第4話 女専と新聞記者
1918(大正7)年、4月下旬。
絹は東京の暮らしにも、ようやく馴染んできた。
陽は長くなってはきたが、まだ肌寒さの残る東京の夜に、絹は風呂敷包みを抱えて歩いていた。向かう先は、明正女子専門学校夜間部。本郷の路地裏にある木造二階建ての小さな校舎だ。
明正女子専門学校は、かつて明治女学校と呼ばれていた小さな学び舎の後身である。
明治のはじめ、信仰と教育の交差点に立つ志ある者たちによって建てられた明治女学校は、「女子にも学問と自立の光を」との理想に燃えていた。だが、その理想は時代には早すぎた。保守的な世論と制度の壁に阻まれ、明治末には閉校に追い込まれる。
それでも、教職員と卒業生たちは諦めなかった。やがて数年の準備期間を経て、本郷の片隅に再び学び舎の火がともされた。明正女子専門学校――それは、かつての火を絶やさぬ者たちが築いた、新たな灯台だった。
昼間部だけではなく夜間部も置かれ、「女である」という理由だけで大学へ進学できない女性たちが「学問」を求めて集う、ささやかな学びの場だった。夜学だけあって、同級生の中には苦学して高等女学校夜間部を卒業した者や職業婦人も多かった。
入学後、最初の講義は「法学概論」。講師は田中耕太郎だった。
田中はその前年、東京帝国大学助教授になったばかりの、まだ28歳。
東京帝大の学生時代も特に成績優秀で、英独仏語を操り、西洋の法思想にも通じた若き俊才だという噂だった。明正女専は、彼のように新進気鋭の研究者を何人か非常勤講師としていた。 しかし、絹が魅力を感じたのは、そういうことだけではない。彼女は、彼の言葉にもっと別の熱を感じていた。
それは、知識ではなく、確信――理屈の先にある「信じる力」だった。
教室は普段よりも張り詰めた空気に包まれていた。
木製の椅子の軋む音も、誰かの咳払いも、どこか遠くに感じられるほどの沈黙の中で、田中は講義を始めた。
「こんばんは。みなさんのような若い方々と、『法』について語り合える機会をいただき、とても光栄です。私自身、まだ学ぶべきことの多い身ですが、今日は『法とは何か』という根本的な問いから、一緒に考えてみたいと思います」
柔らかく通る声だった。けれど、その言葉の一つ一つは、研がれた刃のように冴えていた。
「まず、お訊ねします。みなさんにとって、『法』とは、どんなものですか? 怖いもの? 堅苦しいもの? あるいは、役に立つけれど他人事のような?」
何人かの生徒が顔を見合わせ、遠慮がちに手を上げた。
絹も、ギュッと指を握りしめたまま、そっと首をかしげた。
「正直な反応ですね。たしかに、法というのは、しばしば『取り締まり』や『罰則』と結びついて語られます。でも私は、法とは本来、『人間がどう生きるべきか』を問うものだと考えています。もっと言えば、『他人とどう関わるべきか』を形にしたものです」
その瞬間、絹は胸にスッと風が吹いたような感覚を得た。
「私が今、個人的に読んでいるのは、新約聖書の言葉です。無教会主義の内村鑑三先生――ご存じの方もいるかもしれません――あの方の講義を聴くうちに、私はこう思うようになりました。法とは、ただ規則を守ることではない。弱き人を見捨てずに生きること――それが『正義』という名の、もう一つの法なのだ、と」
絹は、耳の奥がジンと熱くなった。
「法」と「正義」と「弱き人」――それらが一つに結ばれるような話を、これまで聞いたことがなかったからである。
田中は、黒板には文字一つ書かず、まっすぐ絹たちを見ながら語り続けた。
「みなさんは、きっとこれから、理不尽な命令や不条理な制度に出会うことがあるでしょう。『それが決まりだから』『法律にそう書いてあるから』――その言葉が、人を傷つける場合もあります。そんなとき、あなた自身の『これはおかしい』という感覚を大切にしてほしい。それは、『良心』と呼ばれるものです」
良心
絹は、その言葉に静かに胸を打たれた。
絹は思い出していた。
絹の父は地元の村議会で村長に抗い、村の有力者たちから白い目で見られた時もあった。
母はそんな父を支えながら、「女には学問は要らぬ」と言う親戚たちの前で、高等女学校へ進学する私のために、ただ黙って頭を下げてくれた。そして、絹にだけは「自分の頭で考えて、言葉にしなさい」と言ってくれたのだった。
田中の講義は続く。
「ソクラテスは、国家の命令に背いて死を選びました。イエス・キリストは、律法よりも愛を選びました――もちろん、私たちが常に英雄になれるわけではありません。でも、法を学ぶ者として、『正しさとは何か』を問い続けることは、できます。それが、私が皆さんに、まず第一に伝えたいことです」
田中の熱い講義の後、教室に一瞬、沈黙が支配した。
まるで誰もが、自分のなかの「法」という概念を書き換えられたように、俯いていたのである。
トン、トン、トン。
絹は居ても立っても居られず、講師控室のドアをノックしていた。
言葉にしなければ――そんな気持ちが、どうしても消えなかったからである。
「田中先生……」
そう言いながら絹がドアを開けると、田中は穏やかに顔を上げた。
「はい。どうしましたか?」
「さきほど先生がおっしゃった、『弱い人のための法』という言葉が、頭から離れません……そんな法が、この国にあるんでしょうか?」
絹の声は震えていた。しかし、田中は真剣に頷いた。
「あります。けれど、それはまだ形になりきっていない。だからこそ、法を学ぶ人が必要なのです。声を上げる人、痛みを見逃さない人、そして、それを『言葉』にできる人が」
絹は、その時は、ただ、
「ありがとうございます」
としか、言えなかった。
深夜、下宿の部屋で、絹は今日の講義ノートを何度も見返した。
「法は、弱き者を守るためにある」
「正義とは、他者の痛みを見て見ぬふりをしないこと」
「良心は、沈黙のなかで叫んでいる」
田中の言葉が、絹のこれから歩む道の端に、小さくとも確かな灯火を落としているように思えた。
――私は、この国の「かたちにならなかった正しさ」を、拾い上げるような人間になりたい。
それが、たとえ女であるというだけで笑われても。
法が私を守ってくれないなら、私が誰かを守る法になる。
絹は、手にしていた鉛筆を握りしめた。
数日後、絹は記者証を胸に、浅草の商店街にいた。
田中の言葉を受け止めた以上、彼女はその「民の声」を記さねばならないと思ったからである。
煎餅屋の女将は、米の値上がりと燃料費の高騰に苛立ちを隠さなかった。
「米1升12銭が30銭てのは、殺す気かって話ですよ。子どもらに腹いっぱい食わせることすら出来んのに」
時計屋の奉公人は、しきりに顔色を伺いながら語った。
「お客は来ます。でも、直すのは一銭時計……値の張るやつは、質屋に出されたままです」
銭湯の脱衣所で掃除をしていた老婆は、かすれた声で呟いた。
「わしら年寄りは、米さえありゃええが、若い者は、怒っとる……この窮状を偉いさん方はわかってるのか、言うて」
絹は取材ノートを閉じた。
語られた声が、そのまま原稿になりそうなほど、鮮明だった。
翌日、「東京タイムス」は川戸絹の署名入り記事を紙面に載せた。見出しは「民の声を聴け」。
民の声を聴け
市井の声は鬱積し、日を逐ふて愈々切実となれり。米価は近年倍増し、薪炭
の値また騰貴を重ぬ。台所を司る婦人らにとり、是以上の重荷は堪へ難きもの
と化せり。
本紙記者、昨日下谷・本所方面を巡歴し、庶民の口より直に聞き得たる窮状
を、茲に伝へんとす。
煎餅屋の女将は、苛立ちを隠さぬ顔でこう言った。
「米一升十二銭が三十銭では、殺す気かという話ですよ。子供らに腹いっぱい食
わせることすら出来やしません」
時計屋の奉公人は、しきりに主の顔を窺いながら語った。
「お客は来ます。でも修繕を頼むのは一銭時計ばかりで、高価なものは質屋に入
ったまま戻りません」
銭湯の脱衣所で掃除をしていた老婆は、かすれた声でつぶやいた。
「年寄は米さえありゃええが、若い者は怒っとる。この窮状を偉いさん方はわか
っとるのか、ってな」
斯くの如き訴へ、枚挙に遑あらず。政府は果して民の声を耳に容れ、然るべき
策を講ずるや否や。本紙は重ねて此の声を伝へんと欲す。
(「東京タイムス」大正7年4月28日号 川戸絹)
別の日。
神田の古本屋街を歩いていた絹は、急に降り出した雨に慌てて近くの古本屋の軒先へと駆け込んだ。
黒い革鞄を抱え、雨粒が落ちる音に耳をすませる。
するとそこには一人、背の高い中年男が静かに立っていた。
細い黒縁眼鏡の奥の瞳は柔らかく、しかしどこか芯の強さを感じさせた。
「君も雨に困ったのかね?」
と、その男は絹に声をかけてきた。
「ええ、傘を持たずに出てしまいまして」
絹は少し恥ずかしそうに答えた。
「そうか……もしかして、明正女専の生徒さんかな?」
男はにっこり笑い、ソフト帽のつばを少し上げて言った。
「はい……あっ!」
絹は大声を上げた。誰あろう、絹は明正女専でこの男の授業を受けている。
「杉村楚人冠先生、ですよね?」
男は頷いた。
杉村楚人冠は本名廣太郎。この時、「朝日新聞」本社調査部部長を勤めている生粋の新聞人である。明正女専では講師として「新聞学」の講義を受け持っていた。
「今年度はまだ一度しか授業をしていないのに、よく覚えていてくれたな。誠に嬉しい。君のような若い女性が報道の世界を志すとは、頼もしい限りだ」
「先生は、ジャーナリズムに何を求めていらっしゃいますか?」
絹の声には真剣な響きがあった。
杉村は少し目を細め、遠くを見るように語り始めた。
「報道とは、民衆の声なき声をすくいあげる役割だ。時には権力に抵抗し、時には社会の闇を照らす。だが最も大切なのは、誠実さだ。誠実なる記者であれ。虚飾や感情に流されてはならない」
「声なき声……」
絹は自分の胸の奥に響く言葉を感じていた。
「記者は水汲みの役目に似ている。深い井戸から真実の水を汲み上げ、民に届ける。だが、水を濁らせる者も多い。だからこそ、己が水差しを清らかに保たねばならぬ」
「私も、そんな記者になりたいと思います」
杉村は微笑んで言った。
「ならば、忘れるな。言葉の力は大きい。しかしそれを使う者の姿勢こそ、信頼の礎となるのだ。君が真摯に歩むなら、私は応援しよう」
雨がやみ、軒先の空が少し明るくなった。
絹はその言葉を胸に刻み、深く礼をしてその場を去った。
夜に下宿に戻ると、階下では佐倉夫人が蝋燭の灯を囲んで針仕事をしていた。
「遅かったね。市中は、騒がしいのかい?」
絹は「はい」とだけ答えた。
けれど胸の中には、はっきりとした輪郭を持った思いが芽生えていた。
夜学で学ぶ法の理念。下町で聞く民の声。そして先達から受けた叱咤。
すべてが、一つの線になって、自分の背を押している。
まだ、書くべきことは山ほどある。
まだ、聞かねばならぬ声が、街のあちこちにある。
絹は机に向かい、鉛筆を取った。
静かに、けれど確かに、物語が動き出していた。
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