望を、知識を、自由を」


 入学式の式典が始まり、講堂から中学校長の挨拶が桜の花びらに乗って流れる中、絹は新しい時代の始まりを感じていた。

 母として、政治家として――そして、未来を見守る一人の大人として。


 「男も女も、ともに学び、ともに働き、ともに国を支える」——その理念は、学校教育から全国に広がっていった。


 それは、彼女自身が夢見た「新しい日本の光景」だった。




 また、政治制度も大きく変わった。

 貴族院が廃止され、新たに参議院が設置された。

 参議院の議員は、学識経験者と各道府県代表・外地代表を含む幅広い選出方式が採られ、民意と知性を両立する構造を目指した。


「絹……僕は次は貴族院議員かと思ってたら、貴族院自体が無くなっちまったな」


と、夫の清は冗談めかして苦情を言った。

 清は内務次官になっていた。


「まったく君は、たいしたもんだ……僕が見込んだ以上の女性だったよ」


「まあ……あなたの目利きも、意外と当たるのね。じゃあ、次は外相じゃなくて首相に期待してみる? そしたら、あなたを私の『秘書官』に昇格させちゃうかもしれないわよ」


 清は思わず吹き出し、椅子に寄りかかる。


「……まったく、君には敵わないな。でも、それも悪くないかもしれん」


 絹は軽く肩をすくめ、微笑んだ。


「ふふ、こうして夫婦で笑っていられるうちが、一番平和ってことよ」




 絹は外相として、戦後日本外交の新しい方向性を示す立役者であった。

 戦勝国としての立場を生かし、アジア諸国の独立と安定に積極的に関与した。

 まず韓国の保護国化を解消して韓国の主権を完全に回復させ、中国の国民政府に対しては、進んで旅順・大連・上海の租借地を返還し、地域秩序の安定化を図った。


 さらに、インドネシアやビルマの独立運動に対しては、宗主国と現地勢力の間に立ち、武力に頼らない平和的解決の仲介を実現した。南西アフリカにおける独立協議も開始した。戦後も植民地を維持したい欧州の勢力は眉を顰めたが、表立っては批判出来なかった。


 日本は戦勝国として国際連合常任理事国に名を連ね、川戸外相の外交手腕は、武力ではなく道義と調整力によって、戦後世界における日本の影響力を確立する礎となった。


 ロンドン・タイムズ紙は社説で書いた。


「日本は実に成熟した勝利者である」


 それは、力によらぬ勝利を得た国家に対する賛辞だった。




 しかし、理想の政治にも影が差した。

 1948(昭和23)年、立憲民政党の議員多数が贈収賄に関与したとして逮捕された。

 いわゆる「昭和電工疑獄事件」である。

 マスコミは激しく批判し、民政党は世論の厳しい批判に晒された。


 絹自身は汚職に関与しておらず、党内で汚職議員を批判したが、党全体の信頼は揺らぎ、翌年の総選挙で民政党は大敗。

 立憲政友会が第一党となり、絹たち民政党は野に下った。


 新首相には政友会の吉田茂が就任。

 外交官出身の吉田は、経済成長と国際関係の安定化に努めたが、その貴族主義的、高圧的な政治姿勢を巡って批判も多かった。


 1955(昭和30)年、再び民政党が勢いを盛り返す。

 その中心にいたのは、石橋湛山である。

 すでに大正時代から自由主義と「小日本主義」を唱えていた彼は、稀有な政治家だった。


 絹は、彼の内閣で再び外相に就任。湛山とは幾度も意見を交わし、戦後の日本外交の方向をともに構想した。


「日本は、力による支配ではなく、文化による影響力を示すべきです」


 絹の言葉に湛山は深く頷いた。


 しかし、その理想も長くは続かなかった。

 湛山は在任わずか数か月で病に倒れ、辞任を余儀なくされる。

 民政党内は混乱に陥った。


 そんな時。

 立憲民政党本部。会議室のざわめきの中で、一人の議員が声を上げた。


「我が党が再び信頼を得るには、清潔で、誠実で、国際的に尊敬される人物が必要だ——私は、川戸絹氏を推したい!」


 室内が静まり返った。

 誰もがその名を待っていたのだ。


 民政党の総裁選が始まった。


 立憲民政党本部。会場には、党幹部や議員たちが集まっていた。総裁選の開票がいま、進められている。


「……開票結果を発表します」


 司会役の議員の声に、部屋のざわめきが一瞬で止まった。息を詰めて、誰もがスクリーンに視線を集中させる。


「第一位——川戸絹君。得票数、全体の過半数を獲得。立憲民政党新総裁に決定しました」


 一瞬の静寂の後、部屋中に低く、しかし確かな拍手が広がった。

 絹を支持していた議員たちは立ち上がり、互いに握手を交わす。だが、歓声は大げさなものではなかった。皆の目には、これからの日本を導く責任の重さが映っていた。


 絹は席を立ち、ゆっくりと演壇に歩み寄る。胸に手を当て、議員たちの視線を受け止める。


「皆さま、ありがとうございます」


 静かで、しかし力強い声。大正から昭和をくぐり抜けてきた、彼女の経験と覚悟が滲む。


「私たちは今、国民の幸福を最優先に掲げる時を迎えています。立憲民政党は、結党当初から国民の声に耳を傾けてまいりました。今、再び教育、福祉、外交、そして自由を守る責任を担います」


 議員たちの視線が、絹の言葉に釘付けになる。誰もがその決意の真剣さを感じた。


「私たちは、過去の過ちに学び、未来に誇れる国を築く。そのために、私は全力を尽くすことをここに誓います」


 再び、低くも確かな拍手が巻き起こる。絹は微かに笑みを浮かべ、深く一礼した。


 戦後日本は静かに、新しい光を迎えようとしていた。

 そして、今、この瞬間、川戸絹はその光の中心に立つこととなったのである。

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