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絹の国  作者: 喜多里夫
第六章 戦時下の活動

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第45話 遺された手帳

 いよいよ、この日がやってきた。

 第二次欧州戦争において戦局の帰趨を決した日。

 1944(昭和19)年6月6日。

 

 作戦計画、ノルマンディー上陸作戦――作戦名「オーバーロード」。

 連合軍はフランス北部に橋頭堡を築き、ドイツ占領下の西欧へ大規模侵攻を行う。

 米・英・カナダ軍と共に、日本軍も戦いに加わる。第一次欧州戦争、あの西部戦線の戦場が、再び日本の将兵たちの足で踏みしめられる。再び、連合国の一員として、しかも今度は明確にデモクラシーの国の一員として、ファシズムを倒すために。


 日本軍の役割は二つ。

 一つは、ジュノー海岸とオマハ海岸の間に設定された新たな上陸区域「サクラ・ビーチ」の確保。ジュノービーチはカナダ軍の、オマハビーチはアメリカ軍の担当だった。

 ここを突破すれば、カーン方面への進撃が容易になる。

 二つ目は、空母艦載機と第21航空戦隊の戦闘機による制空支援だ。新型の戦闘機、紫電改がイギリス本土の飛行場から発進し、ドイツ空軍を封じ込める。


 陸軍上陸部隊の先陣を切るのは、第5師団歩兵第11連隊。海岸確保には97式中戦車改(改良砲搭載型)を装備した戦車隊が突破口を広げる手はずになっていた。


 坂井正一等兵は、港に停泊している輸送艦の狭いベッドに横たわっていた。波の音と、鉄板を叩くような低い振動が眠りを妨げる。

 隣の棚では、米軍支給のチョコレートをかじる伍長が呟いた。


 「明日は……浜を駆けるんだよな。砂浜ってのは、走りづらいぞ」


 「走る前に撃たれなきゃいいですがね」


 坂井は笑おうとしたが、喉が乾いて声が上ずった。


 艦内の照明は消え、非常灯だけがぼんやり赤く光っている。甲板では将校たちが、連合軍の地図を囲んで最終確認をしていた。

 港では日本語と英語が入り混じる声、カナダ兵の笑い声、米軍軍曹の怒鳴り声。坂井は、世界中の軍隊が同じ浜に殺到する光景を想像した。


 「夜が明けたら、もう戻れない」――そう思った途端、胃が縮むような感覚が押し寄せた。


 6月6日午前6時半。

 海岸線が見える頃、艦砲射撃が始まった。日本の「比叡」「霧島」「榛名」「金剛」から放たれた36センチ砲弾が、ドイツ軍陣地に巨大な土煙を上げさせる。米海軍の戦艦も次々に砲撃、空ではスピットファイアと零戦が低空をかすめた。


 坂井は上陸用舟艇に乗り込み、揺れと海水の飛沫に耐えていた。舟艇の舳先からは、砂浜に並ぶ鉄製障害物と、土嚢で固められた機関銃座が見える。

 機銃の閃光。水柱が舟艇の周囲で次々と上がる。


「頭を下げろ!」


軍曹の怒号と同時に、隣にいた兵士が胸を押さえて倒れた。


 舟艇が砂浜に突っ込む。ランプが下り、坂井は銃を握って飛び出した。足元はぬかるみ、砂と海水で膝まで沈む。耳は砲声で麻痺し、口の中は血の味がした。


 午前9時。浜の一部は確保されたが、ドイツ軍の反撃は激しかった。

 濃い影が煙の向こうから迫る。やがて、それは鋼鉄の巨獣となって姿を現した――。

 バンカーの奥から、虎のような影が現れる。ティーガーI重戦車だ。

 坂井の背後から、歩兵支援用の97式中戦車改が砂浜を駆け上がる。改良型の長砲身57mm砲が唸りを上げるが、放たれた砲弾はティーガーの分厚い正面装甲で火花を散らすだけだった。


 「跳ね返された!」


 戦車長の悲鳴に近い声が無線に混じる。

 次の瞬間、ティーガーの88mm砲が火を吹き、97式の砲塔が吹き飛んだ。炎と黒煙が砂浜を覆い、戦車兵の叫びが途切れる。

 横からの迫撃砲の砲撃が、ようやくティーガーの履帯を破壊して動きを止めたが、その間に多くの歩兵が倒れていた。


 午後、連合軍の戦車と歩兵が連携し、丘陵地帯の防御陣を押し崩した。

 坂井は塹壕に飛び込み、グレネードを放り込む。ドイツ兵が叫び声を上げて逃げ、戦線が後退していく。

 カーンへの道路が見えた時、坂井はようやく深呼吸した。


 浜辺を振り返ると、まだ煙が立ち昇り、燃える97式が黒い影のまま残っていた。


 夜。

 仮設陣地で、米軍の配給缶詰を開ける。坂井は匙で中身を口に運びながら、向かいの米兵が家族の写真を眺めているのを見た。

 今日倒れた兵士の顔が脳裏に浮かぶ。


「俺って、意外と運がいいのかも知れないな」


 坂井はポケットから婚約者の写真を取り出して見ながら呟いた。

 外では、英語の笑い声と、フランス語らしい囁きが夜風に混じっていた。

 戦いは、まだ始まったばかりだった。




 同日。東京は正午を少し回ったばかりだが、外は梅雨の湿気が立ちこめ、官邸の窓硝子を鈍く曇らせていた。

 絹は総理大臣執務室に隣接する閣議室の椅子に腰を下ろし、手帳を膝に置いていた。日付の欄に書き込まれた予定は、今朝から大きく塗りつぶされている——〈欧州戦線・重大行動〉。それは外務省の暗号電報班からもたらされた一報に端を発していた。


 現地時間6月6日午前6時30分。ノルマンディの海岸に、連合軍が大規模上陸作戦を開始。今まさにその渦中にあるはずだ。遠く仏国ノルマンディの浜辺と、この東京・永田町の静けさとの落差が、かえって不気味に思える。


 杉山元参謀総長は、軍服の胸章を指先でなぞりながら無言で時計を見つめていた。まるで秒針の一つ一つが欧州の潮騒を運ぶかのように、耳を澄ませていた。

 幣原喜重郎外相は、細い手で眼鏡の端を押し上げると、手元の資料に目を走らせている。そこには英独双方の公電の要約、連合軍部隊編成の推定、そして「これが西部戦線の決定打になるや否や」という大きな疑問符が並んでいる。


 「仏北岸の天候は?」


 杉山が低く問う。

 答えたのは海軍省からの連絡将校で、


「夜半から波高し、だが上陸可能な見込み」


と抑揚なく告げた。

 幣原が短く息を吐く。


「ならば、連合軍側は覚悟を決めたのでしょうな。」


 絹は二人のやり取りを聞きながら、胸の奥にひりつくような緊張を覚えていた。日本軍の上陸部隊は6個師団。

 机の上の珈琲はすっかり冷えていた。飲もうと手に取るが、唇に触れる前にまた書類に目を戻してしまう。


 窓の外でカラスが二声鳴いた。湿った空気の中、時間だけがのしかかるように進んでいく。

 杉山は地図を広げ、赤鉛筆でノルマンディ沿岸に印をつけている。その筆圧の強さに紙がわずかにしわを寄せた。


 絹は、自分が明正女専の夜学に通っていた頃聴いた、美濃部達吉博士の講義をふと思い出した。あの穏やかな口調で、「戦争とは政治の延長にして、同時に政治の破綻でもある」と語った日のこと——。


 午後1時を告げる時計の鐘が、官邸の静寂にゆっくりと響いた。誰も言葉を発さない。

 外では小雨が降りはじめ、瓦屋根を叩く音が、遠い欧州の砲声のようにも聞こえた。


午後1時55分。


その時、重い扉が二度、短く叩かれた。通信士官が、まだ呼吸を整えきれないまま入室してくる。手にした電報用紙は汗で指に張りついていた。


「……欧州派遣軍司令部より緊急電であります!」


ざわ、と室内が動く。岡田首相が顎を引くと、通信士官は深く息を吸い、よく通る声で読み上げた。


「『ワレ上陸ニ成功セリ』。連合軍は上陸に成功した模様であります」


 一瞬、言葉が宙に浮いたまま固まる。幣原外相は眉をわずかに上げ、隣の杉山参謀総長は椅子の背にもたれながらも、眼光を鋭くした。


「…ついに始まったか」


と、杉山が低くつぶやく。豊田軍令部長はすぐに机上の地図を引き寄せ、英仏海峡の位置に指を置いた。


「現地時間は朝の6時だな。第一波は成功か……だが、これからが本番だ。」


 幣原は、胸ポケットから眼鏡を出し、レンズを軽く拭いながら、


「これは、欧州の地図を塗り替える一手になるでしょう」


と、静かに言った。


 絹は、書類の上に置いたペンを握り直した。

 上陸成功——それは、戦局の均衡が破られた瞬間であり、欧州派遣軍の将兵の命運にも直結する知らせだ。彼女の耳には、ラジオから流れるはずの、まだ聞こえぬ戦地の海鳴りが幻のように響いていた。


 同時刻、銀座四丁目交差点。


 街頭テレビから、アナウンサーの声が響く。


「臨時ニュースをお伝えします――」


 買い物袋を下げた主婦、背広姿の会社員、制服の学生たちが立ち止まり、耳を傾ける。


「連合軍は本日、フランス・ノルマンディ沿岸において上陸作戦を敢行、成功した模様です」


 ざわっ、と群衆が揺れた。


「おい、これで戦争が終わるのか?」


「馬鹿言え、まだ始まったばかりだ」


 甘栗の屋台から香ばしい匂いが漂い、遠くからはジャズの流れる喫茶店の音が混じって聞こえる。

 晴れ間の下で、東京は相変わらず戦時とは思えぬほど明るかったが、人々の目だけは、いまや欧州の荒れ狂う海岸線を想像していた。


 同時刻、「東京タイムス社」編集局。


 午後の原稿整理に追われる編集局。カタカタとタイプライターの音が響く。

 外信部デスクの机に、電報紙が叩きつけられた。


「来たぞ! ノルマンディだ!」


 記者たちが一斉に立ち上がり、長机に身を乗り出す。


「連合軍、上陸成功――本当か?」


「司令部筋からの第一報だ。誤報じゃない」


 村岡編集長が額に手を当てたまま短く指示を飛ばす。


「号外だ。写真部は欧州特派員からのフィルムを急げ! 見出しはでかく『連合軍、欧州上陸』だ!」


 窓の外では、隅田川を渡る風が、号外用紙を裁断する機械音に混じって吹き込んできた。

 かつて絹の同僚だった政治部デスクの河合奈緒美が呟く。


「遠い話じゃない……これで、我が国の戦後の立場も決まってくるでしょう」


 編集局の空気は熱気と緊張で震えていた。誰もが、今夜の東京がいつもよりざわつくことを予感していた。




 6月下旬、東京。薄曇りの空から差す光が、厚生省の広い廊下を淡く照らしていた。

 正面玄関を抜けた廊下には、戦死者の遺品が段ボール箱に詰められ、天井まで積まれている。軍服、銃剣、手帳、家族への書簡、写真——。どれも、一度は生きていた人々の痕跡を伝えていた。


 絹は大臣室を離れ、廊下の奥に並べられた段ボール箱の群れの前に立った。手に取るのはその箱の中にある誰のものか分からない小さな手帳や、日焼けした写真。目を伏せたまま、絹は一つずつ手に取り、目の前の文字を追う。


「……坂井……」


 彼女は厚生省に届いた遺品の山から、広島第5師団に所属してノルマンディ上陸で戦死した坂井一等兵の手帳を見つけた。表紙は擦り切れ、角は折れ曲がり、長く使い込まれた様子がうかがえる。中には出征前の短い日記、家族への手紙、訓練中のメモが詰まっていた。


 絹は慎重に手帳を抱え、厚生省の職員の前を通り抜ける。廊下の窓から差す光が手帳のページをかすかに照らし、坂井の文字が微かに揺れるように見えた。彼の字には、若さと緊張、そして兵士としての誇りが滲んでいた。


「これを、広島で……」


 絹は呟き、上着の内ポケットに手帳をそっとしまった。


 7月14日。

 東京から広島へ、戦没者合同慰霊祭に向かう高速列車の中でも、絹は表情を変えず、手帳を握りしめた。窓の外の風景が過ぎていくが、彼女の視線は遠く、過去と未来の間に揺れているようだった。絹には汽車の汽笛が死霊のむせび泣きのように聞こえた。


 広島駅に着くと、街は初夏の光に包まれ、蝉の声が遠くで聞こえる。駅前には戦死者の家族、遺族会の人々、そして市民の一団が集まっていた。合同慰霊祭の会場は産業奨励館に設営され、簡素な祭壇の前には花が並べられている。


 絹は広島第5師団の留守師団長に案内され、祭壇の近くに立った。周囲には遺族たちの涙と静寂が漂い、時折、鳥の鳴き声が空に吸い込まれていく。彼女は手帳を抱えたまま、祭壇に近づく。


「……坂井様のご遺族はこちらでしょうか?」


 留守師団長が指差した先には、若い女性が立っていた。白いワンピースに袖を通した若い女性。左手の薬指に指輪の跡が薄く残っていた。手には白いハンカチ、目には怒りとも悲しみともつかない光が宿っている。坂井の「元」婚約者だった。


 絹は手帳を差し出す。


「これは……」


 女性の目に怒りが宿った。


「何のつもりですか! あなたは……人殺しぃぃっ!」


 絹は言葉を返さなかった。握りしめていた手帳を、静かに遺族の手に置くだけである。肩越しに彼女の視線を感じながら、絹はその場を離れ、祭壇の後ろの空間に足を運んだ。


 人々の嘆きと静寂が、7月の光の下で一つに溶ける。絹の胸に去来するのは、先次欧州大戦で戦死した自らの婚約者の顔。あの顔が、若い兵士たちの表情と重なる。


 祭壇の向こう、遺族の泣き声に混じり、蝉の声が夏の匂いを運んでくる。絹は立ち止まり、短く息をついた。言葉は必要ない。遺族の掌に触れた手帳が、戦場の遠くまで届くことを願うだけだ。


 絹の手帳の存在も、坂井の命も、報告の数字の前では小さな点に過ぎない。だが、彼女の心は重い。生き延びた者の役目は、死者の名を刻み、遺族の手に届かせること——それだけなのだ。


 合同慰霊祭の会場では、坂井の婚約者がまだ手帳を握りしめ、絹の背中を睨んでいた。その瞳には怒りと絶望、そして理解しきれぬ感情が混ざり合っている。絹は振り返らず、静かに祭壇を後にする。蝉の声と人々のざわめきが、彼女の足音に寄り添う。


 海から吹く風が祭壇の花を揺らす。遺族の涙が光に反射し、坂井の手帳のページも風にそっと揺れる。


 絹は静かに、深く息をつき、祭壇の片隅で立ち止まる。胸の奥に去来するのは、戦争が生む無数の悲劇と、それを背負う人々の重さ。手帳を握る手に力を込め、彼女は遺族のもとを離れた。


 7月の空は、静かで重い。蝉の声も、風の囁きも、戦死者の遺品と共に、時間の流れに溶け込んでいく。絹は手帳を胸に抱き、戦死者たちの名を心に刻み、静かに広島の街を後にした。




 しかし、その頃、遥か西の欧州では、絹の思いを打ち砕くかのような出来事が起ころうとしていた。

 ヒトラーはノルマンディでの日本の参戦に激怒した。

 報復命令——それは、V2ミサイルの拡大改良型であるA10ミサイルで直接、日本本土を攻撃するというものだった。

 戦争は遠く離れた場所で、再び円を描くように絹たちの元へ戻ってこようとしていた。

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何卒よろしくお願いいたします。



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